「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県今帰仁村 ・ 沖縄の文化財 『 今帰仁村仲原馬場 』

2013-09-20 04:40:18 | 沖縄の文化財








今帰仁村仲原馬場
Nkahara - Baba at Nkijin - son

 ( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 34 ( 1959 ) 年6月1日 
Designaed Date : June 1,1959
所在地 : 沖縄県国頭郡今帰仁村字越地
Location : Koechi,Nakijin-son,Kunigami-gun,Okinawa-ken




仲原馬場は、今帰仁小学校の南隣にあり、幅約30m、長さ250mの長方形の馬場である。
その周りは高さ約1m、幅5~10mに土を盛り上げてつくられた観覧席があり、
大きな琉球松が植えられている。
馬場は古くから民俗行事を行う場として、また畜産奨励のための競馬場として設けられた場所である。
村の産業・教育の振興をはかる集会や大衆の娯楽の場としても利用されてきた。
戦前は、各村に二、三の馬場が存在したが、戦争で壊されたり、
あるいは耕地や宅地になったりして姿かたちを変えてしまった。
この仲原馬場は沖縄の馬場の形式を残した貴重な遺跡である。


This 30×250 meters rectangular riding ground is on the south side of Nakijin elementary school.
Baba is a place where folk events were conducted, and where was a racing track for encouraging
stock raising. It was also for educational promotion meeting and the public recreation.
Nakaharad-baba is a precious remain because it is the only existent
that has a characteristic of Okinawan baba



沖縄県国頭村 「 辺戸岬灯台 」

2013-09-20 04:35:29 | 沖縄の灯台



高さ11mの辺戸岬灯台














沖縄本島最北端の辺戸岬







辺戸岬の突端に建つ 「 祖国復帰闘争碑 」







辺戸岬にある 「 辺戸岬パーラー金城 」





灯台表番号 / 6983
国際番号
ふりがな / へどみさきとうだい
標識名称 / 辺戸岬灯台
所在地 / 沖縄県国頭郡国頭村(辺戸岬)
北緯  / 26-52-02 
東経  / 128-14-51
塗色 / 白色
灯質 / 単閃白光 毎6秒に1閃光 
光度 / 実効光度 3,700カンデラ
光達距離 / 12.0海里
地上~頂部の高さ / 11m 
平均水面上~灯火の高さ / 71m 
地上~灯火の高さ / 10.65m
業務開始年月日 / 昭和47年5月15日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)



辺戸岬灯台は、沖縄本島の最北端にある辺戸岬の西側に建つ灯台である。
地上から灯火までの高さは11mと沖縄本島最北端の灯台にしてはやや小型である。
そんな辺戸岬灯台の業務開始年月日は、沖縄が日本本土復帰した昭和47年5月15日であった。

この地は終戦後駐留したアメリカからの 「 祖国復帰闘争 」 が繰り広げられた場所でもある。
国境は 「 鹿児島県与論島 」 と 「 沖縄県の辺戸岬 」 の中間で、
「 復帰交流 」 の漁船が出逢っていたそうである。
その時に、双方から 「 のろし 」 を上げて復帰を願っていたそうだ。
同じ日本でありながら、本土に渡るにはパスポートが要った時代である。
そんな 「 祖国復帰闘争碑 」 が、今も与論島を見ながら辺戸岬に建っている。


辺戸岬灯台へのアクセス
辺戸岬灯台へは、国道58号線をひたすら北上し、辺戸岬手前から左に入り、
途中から海に向かって左に行くと灯台が見える。



平幕ただひとりの5連勝 「 嘉 風 」

2013-09-20 04:33:03 | 相撲








上位の横綱・大関・関脇が星を落とすなか、
横綱の白鳳と平幕の嘉風が5連勝と好調である。
嘉風は大分県佐伯市出身なので応援をしているが、
先場所は、叩き込みやいなされて落ちる負けが多かった。
だが、今場所はいろんな場面に対応できている。
それが、勝ち星につながっているのだろう。

176センチと力士の中では小兵だが、
機関車トーマスのように大きな力士を土俵の外まで押し出して欲しいものである。

頑張れ!嘉風



9月15日 「 十五夜の朝の月 」

2013-09-19 05:51:51 | 朝の風景とその他の風景








今朝5時に散歩に出ると
西の空の低い位置に
橙色になった月が浮かんでいた

今日は十五夜だ
うれしいことに
今夜 天気が良ければ
もう一度
月が観れる

「 早起きは三文の徳 」 だというが
一日に二度も月が観れるだけでも
得した気分だ




福岡県小郡市 ・ 日本で唯一の 『 七夕神社 』

2013-09-19 04:59:25 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



七夕神社の本殿









神社の入り口に大きな看板が目印になる







七夕の代名詞となっている 「 彦星と織姫 」 の像







神額に 「 姫社神社 」 と書かれている鳥居








神額に 「 姫社神社・織姫神社 」 と書かれた鳥居



















七夕神社の存在を知ったのは、歌手の前川 清がWエンジンのえとう窓口と一緒に旅をする
前川 清の笑顔まんてん 「 タビ好き 」 という番組である。
その番組で2人が筑後小郡市をめぐった時に最初に立ち寄ったのが 「 七夕神社 」 だった。
それを見て、 「 今度機会があれば行ってみよう 」 と、
上陽町の石橋や大川市の昇開橋の探訪をした帰りに立ち寄ったわけである。

ちなみに 「 タビ好き 」 は、一週間で唯一楽しみにしている番組である。


七夕神社は、地元では親しみを込めて 「 たなばたさん 」 と呼ばれているが、
正式名称は 「 媛社 ( ひめこそ ) 神社 」 となっている。
その歴史は古く、8世紀頃に記された 「 肥前国風土記 」 にも登場しているほどの古社である。
祭神は、媛社神 ( ひめこそのかみ ) と織姫神 ( おりひめのかみ )が祭られている。

織姫神は、機織りが上手な神様だった ようです。
古代では、神事に織物が重要な役割を担っていたことから、
機織りは女性にとって神聖な仕事でした。
そんなことから織姫神は女性に信仰されていたのも当然だと思われる。
そして、7世紀に中国から伝わった 「 牽牛 ・ 織姫 」 の故事と、
日本の 「 棚織女 ( たなはたつめ ) 」 信仰がひとつになって誕生したのが七夕信仰と言われている。
ところで、織姫と言えば、牽牛。
実は、中国には 「 天の川が地表に流れてきた川 」 と伝えられる「漢水」という河川があるが、
宝満川の流れや周辺の地形がその 「 漢水 」 と似ていることから、
これになぞらえて、七夕神社の東側を流れる宝満川を天の川に見立て、
対岸牽牛をまつる 「 牽牛社 」 がおかれていた時期があった。
(小郡市商工観光課発行・七夕本より)

▼場所   小郡市大崎1番地
▼アクセス 七夕通り 七夕神社西の信号を東へ3分
▼お問合せ先
小郡市埋蔵文化財調査センター 電話:0942-75-7555




沖縄県今帰仁村  『 こうりじまのおはなし 』

2013-09-19 04:57:24 | 沖縄








「 こうりじまの おはなし 」 を書いた著者は、古宇利島出身で名護市に住む渡具知綾子さん。
その渡久地さん親子と名護で一緒に飲む機会があり、2時、3時まで語って飲んだ。

ボクは、野良犬のような生活をしているので、その雰囲気に興味があったのか?
ひとりで飲んでいると声をかけられ、他のお客が引けてからしばらくしてそのテーブルへと移った。
その時に色んな話をしたが、古宇利島の話やユタの話。
島のしきたりや人生論など語り尽くせないほどだった。

あれから沖縄のやんばるに行く時は、みやげを持って立ち寄るが、
いつも娘さんが快く迎えてくれる。
そして必ず 「 旅の途中で食べてね 」 と、手づくりの物を渡してくれる。
そんな彼女やお母さんが愛する古宇利島の海の美しさは沖縄でも屈指だと思う。




競馬 ・ 点描 「 馬も人も必死 」

2013-09-19 04:55:15 | 競馬・ボート








「 それ!それっ! 」

見ている方も
追っている方も
思わず声が出る

馬も騎手も
そしてファンも
必死だ




愛~カナサ~ 新城京子 「 名も無き詩 」 と 「 月照らす涙星 」

2013-09-18 06:22:26 | 沖縄



愛~カナサ~ の 「 名も無き詩 」 と 「 月照らす涙星 」 が入ったCD












琉球王朝時代の薄幸の王女、 「 百十踏揚 ( ももとふみあがり ) 」。
彼女の ” 現代版組踊 ” を那覇の 「 パレットくもじ 」 で観た。
その中で挿入されていた愛~カナサ~の 「 月照らす涙星 」 と 「 名も無き詩 」 。



『 名も無き詩 』


作詞・作曲 新城京子


今日も聞こえる かすかなさけびが
島は語らずに サンゴは歌うのをやめた

もういいよ 笑わなくていいよ
もういいよ 泣いてもいいんだよ
君のその瞳に映る 未来に幸あれ

空に輝くあの星のどれかに今
あなたがいるのならば 私は詩を歌う

名も無き詩よ どうか届くように今
明日もこの先も永遠 ( とわ ) に響くように
そしていつの日か
あなたとまた会えますように

天ぬ風や 美らさぬまま 千代に八千代に
天ぬ風や 涙ぐわぁぬ ぐぅとぅく



護佐丸・阿麻和利 (ごさまる・あまわり) の乱

 14世紀から15世紀の琉球は、中山・北山・南山の三つのグスクを拠点に按司が支配していた。
その中で特に強い勢力を誇り、1429年に三山を統一したのが中山の尚巴志(しょうはし)であった。
その尚巴志に従い、三山統一に功績を残した人物が護佐丸である。
護佐丸は恩納村の山田城主であったが、尚巴志が北山を滅ぼした後、
山田城を取り壊した石材を使って読谷に座喜味城を築き、
後に中城城へ移るまでの18年間を居城として過している。

 一方、三山統一後に海外貿易の富で力を付けたのは、勝連城の阿麻和利であった。
その阿麻和利に対抗し王都首里を守るため、
護佐丸は首里城と勝連城との中間に位置する中城城に拠点を移し、
中部一帯の守りを固めた。

 尚巴志の死後、琉球は国王の在位年数が短かったため国の基盤が安定せず、
首里城内でも王位継承の争いが起こるなど不安定な状態が続いた。
こうした王国情勢のなか、阿麻和利の勢力は尚泰久にとっては恐ろしい存在だったため、
泰久は娘である百十踏揚(ももとふみあがり)と阿麻和利を攻略結婚をさせるほどであった。
また、尚泰久の妻は護佐丸の娘であるため、百十踏揚は護佐丸にとって孫にあたった。

 琉球の王位を望めるほど力をつけた阿麻和利は、中城城の護佐丸の存在を疎ましく思っていた。
1458年に一計を案じた阿麻和利は、中城城の護佐丸が軍兵を集めて謀反の動きがあると国王へ訴え、
それを聞いた泰久は、護佐丸を倒すために阿麻和利を総大将に命じて軍隊を中城城へ派遣した。

 その結果、護佐丸は阿麻和利の率いる王府軍に中城城を攻められ、無実の罪を着せられて自害してしまう。
一方この戦いに勝利した亜麻和利は、王位を奪うための準備をしている最中に、
百十踏揚の家来である鬼大城(おにおおぐすく)にその策略を気付かれ、逆に王府軍との戦になる。


鬼大城 (おにおおぐすく) の活躍と最期

 王府軍との戦いで首里城攻めに失敗し、命かながら勝連城に逃げ帰った阿麻和利への、
鬼大城を総大将とした攻撃もなかなか勝敗が決まらず長引いていた。
そこで勝連城内の地理に詳しい鬼大城自ら城内へ忍び込んで行き、阿麻和利の首を討ち取ったという。
その活躍により尚泰久から越来(ごえく)と具志川の両間切りの地頭に命じられた。
また、百十踏揚を妻に迎え、越来城を賜った。(一説には勝連城を賜ったとも言われている)

 鬼大城の死については諸説があるが、1469年内間金丸(うちまかなまる)がクーデターを起こし、
尚泰久の子である尚徳王を滅ぼした。
第一尚氏王統の縁故者である鬼大城の越来城も攻められ、
鬼大城は越来城を逃れ知花城に立てこもりそこで自害。あるいは焼き殺されたという説もある。


百十踏揚 (ももとふみあがり) にまつわる人物

 百十踏揚の父親は尚泰久であり、母親は護佐丸の娘である。
阿麻和利は前夫で、護佐丸は祖父にあたる。祖父は前夫に滅ぼされ、父は前夫を滅ぼしたのである。
そして、二度目に嫁いだ鬼大城も新王朝に滅ぼされてしまう。
晩年は島尻の玉城村で過ごし、その生涯を閉じた。

 王女、百十踏揚は絶世の美女だったが、その生き様は薄幸の生涯だったのかもしれない。


鬼大城 (おにおおぐすく) について

名前  大城賢勇 (おおぐすくけんゆう)
唐名  夏居数   ( かきょすう )
喜屋武城主の栄野比大屋子の長男
1454~1460年に尚泰久に仕えていた。
鬼大城の由来
「 鬼 」とは超人の意の表れであり、武勇に優れ、
強かったことから「 鬼 」と呼ばれるようになった。 









『 月照らす涙星 』


作詞 ・ 作曲 新城京子


孤高に浮かぶ孤独な月 貴方と私を繫ぐ光
満ちゆく海に儚く消えるあの詩
泡沫のごとく まるで夢のごとく

風と波よ2人を繫ぐ月よ
永遠に散ざめく星よ
この涙を届けて 貴方に 貴方に

満ちゆく月が照らすは未来
波は静かに過去をさらってゆく
空に舞う群れ星に消えゆく願い
泡沫のごとく まるで夢のごとく

風よ波よ2人を繫ぐ月よ
永遠に散ざめく星よ
この涙届けて貴方に
貴方にこの涙を届けて

永遠に2人で繫ぐ月の光
貴方と



大分県院内の石橋 77 「 葛灰 ( かずらはい ) 橋 」

2013-09-18 06:20:35 | 大分の石橋



永さ3.5mの3本の桁が小川を跨ぐ








石はきれいに真っ直ぐに切られている







厚さ約40cmの桁が3本並んでいる







対岸の橋台は大きな石で築かれている







こうして見ると橋の造りがよく分かる







斜めに削った桁をクサビのような石で止めている







路面を合わせるために橋台で高さを調整している







葛灰橋への入り口がある旧・国道387号線のカーブ





所在地 /  大分県宇佐市院内町田所 : 田所川
架橋  /  不明
石工  /  不明
長さ   /    3.50m   幅   /  1.50m
高さ  /     2.40m  径間  /  2.10m
桁厚  /    40㎝   
単径間桁橋


葛灰橋は、現在は国道387号線が新しくループ橋になったため
旧・国道387号線を通らなくなったが、
その国道の一番奥のカーブを流れる田所川に架かる橋である。
橋は道路脇に出ている橋の案内板から山道を約8分ほど歩いて入った右側に架かっている。
現在の状況からすれば考えられないが、
その当時は山の中の桁橋が必要だったのだろう。

葛灰橋へのアクセス
葛灰橋へは、国道387号線をループ橋の方に行かないで、
旧・国道387号線を奥まで詰めるとカーブになった場所に橋が架かっている。
その50mほど先に右に入る道があるのでそこから7、8分ほど行くと右手に小さな看板がある。
そこを右に下りると橋が架かっている。
駐車は上の写真のカーブの広くなった場所に駐車した。



大分県日田市  「 日田グルメ ・ 日田まぶし 『 千 屋 』 」

2013-09-18 06:18:10 | グルメ





















昔から日田の街が好きで高校時代はよく自転車で往復したものである。
今は自転車で行くことはしないが、
今でも思い立ったら日田まで車を走らせる。

絶対的な数の減少で今や希少価値になりつつあるウナギ。
そんなウナギを贅沢にガッツリとかき込むために
わざわざ日田まで行くことがある。
熊本に住んでいた頃は、中の瀬にある 「 うなぎの徳永 」 によく行ったが、
近くにうなぎ専門の店がないし、歴史や温泉を楽しむことも兼ねて日田へ行く。

鰻を三度楽しめる ” ひつまぶし ” ならぬ 「 日田まぶし 」 に大満足である。




松鳳山の涙にもらい泣き。

2013-09-17 00:14:21 | 相撲























昨日、松鳳山と日馬富士の相撲を見て大きな声が出た。
まさか、勝てるとは思ってもみなかっただけに、
土俵際に追い詰めた時は 「 行け~ 」 って、大きな声を張り上げた。
そして勝った瞬間、 「 やった~ 」 とスゴク興奮した。

勝ち名乗りを受ける時に、感極まって泣いた松鳳山の顔を見て、
思わずもらい泣きしてしまった。

一昨日フランスで行われたニエフ賞のキズナの際どい勝利と
フォワ賞を快勝したオルフェーヴルに感動したばかりなのに、
ふたたび魂が感動で震えた。

同郷ということで松谷時代から応援して来た松鳳山の勝ち越しと、
日の丸を背負って走る両馬の凱旋門賞での活躍を期待している。



沖縄県名護市屋我地島 「 アマングスク 」

2013-09-17 00:12:28 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



地元では県道の上にある森をアマングスクと呼んでいる





屋我地島のスミヤバルの西端にある森を地元ではアマングシクと呼んでいる。
アマングスクの名の由来は、沖縄の祖先神といわれるアマミクの創ったグスク(生活跡地)の
意味だと思われる。ここは屋我地島の中では一番古い集落地だといわれている。
そんなアマングスクは、屋我グスクの南方約1キロのところに位置し、
口碑伝承もなく、石垣や遺構も見当たらないが、アマングスクの屋我集落側からは、
貝塚時代後期のものと推定される土器が出土している。


アマングスクへのアクセス
アマングスクへは、名護市仲尾次から屋我地島方面に向かって入って行くと、
屋我集落の西側にある。昔の ( 屋我地自然休養村管理センター ) の先になる。
駐車は、グスク下の空き地に駐車した。




福岡県豊前市 ・ 道の駅・おこしかけ 「 土日祝限定 530円の角煮  」 

2013-09-17 00:10:37 | グルメ























「 道の駅・豊前おこしかけ 」 の屋台村のみやこハムに、
土日祝限定で大人の握りこぶしくらいの大きさの角煮が1個530円で売っている。
沖縄のラフテーや長崎の角煮が食べたくなったら、ここで買ったものを
家で泡盛と醤油と砂糖とみりんで2時間ばかり、じっくりと煮込むと
柔らかくて味のしみ込んだラフテーが出来上がる。
テールを9時間かけて煮込むことを考えれば楽なものである。

島唄を聴きながら沖縄から送って来た海ぶどうや島らっきょうと一緒に食べると
気分はもうウチナーである。



熊本市中央区 『 藤崎宮秋の例大祭 ( ボシタ祭り ) 』 の口取り

2013-09-16 00:04:16 | 日記 ・ イベント












































今年もこの時季がやって来た。
毎年熊本市内で行われる 「 藤崎宮秋の例大祭 」である 。
昔、参加していた頃は9月の13・14.15の3日間で、
初日が藤崎宮に番号札を貰いに行き、地元の顔見せを行っていた。
そして、2日目と3日目は朝随兵と夕随兵があり、
藤崎宮から広町へ出て、そこから上通り、下通りを通るといった
お上り、お下りのコースが決まっていた。

9月の敬老の日が来ると、決まって思い出す祭りである。
祭りに参加する馬の世話を3か月していた関係から口取りをしていた。
それも4年連続しての大役である。
藤崎宮の土俵で馬見せのため土俵の周り馬の口を取って回したり、
例大祭の順番札を宮司から馬上で頂いたりした。
これは一年に一度、参加する組からたった一人にだけ任される大役である。

祭りの見せ場は何といっても、鈴生りになった大勢の観客で賑わう交通センターの前を
馬を回しながら馬追いすることである。
それを任された口取りは、光栄なことであった。
「 ど~かい。ど~かい 」 と、勢子が馬を囃し立てながら追う。
その雰囲気に興奮した馬を上手く暴れさせながら回していく。
まさに ” 人馬一体 ” である。
馬に持って行かれないように上手く手綱を操作する。
そんな祭りに参加したのは4回だけだが、次の年は「 祭りに参加してくれ 」 と頼まれたが断って、
熊本には行かず、飯塚オートレース場のダイヤモンドレースで永富高志の快走に酔っていた。



大分県日田市 ・ 日田グルメ 「 三隈飯店の焼きそば 」 

2013-09-16 00:02:23 | ラーメン・うどん・そば




































日田で昨日まで九州B1グランプリが行われ、
福岡県の田川市代表の 「 田川ホルモン喰楽歩 」 がグランプリに輝いた。
ホントなら行きたかったが、
人が多い場所は苦手なのと、長時間待って食べるとなると控えざるを得ない。
まぁ、日田にはヒョいと行くことが多いので、
仕事が休みの日でもゆっくり行こうと思っている。

今回の開催地である日田を代表するご当地グルメと言えば、 ” 焼きそば ” であろう。
こめかみが痛くなるほど噛まなければならない 「 三隈飯店の焼きそば 」。
それでも噛めば噛むほど味が出て旨い。
それぞれ好みが異なるので、何とも言えないが、
日田は、「 三久 」や 「 想夫恋 」 など焼きそばが自慢の店が多い。