つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

誤解を解きたいあずきバー

2014-08-17 22:13:35 | 日記
何だかいろいろとつまらなくて、歯医者に行った。
なんとなく、ふらっと。
不可解な理由だけれど、本当にそういう理由で。
実に15年ぶりくらいに。

どこか痛かったわけでも、詰め物が取れたとかいう理由も一切なく。
まあしいていうなら、15年も歯医者に行ってないのはどうなんだということと、親知らずの状態を診てもらいというのはあった。

大学生の頃、矯正歯科医院でバイトしていたことや、虫歯だとか歯周病だとかの記事をライターの仕事として書いたことがあるので、なんとなく検査や治療の内容は知っていた。
歯周病は、20歳を過ぎると8割以上の人が罹患しているらしいということも、歯周病とは何かもおよそ知っていた。
けれど、さすがに15年ぶりともあり、歯医者というそのイメージだけで私はビビっていた。

問診票の年齢の箇所に、迷わず「30」と書いていた。
本当は「29」なので、二重線で修正したのだが、年を多めに間違う人はいるのだろうか。
早生まれである私は世間的によく言われる「30」という節目の年を早めに認識しすぎてしまって、年を聞かれると既に「30」と答えてしまっている。
1月に「30」になったらもう1年「30」というのか、それともまた先に一つ年を重ねて「31」というようになるのだろうか。
私次第だけれど、どっちだろう。

先に全体を検査してもらい、レントゲンを撮り、下の歯の歯石を取ってもらう。
超音波という機械で歯石を破壊していくらしいのだが、普段絶対に触られることのない場所に触れられるの痛くすぐった痛い。

15年も歯医者に一度も行ってなかった割にはキレイです、下の親知らずはいずれ抜いた方が良いかもしれません、1本だけ治療した方が良い虫歯があります、治療は次回1回で終わります、少しだけ歯肉が下がっている箇所があり歯周病が疑われます、歯ブラシの力が強いと思います、年に2~3回は歯医者でクリーニングする方が良いです。
ということだった。
「15年も歯医者に行ってなかった割には」と連発されたので、「その割には」まあまあの状態だったのだろう。
あまり考えてこなかったけれど、歯は一生ものだし、痛いのは嫌だし、よく言われるように定期的にメンテナンスに行った方が良さそうだ。

次回の予約を入れて、とてもすっきりした気分だったので、自転車を走らせる。
帰れなくなるといけないので遠くまでは行けないけれど、東京の道を走るのは気持ちがいい。
本当に知らないところばかりで。
一か所に長くいたことはないので、東京はどの土地もいつまで経っても借りもの感覚である。
東京は、私にとってずっと自由の象徴であり、憧れの対象なのかもしれない。
どんなにど真ん中に居続けても。

しかし思えば、実家の近くの土地だって、知らないところだらけだとも思う。

15年ぶりの歯医者から帰って、ハンバーグを作る。
何てことはないことだけれど、これは私にとっては偉業、というか枠外のことである。
ひき肉を手でこねるなんて、手もボウルも皿も汚れるので絶対やらない、というのがポリシーと言えるくらいにあった。
しかし、なんだか今日は15年ぶりの新しいことをした気分で、枠を破る行為そのものがしたくなった。

だから、ハンバーグが食べたかったと言われればそういうわけではない。
なので、材料は十分にはそろっておらず、パン粉の代わりに片栗粉を、しなびそうなピーマンを、かさ増しにしめじを、牛乳の代わりに酒を。
ハンバーグの正しい材料はよく分からないけれど、ちょっと違うなと思いながらも、手にビニールをして肉をこねる。
手では触りたくないので、スプーンで成形する。

水分が多くてタネがゆるく、随分とふわふわでひっくり返すのに苦労したけれど、ハンバーグはできた。
ソースのことははじめから考えておらず、玉ねぎを炒めたときの塩コショウしかしなかったのでウスターソースをかけて食べる。

劇的においしいわけでは全然なかったけれど、普通にはおいしかった。
だいたい、肉メインの料理で不味くなるということは、生焼けとか丸焦げとか以外にはあまりないように思う。
それだけ肉は肉様なのだと思う。


熟れ過ぎたソルダムを買ってしまった。
どうしてこんな状態のものを売っているのだろうかというほどぶよっとしていて、それに気づいたのは冷蔵庫にしまうときに赤い果汁が滴っていたからだ。
食べられるのか、と思って、血みたいな真っ赤な果汁滴るソルダムをシンクの上で食べてみる。
ブチュっと果汁が飛び出して、まな板に血しぶきみたいにかかった。
床に落ちた果肉は血痕みたいだった。

私の作る句に、意図せず2回「血」という言葉が出てくるし、「血」は度々私の言葉の中に出てくるのだけれど、私はモチーフとしての「血」に特別なこだわりは持っていない。
「それよりももっと赤い血が体中に流れてるんだぜ」というブルーハーツの「夕暮れ」を思い出すくらいだ。
そう、当然、そうなのだ、ということくらい。





やりたそうにしているって

2014-08-15 14:32:19 | 日記
春から夏にかけて、随分と私の部屋の緑が増えた。
100円ショップで買ったテーブルやしも1.3倍ほどの大きさになっているし、名がわからぬ植物も一時元気を失いたくさんの葉を枯らしてしまったけれど、少し日当たりの良い場所に移動させたらめきめきと新緑を芽吹いてきた。
ポトスもクワズイモも相変わらず生命力激しく伸び続けているし、植え替えたパキラもゆっくりながらその幹を太く伸ばしている。
水差しにしているいくつかの緑も、髭みたいな根っこを水の中で生やし続けている。

玄関のところに置いた緑は、出かけるときも帰ってくるときも、必ず目に留まる。
あぁ大きくなったなあと毎度胸がきゅっとなる。

3~4日に1回、合計10個ほどの植物に、水をあげたり水を替えたり。
少し乾き気味の土に、じわっと水が染み込んでいくところを眺めて、必要な分だけ吸ってね、と心の中で呼びかける。
お米を洗うときはとぎ汁をあげるようにしているけれど、どうやらこれはあまり効果はないように思う。

植物は代謝してもほとんど汚れない。
それは私が動物を育てる気がない理由なのかもしれない。


アコースティックギターのせいで、左手の指先がものすごく痛い。
一旦皮が分厚くなって痛くなくなったのだけれど、皮が剥け始めてそれをひっぱったら赤くなるところまで剥けてしまって、もうこうなると弦を押さえられないくらいに痛い。

私はもともと手の皮が丈夫な方ではなく、手荒れを起こしやすい。
そんな手に強い力で針金を押し付けたりこすったりしているのだから、痛くなるのは必然だ。
あるいは押さえ方とかに問題があるのかもしれないけれど。

そんなに痛いのならやめればいいのに、とも思うけれど、それでも弾きたいという気持ちはあって、しかしながらその気持ちについていかないくらい上達しないのが悲しい。
まあいつも同じことをやっているだけだから上達しようがないのも分かっている。

ギターの先生が弦の高さを調整してくれると言っていたから、またレッスンを受けに行こうかなと思う。
ついでにエレキギターの弦もいい加減張り直したいのだけれど、2つのギターは持ち運べない。
ギターを背負って自転車に乗るのは難しいことではないのだけれど、姿的には滑稽である。

新しい曲、奥田民生の「息子」と荒井由実の「ひこうき雲」のコード譜と、Mr.Bigの「To Be With You」のギターソロをpptに貼り付ける。
この用途以外にも、家にプリンターが欲しいと思うことが増えた。


2泊3日の帰省から帰還して、自由感を携えて東京ドームの横を自転車で走る。
おじいちゃん、おばあちゃん、私は東京が大好きなんだよ。

コンビニでスイカを買って食べると、とっても甘くて、とっても瑞々しい。
滴るだけにとどまらないのスイカの水分は、火照った身体ごと潤してくれる。
実家で食べた一口サイズに切ったみんなで食べるスイカもおいしかったけれど、喉が渇いたタイミングでひとり大きなスイカを切り分けて食べる方がおいしい。

実家にいて辛いことのひとつは、食べるものとそのタイミングを自由に選べないことだ。
けいこがもてなしをほとんどしないから、豪勢なものが次々出てくるということは全くないのだけれど、それでも時間になればごはんを食べねばならない。
お腹が空いていなくてもごはんがあると普通に食べてしまうのは私の問題だけれど。
十分にお腹が空いた状態を作りたいのだ。
それは私の場合、3食という食事の回数には多くの場合ならない。
食べない、という選択はできなくはないけれど、しかしその後でお腹が空いても食べるものが何もなかったりする。

寝るのも起きるのもお風呂に入るのも、精いっぱい勝手にはしているけれど、それでも全く勝手にはできない。
共同生活の暗黙の掟には、もう全然従えない。


なぜか椅子に座った状態で首の筋を違えてしまった。





蜜蜂不適格

2014-08-13 01:56:26 | 日記
2歳になって所謂イヤイヤ期に突入し、俄然面倒さが増した姪。
なんでもかんでも自分でやると言って聞かないし、気に入らないと癇癪を起こす。
着るものも食べるものも、こうと言ったら聞かない。

全力で訴えるその姿はとても清々しくもあり、時々鬱陶しくもある。
清々しいのは要求に対する表現が極めてストレートであるから、鬱陶しいのはその時の私の要求と異なるから。

子どもの頃の「社会化」というのは一通りされなければならないものだと思うけれど、どこまで「自由」なのかということを教えることは非常に非常に難しいことだと思う。
まあ私の子どもではないから、口出しは一切しないけれども。

おばあちゃんの家に行くと、2歳の甥と、もうすぐ3歳と5カ月のいとこの子どももいた。
「じゅんばんこ」でおもちゃを使うのだけれど、上手に待てないので取り合いになったり、一方が泣き出したりする。

子どもの中で一番年上の3歳のいとこの子どもは、「お姉ちゃんだで貸したげにゃかん」と曾爺さんに何度も言われたりして、私は胸がぎゅっとなった。
こうやって「お姉ちゃんだから」と何度も何度もすり込まれ、我慢をすることを覚え、「お姉ちゃんらしく」なっていく。
それが良いのか良くないのか、子どもの素質にもよるし、その後の経験にもよるのだろうけれども、彼女はその場では明らかに怒っているような顔をしたし、寂しそうな目をした。
妹が生まれて、お母さんの愛情を独り占めできなくなったどころか、あまりかまってもらえなくなったフラストレーションもあるように見えた。

そのことは、私の胸を結構強く、締め付ける。

誰もが一心に親の愛情を受けたいのだと思う。
自分が自分であることの存在意義を、親に認めてもらいたいものなのだと思う。

「お姉ちゃん」というレッテルは、双子の私にも貼られていたし、いつしかそれを役割として意識的にも無意識的にも演技するようになった。
「自分らしく」ではなく「お姉ちゃんらしく」することで、周りの人は満足するわけで、そうした周囲のあらゆる期待に応えることはこれから社会で生きていくことの基本となる。

そう考えると、とても切なくて本当に涙が出そうになる。
しかし、人間など全く野放しにしたらモンスターのようなものだし、幼い頃に限ってはおそらく社会の大枠は教え込まねばならないものだとも思う。
それは大部分は子ども本人のために。
親とは言え、どこまでが本人のためと言えるかは非常に微妙なところだと思うけれど、あらゆることを考えるための素養は身に付けるべきだと思うし、そもそも考える力を養ってあげなければならない。

子どもを見ていると、子ども目線で自分のことを色々と思う。
これ以上書くことが憚られるくらいに、原点的なことを。

私がどんな私になっていけばいいかなと考えるのはずっと続くとして、私は姪にとってどんなおばさんになった良いかな、とちょっと考えてみたい。
そして、どんな姪の我が儘もさておき、スマートフォンで撮った姪の写真を見返して、かわいいなあもう、と思ってしまう私である。




雲間から太陽がかっと出る

2014-08-11 03:58:26 | 日記
2か月に1度、参加させていただいている句会。
今回から友人も誘って参加した。

参加者は皆、言葉に慣れていて多彩なボキャブラリーをお持ちの方ばかりで、態度には出ていないかもしれないが、私は結構いつも恐縮している。
それに、ただ何かを味わうのと、批評を述べるのと、実際に創るというのは全然違うことをここでもまた思い知る。

創作は、どこまで行っても、何をやっても、結局のところ自分に対する「で、どうしたいの?」というところに戻ってくる。
どんなにたくさんのことを知ろうとも、どんなにすごいことができるようになろうとも、自分に「で?」と問うていくしか進む方法はないのである。
ただ何度も巡ってくるその地点の道のりには、技術の習得・研鑽も、他人の目線も必要になる。

俳句は私にとってそれほどの労力を今のところかけられていないので、やっぱり回り道をせずに自分らしい句を、と思ってできたのが今回の3句。

蚊をパチン と潰して見る 手と血と死
帰省して 将来の夢 風来坊
小さな手 ふたりで顔で 食べるスイカ

句会の良いところは、作り手の思いを答え合わせのように直にその場で聞けることだ。
もちろん解釈の幅はあって良いものだけれど、作り手がどんなシチュエーションで、どんな心情で作ったのか、それがギャグや遊びだったとしても、それを知れるのは面白いものである。

途中何度かスコールのような雨が降っていた。
外に出ると息苦しいほどの湿度。
氷あずきがおいしかった。


9月締め切りの東京書作展の出品に向けて作品作りを始める。
この書作展の出品は、出品も、出品点数も任意であるので、今回はいつもの仮名まじり文と、余力があれば漢字作品でも出してみようかと思う。

今回は、ヒロトの詞もマーシーの詞も書かない。
見るなら彼らの詞が良い、と思ってくれている人ももしかすると1人や2人いてくれるかもしれないけれど、でも書かない。
彼らの詞でないなら見に行かない、と言われても、書かない。
すごく切ないけれど、書かない。

でも、家で書く分には、たぶん、書く。

これまで“思い”の体現を目指してやってきたつもりで、私は自分の中にあるその“思い”に触れることが嬉しくて心地よかったし、できるだけその“思い”を真空パックして誰かの胸で生の近い状態のまま開封されればいいなと思った。
私はそれを前作の「月の爆撃機」で、あの形においての一つの限界を見た気がした。
限界、だなんて、己の限界の低さに辟易とするし、たいそうな物言いだけれど、あの形においてのそれ以上が、作品を馬鹿でかくするとかの方法以外に今の私にできそうにないし、何よりそこを掘る気がない。

決してその“思い”に飽きたということはないので、その方法は色々と探りたいと思っているが、全然間に合いそうにないので今回の書作展は中原中也の詩でも書こうかと思う。
書の構想として、大きな紙1枚に小さな字を淡墨で埋め尽くしたいというのがあって、長い詩が良いと思っていたので、「憔悴」という詩にしようかと思っている。

中原中也と萩原朔太郎、ボードレールを取り上げたフランス文学の授業を受けたことがあるけれど、それほど興味はなかった。
しかしちょうど先日、「僕は美の核心を知つてゐると思ふのですが、それにしても辛いことです、怠惰を逭れるすべがない!」という一説に心打たれたという人がいて、調べてみるといい具合に長い。

それに、なんだか私はこの詩を読んで笑ってしまうのである。
なんだか少し、分かるような気がしてしまうのである。

私はうだうだと愚痴をこぼすのは好きではないのだけれど、これは所謂私が嫌いな愚痴でない。
たぶん中原中也も、そして私も、彼が題材にしていることの解決の糸口を的確には掴めていないのだ。
しかし、中原中也のことはよく知らないし本人が言うところの怠惰な人なのだと思うけれど、それでもなおこんな詩を書いているわけで。
自分に対して焦り苛立ち、そして憔悴しているのだろうが、どこか怠惰を含めた自分に向けられる最終的な愛おしさみたいなものを感じてしまう。
そしてたぶん、謙虚でフラットな目線を持っている人なのだろうなとも思う。

そんなわけで早速2枚ほど書いてみたが、長い。
1枚書くのに1時間強。
書き込むというよりは、1日2枚を限度に7日くらいしかできないだろう。

淡墨にすることも決めているので、墨を余分に磨ってペットボトルに入れておく。
墨を磨るのは、疲れる。
それに、“いい色”がなかなか出ない。


ようやく書がブログに記事に追いついたけれど、これではまたすぐなくなってしまう。
(ところどころ拝借させていただいております)




やっぱりたこ焼き

2014-08-09 00:01:32 | 日記
木曜の23時からNHKで放送している「ミュージックポートレイト」という番組があって、何か月か前に偶然にそのチャンネルのリモコンボタンを押した。
それ以来、見られるときはいつも、忘れないように時々スケジュールにも入れながら観ている。

2人のゲストの人生を、その時に彼らに影響を与えた10曲の音楽と一緒に振り返る、というもの。
田口トモロヲさんと小雪の回が印象深く、田口トモロヲさんが影響を受けた日本のパンクを借りたし、監督作品である「アイデン&ティティ」も観た。

こうして人生とともに音楽を取り上げていくと、ほとんどのゲストが「この詞の言っていることが・・」というような語りになる。
たとえ言葉が分からない洋楽でも、とても好きでハマる曲は、その詞の意味を調べて知っているものである。

たぶん、ほとんどの人にとって詞以外の部分の音楽そのものは、メッセージ性のニュアンスを強固にするためのものであって、それはおそらく作り手においても言えるだろう。
自分に影響を与える何か、というのは、往々にして概念なのであり、思想であるのだと思う。
そして、その思想のメッセージというのは、音楽よりも比較的共通認識の定義ある記号としての言葉の方が多くの人に伝わるのは当然のことだ。

しかし、その比較的共通認識の定義ある記号としての言葉というものを除いたところで伝わる“何か”というものも非常に興味深いし、むしろ私はそちらを信じているのかもしれない。

いずれにしても、誰かの人生を、心の中を探るのに、個人に影響を与えた音楽を使ってするという方法は、割とその人の本質に近いようなことが見えてくるのではないかと思う。
ライフストーリーのインタビューで誰かフィールドワークを行ってまとめてくれるならぜひとも拝見したい。

以前、音楽にほとんど興味がなかった私でも、無理やり10曲くらいは選べたであろうし、興味ないながらの興味というのも興味深いものである。
今の私が10曲選ぶのはかなり大変だけれども、いつか真剣に10曲選んで、誰かと交換してみたいなと思ったりする。
それをするのは、自分のことを語るのに、またその人を知るのに、恐ろしく赤裸々な話をしなければならないように思う。

ただ他人と何を話すか、というのは、赤裸々なこと以外にはないようにも思ってしまう。
それは別に、内容が難しい話でも何でもなくて、色んなフィルターを抜きにしての話をしようということ。

しかし内容が難しくなくても、それをするのは案外難しい。
それを人に面倒だと言われればそれまでだ。
でも私は、面倒な話を長々とできるくらいには自分に目を向けていたいし、いろんなフィルターを取り去った話がしたい。


「風立ちぬ」「永遠の0」「LIFE」「アナと雪の女王」
「風立ちぬ」が良くて、2泊3日のレンタル期間で2回も観てしまった。
「アナと雪の女王」は何だか面白くなくて、途中で色々なこと、マニキュアを塗りかえたり洗い物をしたり、をしながら見ていたら内容を全然覚えていない。

ピノの抹茶味が大好きでコンビニで探すのだけれど、最近全然見当たらない。
西友にあったので3個もまとめて買ってしまった。

図書館で借りたリンゴ・スターとジェリー・リー・ルイスと大滝泳一のアルバムが良かった。
無料で掘り出し物を見つけられるのは嬉しい。
今度返しに行ったらまた借りてこよう。