つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

ケンタッキーに住みたい

2015-01-08 03:48:59 | 日記
いつも通っているまつ毛パーマの個人店があって、私が個人事業主になってからというもの、改めてその人の姿勢やサービスのあり方にとても感心している。
私が以前、その街にあった会社に勤めていた頃から通っているので、かれこれ6年くらい、ブランクもあれど2か月に1回くらい行っている。

現実に私を知っている人は分かると思うが、私はものすごくよく喋る方だ。
しかし、美容院などの会話は全然好きではない、むしろ嫌である。
それさえも楽しむスキルというのも身に付けることができるような気もするけれど、今のところはその気はないし、どうにも面倒なのだ。
美容院なら普段読まない雑誌を読むか、俳句でも作っていたいし、まつ毛パーマなら寝るか考え事をしていたい。

私が行っているそのまつ毛パーマのお店は、必要以上のお喋りを全くしない。
私が発する言葉は「お願いします」「ありがとうございました」と返事くらいなものである。
他のお客さんとは、お客さんが喋れば普通に喋っているので、私にはそうしてくれているのだなと思う。
まあたぶん、あまりお喋りなタイプの人とも思えないけれど。

サービスも少なくとも私にとって良い意味で機械的に行き届いており、お客さんに発する一つひとつの言葉、名刺の置き場、かかっている音楽、その音量、整えられたブランケットのめくれ具合、季節ごとのスリッパの違い、どれをとっても細かい決まりがありそうで、合理的で無駄がない。
割と高級なマンションの一室で、もう10年くらいはやっているだろうけれど、部屋はいつも本当にピカピカだ。

私は学生時代、矯正歯科でバイトをしていたことがあって、そこの先生のすさまじいまでの細かさを知っているので、それらをどのようにして保っているのかはだいたい想像が付く。
その歯科医院では、玄関を拭く用、この机を拭く用、あの机を拭く用の雑巾が細かく分かれていたり、置いてある雑誌の並べ方は雑誌のタイトルの見え方まで決まっていたり、患者さん用トイレのトイレットペーパーは巻きが2cmを切っていたら取り替えるとか、バイトが喋っていい言葉が一言一句指定されているとか、パンフレットは受付にいつも5冊置くとか、ありとあらゆることに細かい決まりがあった。
できないとものすごい剣幕で怒鳴る人だったので、何人もバイト初日で辞めていった人を見たが、私は仕事でそういう整然さを求められるのは嫌ではないので、慣れてしまえばそうしないことが気持ち悪いくらいだった。

技術とサービスを個人で提供するとき、サービスのあり方や全体感はそうそう変えられるものではないから、一旦はどこかのタイミングでスタンスを決めてしまう必要がある。
無論、臨機応変に対応することは社会のあらゆる場面で重要であることは前提として。
技術力×サービス、あと、最終的に互いの人間性による「相性」という要素もとても大きいと思うけれど、提供側のスタンス優位でいられるくらいの価値を持たねばならないと思う。

とそんなことをまつ毛パーマ中、目を閉じたまま考えていた。
が、あまり明確にまとまらなかった。

ふた言くらいを発して、まつ毛が上がって、マンションを出る。
その足で、私が唯一ひとりでも外食をしたい刀削麺のお店に行く。
別に接客が良いわけではなく、店の雰囲気が特に好きということもなく、味が好きなのである。
これは言ってみれば、主に技術力に魅せられている。


観葉植物の中でも非常な生命力であるポトスが元気を失っている。
年末年始の冷え込みにやられたのだろうか。
水と栄養剤をあげても復活しないので、おそらく根っこの問題だろうと思う。

くたんとしてしまっている植物を見るのはなんとも悲しい。

ポトスは水差しでも十分に根が生えるので、少しでも救出しようと、長く伸びているつるを切って水に差し、家の中で一番光が多く温かいトイレに避難させる。
冬は切り花は長持ちするけれど、土ものの観葉植物には酷な季節だ。
12月に来たトルコキキョウの切り花は、花びらを少し萎れさせながら、未だ色を保っている。


『カイジ』の続きが読みたくて、第2章「賭博破戒録」をネットで大人買い。
漫画を買ってしまうほど読みたい、というのは私にしてはとてもとても珍しい、というかほとんど初めて。
いつかに読んだ『デスノート』も、きっと借り物が手元になかったら全巻読破するのは諦めていた気がする。

何も買わなくても漫画喫茶に行けばいいのだろうけれど、如何せん私は漫画喫茶にこれまで1度しか入ったことがない。
それは10年前くらい、プリントアウトの目的で、学生時代に。

きれいなイメージがないし、湿気ているイメージだし、第一これまでで言えば漫画に囲まれて興奮することなどなかった。
そしてたぶん、漫画喫茶で私は眠くなってしまう気がする。
照明も明るくないだろうし、家で漫画を読んでいたって中断して寝てしまうことだってあるし。

それに、13巻セットで1700円で買えるのだから、漫画喫茶で読む時間分の料金の2倍も行かないだろうと思う。
そしたら場所に縛られることなく、好きなときに読みたい。

まあでも、『カイジ』は第3章まで出ているし、他の福本さんの漫画やその他勧められているものもあるし、漫画喫茶自体も今や私のイメージ通りではないだろうし、近々行ってみたいなと思っている。


ただいまぁぬっとパックの雪女




苗字と駅名

2015-01-05 20:22:20 | 日記
カフェ習慣のない私だけれど、最近は仕事でカフェをよく使う。
おしゃれカフェではなく、ルノアールやらスターバックスやら。

ルノアールが仕事がしやすい、というのはよく言われることだと思うし、店側もそういう客をターゲットにしているだろうけれども、本当に仕事がしやすい。
席はゆったりしているし、席のみでなく店自体も広く開放感があるし、いつ行ってもたいてい入れるし、飲み物だけの注文でも温かいお茶が出てくるし。
若い客がいないのは良いが、年配の団体が多い場合にはうるさいにはうるさい。
あと喫煙・禁煙は別れてはいるものの、店全体が煙草臭いので気になる人は気になるであろう。
私はあまり気にならない。

今日は、ビジネスホテルではあるまいし、と思いつつもアイフォンの充電が切れそうで、あるなし半々の気持ちで聞いてみると、「ありますよ」との即答。
コンセントの差し口のある席に移動させてもらって充電器をお借りする。
テザリングって案外電気を食うのである。

コンセプトとサービスの充実って大事だな、と思う。


書道に加え、ペン字を人に教えるようにもしばらく経つ。
書道よりもペン字の方が需要が断然大きいのは、レッスン会場がカフェでもできるからというのもあるし、ペン字の方が「実用的」で普通の生活では「実用性」が求められているのだろう。

別に私はペン字を特別に習ったということはない。
もちろん一通り書道教室でもやってはいるものの。

ただ、私の字好きは中学校の頃の漢字練習から本格的に始まっていて、「きれいな字」とは何かを自分で追求していた。
何がそうさせたのか知らないが、板書は字を書くためにしていたし、家に転がっている筆ペンは1日でなくなってしまうほどだった。

まあでも私は「字は記号」であり、「読めればいい」と思っているので、普段そんなにきれいに書いたりはしない。
そしてもっぱら書道の創作にはまるようになってからはあまりペン字の鍛錬をすることもなくなったのだけれど、教え始めてからは必要に駆られてよくペン字も書いている。

上手いっぽく見せるコツとか、バランスのとり方とか、そういうことはだいたい分かるので、ペン字を教え始めてから私はペン字が上手くなった気がする。
手の運動が付いてくるかどうかは、日々やるだけ、ということだ。

正直なところ、最近で言えばあまりペン字には興味がないと思ってたのだけれど、教えていることで気付くことも本当に多く、ちょっと面白くなってきた。
私が思う「上手いっぽく見せるコツ」というのをやってもらうと、本当に「上手いっぽく」見えるのだなと改めて私が知ることができているからだ。

そのコツは、普段無意識に字を書いているのでは到底気づけないような小さなちいさなコツ。
でもその小さなちいさなコツたちは、字の雰囲気、ニュアンスを司り、また意外と汎用性があったりして、それを覚えておけばあの字もあの字も上手いっぽく書ける、といったことが起こる。
だから私はレッスンのときに「汎用性」という言葉を非常に多用する。

しかし教えられることはその汎用性のあるコツたちだけで、それを体得するかどうかはそれをやる本人にのみかかっている。
そのやる気を引き出す、ということでいけばもう少し別のやり方があるのかもしれないけれど、私はそれを考え教えることは今後もない気がする。

時々、私が書いたお手本通りに上手に書いてくる人がいて、そういうものを目の当たりにすると私はいささか恐縮する。
自分の字が他人によって体現されたとなると、私は自分を覗かれたような気分になるのである。
それに、私のコピーなどしてほしいわけではないので、ちょっと引いてしまうということもある。
きっちり臨書できるというのは、もちろん技術的に素晴らしいことなのだけれども。

できれば私は「あなたの字」が見たいのです、と思う。
矯正のようなことをしておいて、勝手ではあるものの。

良いレッスンとは何か、コンセプトとサービスの充実を基軸に考えてみたりもする。


煌めいた理想のマニキュア冬銀河




黒豆は体に良い

2015-01-03 14:25:05 | 日記
「おばさんとてってつなぐー」と姪にご指名を受けたら、それは当然に嬉しい。
「ちゃーはんいれてくださいな」とか、「ピザ~~~」とか、「やきぶたたべる」とか、食いしん坊の姪が年末年始に増えた語彙はそんなものたち。
「ちゃーはん」は誰も教えてないのに、いきなり取り皿を持ってそう言いだすものだから一同爆笑。

同い年のやんちゃな甥と、覚えて間もない片言の言葉を駆使しながら、交信するように会話をしている。
時々、互いの言い分がうまく伝わらなくて、手が出たり足が出たり。

「ここにね、あんキックされたの。いたいいたいだったの」
と姪は甥に「あんキック」を食らったようで、そのことをここ3日ほど根に持ち続けている。
でもまた手を繋いで走ったり、奇声を上げたり。
概ね仲良しな姪と甥だ。

子どもを見ていると、その奔放さやら子どもながらの気遣いやらに、いつも、胸がぎゅっとなる。
自分のことを考えながら。

午前中に起きる気のない私は今日水族館に置いていかれて、ごはんと納豆とお味噌汁と黒豆という実家とは思えない質素な昼食をとり、こうして静寂の中コーヒーをドリップしてこたつでブログを書いているのはとっても落ち着く。
今日の夜、いもうと夫妻の車に乗せてもらって東京に戻るのだが、もはやギターだって弾きたいし、自分のベッドで寝たいし、自転車で走りたいし、東京に身を戻したくてたまらない。

それでも実家に帰ってきて良いなと思うことは2つ3つあって、1つは湯船に浸かれること。
一人暮らしをして以来、ほとんどシャワーだけで済ませてしまっているけれど、温かい湯船はやはり体が休まる。
まあ汗がうまくかけないので長風呂もできないけれど。

もう1つは髪や肌の調子が良くなること、特に髪。
これは栄養面によるものではなく、水によるものと思われる。
いもうとも言っているが、こちらに帰って1日で髪がさらさらつやつやになるのである。
そう思うと、東京の水はどうなんだ、という話になるけれど。

上げ膳据え膳だったり、洗濯をしてもらえるとか、家事が手離れすることは特にメリットではない。

実家では私はけいこの隣に布団を敷いて寝るのだけれど、なぜか1人分の布団ではなく体の一回り大きいくらいの敷布団しかない。
その上、人数が多いから冬の掛布団が足りないと、押し入れから出てきた布団のようなものが激烈に重くて、私は首を絞められている夢を見た。

借りている「天」を読む。
泣ける。

たぶん、ある機が熟した状態で読んでいたなら、私の最初のロックンロールの体験は福本さんの漫画だったかもしれない。
確かに音楽の方がわかりやすい刺激だとは思うけれど、いやでも、漫画の構造というものも十分にパンチ力がある。


世間的に長いと言われていた今年の年末年始休暇。
私がその間も仕事をしていたからというのもあるが、あっという間に終わってしまう。

会社に行かない私も、5日から割とフル稼働である。


初夢が悪魔の仕業と泣きついて




何を避ける

2015-01-01 23:40:14 | 日記
ギターを背負って帰宅してまもなく、年が明けた。

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

大晦日の昨日、ギターもドラムもベースもできるという方が、一緒にスタジオに行ってくれるというものだから嬉々として渋谷に向かった。
いささか、というか結構緊張もしていたけれど。

私のようなレベルの人がスタジオに行きたいというときは、誰か1人でも私を支え、私に付いてきてくれる上手な人が必要である。
テンポがずれがちな私に何食わぬ顔で合わせてくれて、私が恥ずかしくないように自分は音に乗って演奏し引っ張ってくれて、私の失敗に少しうんざりしながらも根気よくアドバイスをくれて、前奏も間奏もよく分かっていない私を尻目に曲全体を成り立たせてくれて、そんな、私のわがままと至らなさを一挙に引き受けて尚、前に進んでくれる頼りがいがある人。
そして私が指定した曲ばかりをやってくれる心が広い人。

今回もそんな人が付き合ってくださって、「ラブレター」「日曜日よりの使者」「夕暮れ」「アンダルシアに憧れて」「トレイントレイン」「To be with you」「リンダリンダ」「Don't look back in anger」
如何せん私のギターとボーカルに余裕がなさすぎるので、やってくれていたギターやベースやドラムについて、ほとんどお任せ状態で聞くことができなかったのは少し後悔している。
が、そのときにそれに気付いてもやはり、余裕がないので聞けなかったとは思う。

ただその人の演奏スタイルとして、ひとつだけとても伝わってきたことがあって、それは「気持ちを音に乗せているのだ」ということだった。
割と長い間知り合いである方だけれど、あぁこの人はこういうことで音楽をやっているのだ、ととても腑に落ちた気がした。
演奏姿はほとんど見ていなかったけれど、そのことだけは音だけで十分すぎるくらい伝わってきていた。

レベルが低すぎるけれど、私は曲が前奏からエンディングまで全部やれてそれっぽく終わるだけで、すごいな、と思ってしまったりする。
未だ「音楽に乗って演奏する」ということが体感できない私だけれど、でもやっぱり音楽は誰かと一緒にやると楽しい。

それは本当に、全幅の信頼を置かせてもらえて、引っ張ってくれる人あってこそだ。
と同時に、なんだか私みたいなのに付きあわせてしまったことを申し訳なくも思った。

ありがとうございます、すみませんでした、ありがとうございました、もし嫌でなければ・・また・・・是非・・・。
という、そんな心持ち。

私は、自分で生む音にさっぱり自信がない。
何かを見るとき、聞くとき、それが写真や曲など、出来上がった完成品であれば、自分にとっての良いか悪いかはなんとなく判断できる。

けれど、自分の生む音であったり、旋律でないギター単品の音やドラムのリズムだけについて、「良い」ということがどういうことなのかの自分なりの尺度さえも持ち合わせていない。
音楽に対する自分の見聞きが圧倒的に少ない、ということもあるだろうが、物事の判断基準の基本となる「自分が良いと思うものが良い」ということさえもよく分からないのである。
「その曲いいね」と言えても、「そのギターの音いいね」と言えないのである。
文脈以外の見方の、音楽における「良い」が自分でよく分からないから。
ちなみに、「ダメな音」として聞こえるギターなど私にはなくて、全部「良い音」に聞こえる。

このことがまさに私の音楽のコンプレックスなんだな、と思う。
何はさておき、「自分が良いと思うものが良い」という判断は別にどの段階で、どんな稚拙な意見であっても持つことだけはできるはずだ。
それなのにそれができないということは、目を背け過ぎということに他ならない。

そんなことで「音楽に乗る」、何であれ「音楽を使って表現をする」なんてことができるはずはない。
音楽は私にとってあまりにも巨像だけれど、ちょっとでも、近づけるといいな、と小さな心で思うのだった。

大晦日の渋谷は、全然お店が空いていなかった。
お店を覗けども覗けども、まっくらか大掃除中か「準備中」か。
コンビニは年中無休、世界でも明かりが消えない街東京であるはずなのに、大晦日の居酒屋はほとんどやっていない。

やっと入れたチェーンの居酒屋も2時間制。
行く場のない人たちが次々と入ってくる。

2時間で追い出されてしまったので、コーヒーを飲もうと思っても当然難民と化す。
スタバなどのカフェも店じまい。
ホテルのラウンジなら、とエクセル東急は空いていた。
最初からここにすれば良かったと思うほど、空いてもいるし居心地も良い。

今後大晦日に渋谷に来ることがあったらここは使えると覚えておこう。

家に着いて年が明けて林檎をかじって、できなかった「To be with you」のソロパートを練習する。
改めてiTunesから曲を聴いてみると、随分と明確な音で強く弾いていた。

一生懸命10時半に置き、乾きにくい布団カバーを洗濯して、2時間に1本しかないひかりに乗るべく着々と準備。

新幹線の中で仕事が少しでもできればいいのになと思ったのに、終始考え事をしていた。

実家に着くと、「みんながおるで仏さんまいるか」とおじいちゃんが言う。
浄土真宗のお経をなんとなく、私は読むことができる。


息白し障子に染みた羊さん