夜、自転車に置いてある場所でバッグから自転車の鍵を取り出そうとしたところ、ない。
4か所あるバッグのポケット隅々をまさぐってみたけれど、ない。
いつものことだから落ち着いてと、スマートフォンのライトを付けてバッグの中を照らしてみるけれど、ない。
自転車の鍵だけならばまだ良いのだけれど、そのキーホルダーには家の鍵も引き出しの鍵なども一緒になっている。
このことをある人は「リスク分散」したほうがいいよと言っていたけれど、なるべく一元管理したい私はそのことも聞かずにすべての鍵を一緒くたに、自転車に乗っているときはすべての鍵を晒して走っている。
3分ほど冷や汗をかきながら、この後の身の振り方に思考を巡らせる。
大家さんに電話をして、合い鍵を取りに行って・・・自転車の鍵は確か家にスペアがあったはず・・・引き出しはそもそも鍵を閉めていない・・・。
と、自転車の前で思っていたら、鍵束は自転車の鍵穴に刺さっていることを発見した。
これも今までに数度ある。
自転車の鍵を閉めて、抜き忘れてしまうのだ。
どこの家かもわからない鍵が欲しくなかったとしても、自転車で乗り去ろうととする人には一発で持っていかれてしまう。
幸いそのようなことは今までないのだけれど、よく起こる事象なので、家の鍵を閉めるとき同様に、自転車の鍵を閉めるときには聴いている音楽を一旦止めるように意識してやっている。つもりだ。
しかしまた起きてしまった。
しかも今回は、自転車の鍵が閉まってもいなかった。
つまり鍵を閉める行為すらもせずに自転車を置き去りにしたことになる。
あるいは、誰かが乗って鍵を閉めずに元の場所に戻したということも、可能性としてはなくはないかもしれない。
幸い、また自転車はそのまま元の通りにそこにあったから良かったものの、夜遅くに家に入れなかったら困り果ててしまう。
「鍵を閉めるように、そして鍵をきちんと抜いて持っていくように意識を高める」というのは何かこれ以上の方法があるのだろうか。
確かに鍵を分けて「リスク分散」することはあるのだけど、バラバラになった鍵を管理するリスクも発生してしまう。
そしてまた、いつもと同じように悠長に自転車を走らせて家に帰る。
対策は「これまでよりも鍵付近の行動意識を高める」ということになりそうだ。
こういうドジ談を私はたぶんたくさん持っている方なのかもしれない。
しかしそれを人に話すと、口を揃えて「意外」と言われる。
それは人のドジに対してのある種口をついて出る無意識の常套句なのかもしれないけれど、いや、でもたぶんそんなこともない、そういう類のことを言うとき人を選んで言っているように思う。
「シャキっとしていそうなのにね」とかもよく言われるから、そういうイメージの顔とか態度とか物言いが多分に影響しているのだと思う。
奥田民生が言っていたけれど、「人のやることは人の顔に寄っていく」。
それを打ち破ろうとしてなお、そういうテイストは最終的にも消せないものなのだと思う。
ひとつとして、顔は「じぶん」のシンボルである。
まあ自転車の鍵の閉め忘れから昇華するには飛躍がすぎるけれど。
神戸のパスタ屋さんでつるむらさきのペペロンチーノがひどく美味しかった記憶があって、それからつるむらさきが好きになった。
メジャーな野菜ではないのでスーパーにない場合も多いのだが、近くの八百屋さんに売っていた。
さっそく、ゴーヤとナスと一緒に焼き浸しにする。
夜中の3時に仕込んだそれは、冷蔵庫でキンキンに冷えて、私の昼下がりのブレックファストになる。
4か所あるバッグのポケット隅々をまさぐってみたけれど、ない。
いつものことだから落ち着いてと、スマートフォンのライトを付けてバッグの中を照らしてみるけれど、ない。
自転車の鍵だけならばまだ良いのだけれど、そのキーホルダーには家の鍵も引き出しの鍵なども一緒になっている。
このことをある人は「リスク分散」したほうがいいよと言っていたけれど、なるべく一元管理したい私はそのことも聞かずにすべての鍵を一緒くたに、自転車に乗っているときはすべての鍵を晒して走っている。
3分ほど冷や汗をかきながら、この後の身の振り方に思考を巡らせる。
大家さんに電話をして、合い鍵を取りに行って・・・自転車の鍵は確か家にスペアがあったはず・・・引き出しはそもそも鍵を閉めていない・・・。
と、自転車の前で思っていたら、鍵束は自転車の鍵穴に刺さっていることを発見した。
これも今までに数度ある。
自転車の鍵を閉めて、抜き忘れてしまうのだ。
どこの家かもわからない鍵が欲しくなかったとしても、自転車で乗り去ろうととする人には一発で持っていかれてしまう。
幸いそのようなことは今までないのだけれど、よく起こる事象なので、家の鍵を閉めるとき同様に、自転車の鍵を閉めるときには聴いている音楽を一旦止めるように意識してやっている。つもりだ。
しかしまた起きてしまった。
しかも今回は、自転車の鍵が閉まってもいなかった。
つまり鍵を閉める行為すらもせずに自転車を置き去りにしたことになる。
あるいは、誰かが乗って鍵を閉めずに元の場所に戻したということも、可能性としてはなくはないかもしれない。
幸い、また自転車はそのまま元の通りにそこにあったから良かったものの、夜遅くに家に入れなかったら困り果ててしまう。
「鍵を閉めるように、そして鍵をきちんと抜いて持っていくように意識を高める」というのは何かこれ以上の方法があるのだろうか。
確かに鍵を分けて「リスク分散」することはあるのだけど、バラバラになった鍵を管理するリスクも発生してしまう。
そしてまた、いつもと同じように悠長に自転車を走らせて家に帰る。
対策は「これまでよりも鍵付近の行動意識を高める」ということになりそうだ。
こういうドジ談を私はたぶんたくさん持っている方なのかもしれない。
しかしそれを人に話すと、口を揃えて「意外」と言われる。
それは人のドジに対してのある種口をついて出る無意識の常套句なのかもしれないけれど、いや、でもたぶんそんなこともない、そういう類のことを言うとき人を選んで言っているように思う。
「シャキっとしていそうなのにね」とかもよく言われるから、そういうイメージの顔とか態度とか物言いが多分に影響しているのだと思う。
奥田民生が言っていたけれど、「人のやることは人の顔に寄っていく」。
それを打ち破ろうとしてなお、そういうテイストは最終的にも消せないものなのだと思う。
ひとつとして、顔は「じぶん」のシンボルである。
まあ自転車の鍵の閉め忘れから昇華するには飛躍がすぎるけれど。
神戸のパスタ屋さんでつるむらさきのペペロンチーノがひどく美味しかった記憶があって、それからつるむらさきが好きになった。
メジャーな野菜ではないのでスーパーにない場合も多いのだが、近くの八百屋さんに売っていた。
さっそく、ゴーヤとナスと一緒に焼き浸しにする。
夜中の3時に仕込んだそれは、冷蔵庫でキンキンに冷えて、私の昼下がりのブレックファストになる。