つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

想像する午後

2015-02-04 12:39:23 | 日記
最寄駅のように使っている、家から自転車で20分ほどの駅からの帰り道、クイーンズ伊勢丹があって。
友人への誕生日プレゼントの梅酒と苺を買ったときぶりに、ふと立ち寄ってみた。
あのときは、ローリングストーンズか、ポールマッカートニーか、明確に思い出せないけれど、東京ドームのライブの日だった。

普段、クイーンズ伊勢丹を使わないのは、単純に値段が高いからである。
道路の対岸にまいばすけっとがあるからである。

野菜などをざっとみると、まいばすけっとよりも1.5倍から3倍くらいの価格である。
“良品”を置いているのだろうし、ブランド戦略的にはある程度高い方が安心と思っている人向けで、高い方が売れるというのもあるだろう。

ワインやお酒、チーズ、ジャム、ポン酢、醤油、みりん、せんべい、クラッカー、シリアルなどなど、実に品ぞろえが豊富である。
そして魅力的、魅惑的である。
最近、まいばすけっとにも輸入物のお菓子などが置かれているけれど、それらはまいばすけっとの他の商品との価格差があり過ぎるので熟れないだろうなと思う。
一方、クイーンズ伊勢丹にあればそのくらいの価格は当然、というような気分の前提があるので、他の商品と同様に売れるだろう。

私は海外へ行くと、観光名所はさておきスーパーは必ず行きたいと思うくらい、外国語のパッケージのものがとても単純に好きだったりする。
りんごやバケットなどが山積みになっている感じも。

クイーンズ伊勢丹になんとなくそんな感じを見てしまって、わくわくしてしまって、とても久しぶりに家でワインでも飲もうかという気分になってしまった。
フランス産のウォッシュチーズとタコスチップス、ドライトマトのオリーブオイル漬け、鯵の塩焼き、白ワインのハーフボトル。
ついでにバターやブルーベリータルトなんかも買って。

クイーンズ伊勢丹の思うまま、である。

ワイン商社に勤めるほどワイン好きのいもうと夫婦のおかげで、“良いワイン”を私は比較的たくさん飲んでいると思う。
しかしワインの良し悪しは未だによく分からないし、さほど重要ではない。
今回の安ワインも、少し刺激感はあったものの、それなりだなと思いながら飲んでいた。

思ったのは、今日はいつも食べないものを買って「お酒飲んじゃおっかな」というわくわく感が、飲んでいるときの楽しみに勝る、ということである。
遠足は行く前の準備が楽しいなどということがあるが、そういうことでもあるし、私はお酒の味や食べ物から得られる快楽や、「酔う」という楽しみをさほど感じていないということでもある。

体の「酔う」という反応がうまくいって気持ち良くなれるのは、私の場合2割くらいなもので、それはとても気持ちが良い状態なのだけれど、とても短時間しか続かない。
おそらく、肉体的快楽もあった方がもちろん良いけれど、私は精神的快楽を好むし、求めているのだろうと思う。
後者を得るのはなかなかに難しくて、でも日常にもちゃんと転がっているものである。
それを取りこぼしたくないから、なるべくいつもフラットな状態でいたいと願っている。

飲んでしまったら、「アカギ」だってろくに観られなくなってしまうのだ。
何かを麻痺させて飛ぶのではなくて、素面で飛びたいのだ。


ハイネックルーズソックスニット帽




机上の紅葉

2015-02-01 13:44:33 | 日記
甥が熱を出し、いもうとがインフルエンザで、続いて姪がインフルエンザで、けいこはその世話にかり出されているらしい。
「もてて困ります」というようなメールを私によこすので笑ってしまった。

私は今本当に日中に片道1時間強のいもうとの家まで行っている余裕はないので、助けてあげられもしない。
それに、インフルエンザウイルスが蔓延している場所に自ら突っ込んでいくなど、やはり私はできない。
今私が別経路でインフルエンザになることは仕方がないにしても。

騒動が終わった後に、けいこがインフルエンザにならなければいいけれど、と思う。

私はここ何年も風邪という風邪をひいていないけれど、諸々自分の体で起こしていることに変わりが利かないことが増えているので、それに対する緊張感がある。
緊張感とか持っているときっと免疫機能などが低下して、風邪をひいてしまうのではないかという悪循環の恐れも抱く。

無理をしないこと、よく寝ること、体を冷やさないこと。
これらは守っておいた方が良い。


余白の余白がない日々を送っているが、それでもギターは少なくとも3日1回くらいは触っている。
何の気なしにギターが弾きたいなと思うこういうときほど、ある程度さまになる感じのフレーズが弾けたらどんなに気持ちいいだろう、と思う。
まあそれでも、コードを鳴らしているだけでも、随分と嬉しくなってしまうのはずっと続いてあるのだけれど。

初めてまともにコピーしたギターソロMr.Bigの「To be with you」はなんとかかんとか、止まらずに全ての音が出るようになってきた。
音楽とはいえ、現象的に言えばすべては「脳から指令を受けた運動」である。
「脳からの指令通りの運動」ができるようになるのは、的確な理解と、たくさんの反復練習しかない。

毛筆や硬筆のレッスン時にも、最近はこの話は常套的にとてもよくする。
理解と練習のバランスや必要な量は個人差があるけれど、少なくとも皆そういうものである。
天才、と呼ばれるどちらも必要なくできてしまう人がいるかいないか知らないが。

そして、あるときうーっと運動を続けていてできないことも、数日後に不意にやってみると、「あれ、できる」ということが起こり得る。
スポーツや楽器を経験したことがある人であれば、この感覚は結構多くの人が持っているようで、とても理解してもらいやすい。
字を書くということは緻密な運動に他ならない、と偉そうに言ったりするのである。

まあでも、私もギターでいえば進歩が微々たるもの過ぎて、結局生徒さんに言っていることは全部自分に戻ってきてしまったりする。
ギターが上手くなりたい、と私は切に思うけれど、切に思うだけでは何にもならないし、そもそも切に思っているのか?という話にもなる。

ギターの弦が張り替えたい。
しかし、自分でやるとギターが壊れてしまいそうな気がする。


ストーンローゼズってとても雰囲気がある音がする。
ふと色々なアルバムをチョイスして聞くのだけれど、ストーンローゼズはいつも耳に止まる。
そして、その場の私の雰囲気を持っていかれる。

フラワーカンパニーズやミッシェルガンエレファントは、良い意味でかなり色合いが偏っている。
一発でわかるような、“彼、彼ららしい”というサウンド感がとても強固である。

曲作りというのもきっと、ある“自分”というものから逃れることは困難であろう。
しかし、出られずともそれからはみ出ようととする姿勢なのか、それを真っ直ぐ突っ切ろうとする姿勢なのかは、おそらく音楽というものの何かを司っているだろうなと思う。
あるいは他の姿勢もあるとは思う。
前者でも後者でも、他のものでも何でも良くて、しかしそのときのアーティストの姿勢というのは、大いに反映される。


横しまに吹雪く列車の全速力