[ 北海道への赤化侵略を防いだ占守島の戦い! ]
【南部史郎(https://www.facebook.com/profile.php?id=100083820008006)さんのFacebook投稿/2022.11.12】
世界赤化征服を狙うソ連は大戦終結後に北千島最北端の占守島に上陸した。
日本陸軍守備隊は池田戦車隊の活躍もあり、ソ連軍を再三、撃退したが、戦車隊は壊滅し、降伏した。
わかっている方々も多いが、占守島の戦いはソ連側も失敗を認めており、北海道への侵略を防いだ。
日本陸軍の奮戦はソ連赤軍の南下のテンポを遅らせたのだ。
占守島の戦いの池田戦車隊の主力は九七式中戦車 改(新砲塔 チハ)だった。
「鉄牛部隊」(Iron Bull Unit)と呼ばれた日本陸軍の戦車は大東亜戦争の緒戦では米英蘭🇺🇸🇬🇧🇳🇱軍はアジア地域に強力な戦車を配備せず、九七式中戦車を主力とした戦車部隊は快進撃した。
だが、第二次欧州大戦の目まぐるしい推移から九七式中戦車の火力、装甲の非力は明らかになっていた。
日本陸軍の技術担当者もその自覚はあったらしく、対米開戦は昭和十六年(1941AD)の12月だが、この年(皇紀2601年)に47ミリ長砲身砲の一式中戦車、75ミリ砲搭載の一式砲戦車を制式化した。
だが、量産は甚だしく遅れ、欧州大戦の機甲戦の観察に慌てた節がある。
結局、九七式中戦車の車体を若干改造し、一式中戦車と似た砲塔を載せた『九七式中戦車 改』が日本陸軍戦車部隊の主力となる。
47ミリ砲の性能は悪くなかったが、欧米列強諸国の戦車は75ミリ砲が常識化しつつあり、非力だった。
大戦の後期は陸軍は戦車部隊を頼れなくなった。
もっともいくつかの戦闘では戦果を挙げた。
フィリピンでは昭和十九年(1944AD)に密林(Jungle)の蔭から米軍のM4シャーマン中戦車を側背攻撃で撃破し、クラークフィールド飛行基地への総攻撃で大活躍している。
但しこの時の戦果は梱包爆薬や破甲爆雷などで武装した歩兵との共同作戦によるもので、戦車部隊は奮戦むなしく、ほぼ全滅した。
占守島の戦いでは一式中戦車もあったと守備隊の参謀長だった水津 満 中佐の著書にもあるが、主力は九七式中戦車 改だった様だ。
占守島には未だに戦車の残骸が多数放置されているが、何故か愛国的な日本人でさえ関心を抱かない。
この戦車は外見は一式中戦車と似て、現場の旧軍人も部署が違うと見誤った様だが、一式中戦車は全面装甲は九七式の二倍の50ミリで、外形の違いは一式は操縦席の膨らみがなくなっている。
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【追記】
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