なるほどTHE武将博スタンプラリーのついでに、黒田城へ寄ってみました。
黒田城は、尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田字古城)にあった城で、初代土佐藩主となった山内一豊の生まれた城です。
築城時期はよくわかっていませんが、1532(天文初)年には織田伊勢守家の家老であった山内盛豊が城代として入ってました。
山内一豊は盛豊の三男として、1545(天文14)年にこの城で誕生しています(岩倉城誕生説もあります)。
しかし、このころ織田伊勢守家と織田氏の傍流ながら勢力を強大化させた織田信長とが対立し、1557(弘治3)年黒田城は襲撃されてしまいます。
生き残った山内一族は主家の岩倉城に逃れたものの、翌々年にはその岩倉城も信長によって落城、盛豊は亡くなり、一家は離散することとなります。
現在は、記念碑が建てられているのに過ぎません。
山内一豊の像
鏡のように写り込む石碑
山内氏以降、黒田城は城主をたびたび変え、最盛期には東西役120m・南北約100m規模で、周囲に堀を巡らし、北西端の主郭部分には、天守に相当する櫓があったそうです。
江戸時代初めに廃城となり、現在、敷地の多くは一宮市立黒田小学校となっており遺構は見あたりません。
学校の北を流れる野府川は、かつての堀の跡と伝わっていますが、はたして・・・
黒田城
住所:愛知県一宮市木曽川町黒田字古城
ツーに行って知らない土地でこのような地名に出会ったとき、ふと歴史の重みを感じたりいたします。
まぁ次の瞬間は「何か旨い食いモンはないか」などと考えてるワケですが(苦笑)。
地理的な条件でしょうが、この時代の東海地方は本当に偉い人が一時期に固まって表れたのですねぇ~都に近いと言うだけで言えば西国にもっと居ても不思議では無いのに、平家の影響でしょうかどこかお公家さんのような気質になっていたのでしょうか、天下取りを目論んで我先にと都へ攻め上ったと言う人はとんと聞きません、私見ですが、西国は温暖な気候と肥沃な土地柄で領地を増やそうと言う野心や天下に号令と言うような気にならなかったのでは無いかと考えています、
お堀にしては狭いように思いますが、どうなのでしょうか。用水路?
おっしゃるとおり、遺構はなくても地名の残っていることはよくありますね。
この日は第一旭木曽川でラーメンを食べました。
http://r.tabelog.com/aichi/A2302/A230201/23041425/
京都で修行されたと聞いていますが、本店よりもこちらの方が好きです。
第一の理由は信長の存在でしょう。秀吉・勝家・家康・利家も信長がいたからこそ力を持てたと思いますし、福島政則や加藤清正も間接的に信長の活躍のおかげだと思います。
気候とかの影響はあるかもしれません。温暖な駿河の今川義元は公家的のところがあったみたいですね。
①野府川を利用して堀を作った。②堀の後が野府川になった。現地の説明などを見てもこのどちらかわかりませんでした。いずれにしてもここに黒田城の北面の堀があったという事実が残っているだけで、姿形は当時のものは全く残っていないと思います。現在の姿はまさに用水です。
一豊というと「内助の功」の話は有名でそれしか知りませんでした。土佐の山内の元だったとは。一豊のイメージと土佐の上士・下士の階級制度のようなものは結びつきませんでした。
豊臣の家臣で掛川を治めていたう山内一豊は、関ヶ原の折には真っ先に徳川についたため、土佐一国を譲り受けることができました。ところが土佐には先任の長曽我部氏の家来が残っていました。そこで掛川から連れてきた家来は上士、長曽我部派は下士に分けられたのが始まりと言われています。
歴史に疎い私でも、山内一豊と聞くと内助の功の代名詞のような奥方様が思い浮かびます。(結局本人の事は知らんかったりして:笑)
学校の北を流れる野府川は、かつての堀の跡と伝わっています・・・―と、ありますが、お城跡が学校になっているところが多いような気がします。
一豊の妻は大変有名ですが、前田利家の妻のまつとか、秀吉の妻の北の政所・淀君、細川忠興の妻ガラシャとか、他の時代よりも戦国武将の妻はイメージしやすいです。女性が強かった時代なのかも知れません。
城跡は公園として利用されている例が最も多く、次いで学校・役所となっているのをよく見ます。庶民に愛されつつ利用されるのが良い姿に思えます。