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立派な人の本、立派な人のお話。聞かされる人はうんざりしている。

2014-01-09 11:16:18 | 日記
先日、誕生日を迎えたのだが、
つくづく、年寄りのお話というのは
心に響くものの少ない退屈で無用なものだと思う。
それこそみんなにこうなりなさい、これがただしいと垂れる人生訓が、
逆に聞く時間さえもったいない無駄な人生訓であるか。

昨日も書いたが
本田圭佑や檀蜜のインタビューでの言葉にはいつも感心する。

お二人とも、それぞれビッグマウス(ほら吹き、カッコ付け)、
AV女優、エロタレントと言う先入観でしか見られないが。

本田圭祐の場合は結果が、今や人柄の肯定に向いている。

檀蜜の場合は、営業で作られたものと言う事を
一般の人や世間にはわからない。
特に年寄りや性に対する頑固な偏見を持った人には、
とんでもないバカ女にしか見えないだろし、見る事もないだろう。
むしろ、僕には家族の状況はわからないがこの人のご両親は立派だと思う。

それに比べて、お年寄りと言うのはそれだけで
弱者の代表で理知深く、ある意味リスペクトされていると
ご本人まで思い込んでいる節があり、
立派な人生を送った思い込みから、人に教えたがり、諭したがる。

啓蒙書を読んで受け売りを我が心の信条のように、
単に年を積み重ねたとしか思えない人生観を年下の人に諭したがる。

こういう「良い話」を誰かに話す人に限って、
一番本人が出来ていない、その教訓を生かせていない人が多い。
そして本人に全く自覚がない。
良い話をしている満足感でいっぱいだ。

話を聞く人たちはその年寄りが「悪い人」でないだけに、
むしろ良い人感を出してるだけに耳を傾けざるを得ない。
年寄りになるとそういう何らかの「指導者教育者」になりたがる。

年を重ねたという単なる経験が
無意識で本人をそういう人生の指導者にさせたがる。

そういう僕自信も誕生日を迎えるたびに、年を重ねるたびに
そんな年寄りになっている事を自覚する。

自分がどう思われているのか、
うまくそういう聞き手側の人の本音を引き出せると、
そういう良い人柄の年寄りへの辛辣な批判を聞く。
自分に近い年寄りへの批判は、我が身を映す鏡だ。
自分の事を言われているようで、内心鼻白む思いで聞く事になる。

年をとった事とは別に
僕は昔から、啓蒙書、人生訓を垂れる類の本が
つまらなく思え、読まない。

そんな事は、そんな立派な本を読まなくともいろんなものに詰まっている。
小説でもテレビでも映画でも漫画でさえも人の生き様でも。

逆にこちらは自分で感じ考えて自分が人生訓を生み出す。

与えられるもの、見るものは関係ない。
その時、いかに感じ取れる自分がいるかどうかだ。

いくら良い教訓、良い言葉を与えても
それを感じ取れる人間になっていなければ無駄だ。

だから年寄りは、よけいな事を言わなくても見せれば良い。
一方で聞く人は若い人は、それを受け止める、
感じられる人間に、成長しておかねば。

12年間押し付けられて学んだ教科書の中のどれほどのものが
身に付いているか。
青年になって興味を持ったものは3ヶ月でも
その無駄に過ごした12年間以上の知識が身に付いている。

12年間学んだとしても、ほとんどの人は強制されていた意識だろう。
よくいって、つめれば2年間ほど自主的な気持ちで学んだんではないか。
あとの10年間はなにをしていた、と言うおもいだろ。
だから自主的な気がない限り、
学校なんていかなくとも、遊んでいた方が良いのかもしれない。
その遊びの10年間でどれぐらいもっと大切なものが学べていたか。

それを思えば、押し付ける言葉、考えがどんなに無駄か。

僕としては「役に立たない良い話」はしないようにしたい。

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