村上雅則 日本人初メイジャー・リーガー
今日は、1814年9月1日にウィーン会議が始まってから
200年の日にあたる。
ナポレオンの皇帝退位(エルバ島の少領主身分に堕とされる)後
欧州の戦後処理で、これによっていわゆる
"ウィーン体制"が敷かれることとなった。
各国の利害が対立して会議は遅々として進まなかったのだが、
ナポレオンのエルバ島脱出の報にあわてて議定書が締結された。
この様子が
「会議はオドール、されど進まず」
と言われたからか、今から50年前の1964年8月31日、
サン・フランスィスコウ・ジャイアンツとのマイナー契約でそのスィーズンを送ってた
南海ホークスの左投手村上雅則(1944-)は、
MLB昇格を言いわたされた。翌9月1日、
NYメッツの今はなきシェイ・ステイディアムで行われた
1対4とリードされた8回裏、
メイジャーに昇格したばかりの村上は、登板を告げられた。
メッツの5番、レフト、チャーリー・スミス(右打ち)を
見逃し三振にきってとった。が、つづく
6番、キャッチャー、クリス・カニザーロ(右打ち)にはラインドライヴ打を
センターにもってかれた。それでも、村上は
7番、ファースト、エド・クレインプール(左打ち)を空振りの三振にしとめ、
8番、ショート、ロイ・マクミラン(右打ち)をショート・ゴロにおわらせた。
弱小メッツ相手とはいえ、弱冠二十歳の堂々たるMLBデビューである。
このスィーズン、あと残りの1か月強で計9試合、
15イニングズを投げて、防御率1.80という成績を収めた。
村上は翌年もアメリカでプレイし、
45試合、74回1/3を投げて防御率3.75を記録した。
その翌年は南海が帰国させようとして日米の間に摩擦が生じた。
結局、日本でプレイすることになり、
例によってマスコミからのバッシングによって、
米国に復帰することなく、その後、
南海、阪神、日本ハムと移って、1982年のスィーズンをもって引退した。
その間の1968年には18勝、防御率2.38をあげるほどの好成績を残した。
日本でMLBが一般的になるのは、
村上から30年後の、やはりマスコミからさんざんバッシングされた
野茂のLAドジャーズでの活躍からである。以降、
イチロー、松井を経て、日本でにわかMLBファンが急増した。
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