「思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである」
11月21日の毎日新聞のコラム、反射鏡によれば、40年前の三島由紀夫の自決直後、司馬遼太郎は「異常な三島事件に接して」と題する3000字を越す文を毎日新聞に寄稿したそうで、これはその文中の言葉です。
司馬は「幕末の思想家、吉田松陰を引いて「思想」がいかに取り扱い注意の危険物であるかを論じながら三島の思想(=美)と自決との関連を解析した」と同コラムは解説しています。
一方、季刊誌「考える人」にはこれに関連する記述があり、一部を引用します。
『三島自決の1ヶ月後に行なわれた鶴見俊輔との対談「日本人の狂と死」も興味深いものです。ここで司馬は、終戦の直前、米軍の本土上陸の際には東京に向かって進軍して迎え撃て、と命じた大本営参謀に、途中、東京からの避難民とぶつかった場合の対応を尋ねます。すると、「その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。……『ひき殺していけ』と」。司馬は「これがわたしが思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点です」と語ります』
司馬はこの終戦直前の経験から思想というものに懐疑心を持ち続け、その後の洞察を通じて「思想は虚構」という結論を得たのでしょう。当時、思想というものには今より高い価値が与えられていたと思われるので、この司馬の言葉はずいぶん刺激的であったことでしょう。
まあ司馬は三島の自決を思想に結びつけて理解したわけですが、三島は思想が虚構であることを承知の上で自決を選んだ可能性も否定できないと思います。現実的なものに価値を見出せなくなったとき、敢えて虚構の世界に身を投ずることは考えられないことではないからです。
思想に神秘的な味付けをすれば宗教になります。「思想は取り扱い注意の危険物である」も巧みな表現だと思いますが、これは宗教にもそのまま適用可能です。思想や宗教の持つ影響力の大きさを考えると、人間の頭というのはこうした観念に易々と騙されやすく作られているものだ、とつくづく思ってしまいます。
私なら、司馬の言葉をもっとわかりやすく「あらゆる思想と宗教は嘘っぱちである」と言いたいところです。いささか品に欠けますが。
11月21日の毎日新聞のコラム、反射鏡によれば、40年前の三島由紀夫の自決直後、司馬遼太郎は「異常な三島事件に接して」と題する3000字を越す文を毎日新聞に寄稿したそうで、これはその文中の言葉です。
司馬は「幕末の思想家、吉田松陰を引いて「思想」がいかに取り扱い注意の危険物であるかを論じながら三島の思想(=美)と自決との関連を解析した」と同コラムは解説しています。
一方、季刊誌「考える人」にはこれに関連する記述があり、一部を引用します。
『三島自決の1ヶ月後に行なわれた鶴見俊輔との対談「日本人の狂と死」も興味深いものです。ここで司馬は、終戦の直前、米軍の本土上陸の際には東京に向かって進軍して迎え撃て、と命じた大本営参謀に、途中、東京からの避難民とぶつかった場合の対応を尋ねます。すると、「その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。……『ひき殺していけ』と」。司馬は「これがわたしが思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点です」と語ります』
司馬はこの終戦直前の経験から思想というものに懐疑心を持ち続け、その後の洞察を通じて「思想は虚構」という結論を得たのでしょう。当時、思想というものには今より高い価値が与えられていたと思われるので、この司馬の言葉はずいぶん刺激的であったことでしょう。
まあ司馬は三島の自決を思想に結びつけて理解したわけですが、三島は思想が虚構であることを承知の上で自決を選んだ可能性も否定できないと思います。現実的なものに価値を見出せなくなったとき、敢えて虚構の世界に身を投ずることは考えられないことではないからです。
思想に神秘的な味付けをすれば宗教になります。「思想は取り扱い注意の危険物である」も巧みな表現だと思いますが、これは宗教にもそのまま適用可能です。思想や宗教の持つ影響力の大きさを考えると、人間の頭というのはこうした観念に易々と騙されやすく作られているものだ、とつくづく思ってしまいます。
私なら、司馬の言葉をもっとわかりやすく「あらゆる思想と宗教は嘘っぱちである」と言いたいところです。いささか品に欠けますが。
①考えられたこと。かんがえ。
②(哲)思考内容。特に体系的にまとまったものをいう。
社会・人生に対する全体的な思考の体系。
となっています。
まあ私は②の意味で使っているわけでフラットさんは①をも含められているということでしょう。
あらゆる思想と言いましたが、②の意味でのすべての思想という意味で使いました。
また性善説を単に考え方とおっしゃいましたが、儒学において孟子が唱えた立派な「思想」です。まあ考え方そのものがすでに思想なんですが。
司馬遼太郎には司馬史観というものがあるとされております。明治期までは日本人に夢と希望があり、日露戦争を戦った一軍人を主人公にした坂の上の雲などを書いています。しかしその主人公が新興宗教にはまっていたことなどにはあまり触れていません。都合が悪いからか知らなかったのかは定かではありませんが、元新聞記者である彼が事前に調べていないということは考えられませんよね。
一方、昭和に入ってからの日本のありようには非常に否定的です。なぜそうなったのかを論ずる必要はないでしょうが、そこには彼の明確な「思想」が現れている。日露戦争も大東亜戦争も悲惨でエゴイスティックであることに違いなどあるはずもないのに彼は彼なりの線引きをしたのです。司馬史観といわれるその思想に基づいて。
嘘だろうとエゴだろうと「思想」なしに人は歴史を創れません。なにしろ歴史という学問そのものが思想というバイアスによって記録されているのですから。そして歴史とは人の営みそのものです。
思想とは人の逃れえぬ業そのものであるとアタシは考えます。
また法は善悪の観念に基づいて作られているとのことですが、法はまず共同体の安定的な維持の必要性から定められ、それが善悪の観念に結びついたと考えています。したがって法治を否定することにはならないと思います。
司馬は天皇を中心とした軍国主義や散華の思想などを念頭において、虚構と言ったものと想像できます。健康のために一日5km歩くとか、肉食を避けるとかを思想と呼んだのではないでしょう。
従って思想を全否定するということは法治を否定するということと捉えることができます。
帰納的ですが以上からするとオカダさんは性善説的アナーキズムを目指しておられる?
性善説も一つの思想ですが‥‥。
相互に影響されながら築かれるコミュニティ(いわゆる3人以上)においてはつねにマジョリティとマイノリティが発生します。どちらもミニコミを形成する中で必ず思想が生まれます。従って、思想から逃れるためにはまったくの孤独な暮らしをしなければならないでしょう。
しかしその孤独生活の中で理想を持ってしまったら‥‥たとえば毎日必ず風呂に入るとか、健康のために一日5km歩くとか、肉食を避けるとか‥‥それもやはり思想。
思考力、想像力、理性等々、考えることをやめない限り人は思想から逃れられないのではないでしょうか。
それに「ついてる、ついてない」とか、「誰かなんとかしてくれ」と思ったことがない人間はいないんじゃないかな。宗教の始まりなんてそんなところからでしょう。
自身の「主観」からみて善人もいれば悪人もいる。悪い宗教もあれば善い宗教もあるでしょう。宗教自体が悪いんじゃなくてそこに善悪の差があることが問題なのでしょう。
ちなみに大東亜戦争時、米軍では「善い日本人は死んでいる日本人だけだ」と言われていたそうです。
とってもファッキューです。