風は東楡の木通りから

クリスチャンフルート吹きパスピエの愛する音楽、猫たち、薔薇の毎日

わらべさん

2006-02-08 00:12:47 | Weblog
泣けて泣けてしょうがなかった。

私の大好きなわらべさんが亡くなったのだ。

今日は彼女のお通夜だった。焼香は遠慮し、子供たちと私は白い花で献花をし、ともに彼女と彼女の遺族のために黙祷した。

彼女と会ったのは長男が幼稚園の時だった。
集団になじめず、今考えればアスペの症状があのころからあったのだが、そのころは発達障害があるとは知らず子育てに悩みまくっているような時だった。

そんな時、いつも買い物をする店の向かい側、小さな絵本のお店「わらべ」を見つけた。そこで店主のわらべさんに出会った。私も子供たちも「わらべさん」とか「わらべのおばちゃん」とかよんでいた。いつも明るく、元気で、気さくな彼女。絵本を買いに行くと、子供たちをかわいがってくれて、いつも面白いことを言って笑わせてくれた。子供たちは「わらべのおばちゃん」が大好きだった。

子供好きな彼女は月に1回、親子の遊びの会を企画していた。
「おいでよ。すごくおもしろいからさっ」その彼女の一言で参加した遊びの会は本当に楽しいものだった。

自然の中でのザリガニつり、昆虫探し、ハイキングしながら植物を探したり、泥んこ遊び、餅つき、川の土手でヨモギを取ってきてヨモギ餅をつくったり、バーベキューをしたり、昔の遊び、田植え、稲の脱穀体験などなど、まるでガキ大将のように彼女が先頭きって子供たちをひきつれていた。

そのころの長男は限定された興味へのこだわり、集団行動ができず、それも一方的に興味のあることだけべらべらと話すのでいわゆるキャッチボールのような会話は成り立たないころだった。周りからも変わった子供と思われるのが常だったのだが、わらべさんはそんな長男をそのまま受け止めてくれた1人だ。

私たちが渡米した後、長男の発達障害がわかった時もすぐに手紙をくれたのはわらべさんだった。「つらかっただろうね、大変だったね、近くだったらすぐにでも飛んでいきたいのに」異国の地で不安で孤独だった私にはその手紙でずいぶん癒された。

それから絵本の店をやめてしまってからもずっと遊びの会を続け、癌になってからも体調の幾分か良い時は子供たちに遊びの場を提供し続けたのだ。

彼女と最後に会ったのは8月の虫取りに一緒に行ったときだ。癌であることを忘れさせるくらいに元気だった。その後も遊びの会のお誘いだけは受けていたのだが、いつも日曜日の礼拝と重なってしまうためお断りせざる得なかった。「そのうちお茶でも一緒にしよう」などと思っていたのでわらべさんが亡くなったという知らせに愕然となった。

「あんなに元気だったのに・・・・」

遺影を見ながら涙が止まらなかった。いつも私の支えになってくれた彼女に私は何もお返しすることができなかった。

電話で聞く彼女の声はいつも元気いっぱいだったから、まさか年末から入院していたとは知らなかった。

心身ともにつらい時だってあったに違いない。せめて会って少しの間の時間でも分かち合いたかった。それが悔やまれてならなかった。