デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



前回のダヴィッドの記事でフランス革命期の絵画をすべて紹介しようと思ったが、ダヴィッドだけで記事が埋まってしまった。


ポール・ドラロッシュ「殉教した若い娘」(1855)

ポール・ドラロッシュ(1797-1856)もナポレオンの勇姿を描いた画家の一人で、代表作として「ジェーン・グレイの処刑」という迫真性に満ち、かつ美しい写真のような作品がある。
「殉教した若い娘」のテーマは歴史にまつわるものの、それ自体は不特定な事件を扱っている。絵自体は、ディオクラティアヌス帝の頃のローマ時代に、キリスト教信仰を捨てなかった若い娘が手足を縛られて、ローマのテヴェレ川に投げ込まれ溺死する場面を描いているわけだが、写実性にすぐれた宗教画ともいえるし、背景が暗く蒼い水面に浮かび上がる娘の白い顔と衣装は、悲惨というよりも詩情すら感じさせる。
実はこの絵を見たのは二度目。一度は京都市立美術館にルーヴル美術館展が来たときだった。現地でもとても美しい絵だと思ったが、帰国後に絵について調べると、この絵は画家の最晩年に描かれ、描く前には妻に先立たれて悲しみにくれていたことや、病熱の際に見た幻影からスケッチを重ねていったのが、制作のきっかけや過程にあったのだという。作品を制作する前に画家は「私の作品の中で最も悲しく、最も神聖な作品になるだろう」と友人に書き送った。


プリュードン「西風にさらわれるプシュケ」

ギリシャ神話のアモルとプシュケの話しは、昔から多くの画家が好んで絵のテーマに取り上げたが、プリュードンも話しの序にあたる場面を描いている。
写真では不気味に写っているが、実物はとても官能的な絵だった。


フランス絵画の大作の部屋に、ヴィジェ=ル・ブランの「母と娘」もあった


他にも、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ、カラヴァッジョ、ベラスケス、ムリーリョ、ゴヤらの傑作も見て感動したが、撮影禁止だったし、書いていったら膨大な量になるので端折る。だが、検索すれば「モナ・リザ」「洗礼者ヨハネ」「聖アンナと聖母子」「岩窟の聖母」「美しき女庭師の聖母」「聖家族」「冠の聖母」「バルダッザーレ・カスティリオーネ」「聖母の死」「占い師」などの有名絵画は、すぐに出てくるので、きっと「あっ、この作品知ってる!」というものもあるだろう。

それにしても、レオナルドとラファエロとカラヴァッジョの絵は密度濃かったにも関わらず、来館者の殆ど?が「モナ・リザ」に集っていた。私は以前の笑い話を検証したくなった(笑)。

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ダヴィッド「皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」(1805~07)

これまでにも、ヴィジェ=ル・ブランユベール・ロベールなど、フランス革命に翻弄されつつも生き抜いた画家を紹介したが、革命の真っ只中に活躍し政治にも深く関わった画家といえば、ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)だろう。(ダヴィッドの描いた絵で、最も知られている作品といえば、こちらかもしれない。)


ダヴィッド「自画像」(1794)

彼は若い画家の登竜門であるローマ賞に4回失敗して、25歳のときに初受賞する。ローマ留学中も自分の絵の模索を続け、帰国後は次々と作品をサロンに出品した。その頃はまだフランス革命前で、ダヴィッドは王家や貴族の注文で歴史画や肖像画を描いていたが、革命が近くなってきたころに、王室が望むテーマとは異なった、結果的に共和政に与するようなテーマの絵を無断で描いた。
当然、アカデミーからは目をつけられるが、ダヴィッドは我を通しアカデミー内で既存のアカデミーに不満を持っている人間をまとめる役をひきうけたりして、本人が自覚していたどうかは分からないとはいえ、時代の趨勢に乗るのである。
そして革命が勃発し、ダヴィッドは終始徹底した急進派として行動した。ルイ16世の処刑にも賛成票を投じた。
テルミドールの反動で2度にわたって捕らえられたダヴィッドだが、ナポレオンが台頭し、彼は美術の政治的効用とダヴィッドの力量を知っていたナポレオンの庇護を受けた。そしてナポレオンの帝政を支持し、皇帝の首席画家となった。
しかし、ナポレオン失脚後、彼はベルギーに亡命し、王政復古後のフランスへ戻ってくるように懇願されても断りつづけ、そこで晩年をすごした。

というわけで、簡単にダヴィッドの生涯について書いたが、ダヴィッドが猫の目のような当時の政府にとって、いかに大きい存在であったかは絵を見たらわかると思う。
このブログの画像には無いが、ダヴィッドはナポレオンが台頭する前に、フランス革命で殉教した人物を描いたり、今で言う国会の重要法案可決時の瞬間の絵を残そうとしたりと、本当に政治に密接に絡んでいるのだ。
その究極の形が、一番上にある「皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」だと私は思う。ダヴィッドの代表作だが、ダヴィッド自身が好んだ画風、そしてナポレオンが望んだ「効用」をここまで忠実に表現した作品はないのではないか。ちなみに絵のサイズは縦6m以上・横ほぼ10mで、描かれている総勢200名におよぶ人物で主要な人物が誰なのかすぐに認識できるところなど、歴史画の傑作の名をほしいままにしていると思う。


ダヴィッド「サビニの女たち」(1799)

サビニ女の掠奪については以前プッサンのときにも触れたが、ダヴィッドの絵はサビニの人々が女性たちを取り戻そうとローマに攻め入る場面を描いている。すでにローマ人の妻になっている女性が、争いを制止しようとしているところが印象的だ。そしていかにも古典に学びましたといわんばかりの男性の裸体が、とても映えていた。


ダヴィッド「ホラティウス兄弟の誓い」(1794)

この作品はローマ建国時代がテーマで、ローマとアルバが争っていたとき、各々の国から三兄弟を決闘させて、ローマのホラティウス兄弟の一人が生還し、ローマが勝ったという話しなのだが、、、動乱のフランスでは絵にある古典云々よりも革命の解釈の方で有名だったかもしれないなぁと思う。
ちなみにこの絵のテーマの一つには、ホラティウス兄弟のうちの一人の妻が、闘ったアルバの兄弟を実の兄に持っていたりするという、やるせないものもある。というか、伝説?とはいえ建国にあたっては闘いばっかりしてるのか??ほんま。


ダヴィッド「パリスとヘレネの恋」(1788)

映画「トロイ」の元ネタになった「トロイア戦争」勃発の火種になった二人。この絵の二人の位置や優美なポーズは本当に見事。色使いもとても繊細だった。私はこれも傑作だと思うが、なにせダヴィッドの大作群がある部屋の中では、この作品ですらあまり目立たない。


ダヴィッド「セリジア夫人とその男児の肖像」(1795)

ナポレオン台頭の前、テルミドールの反動で捕らえられたダヴィッドだったが、自由になった際、彼はダヴィッド夫人の妹のセリジア夫人のもとに身を寄せいていたことがある。
身を寄せいていたというより、絵の感じからして、実際、家族と親密にしていたと表現する方が、いいかもしれない。セリジア夫人は、ダヴィッドが上の「ジョゼフィーヌ戴冠」の絵を制作している頃に亡くなったが、彼はおそらく相当悲しんだのではないか。
絵は自然な雰囲気で描かれた心地よい作品だと思うが、実は私はこの絵でダヴィッドという人の名前を知り、それからナポレオンが馬に乗って峠越えする絵と画家の名前が一致したのだ。ダヴィッドへの興味を「セリジア夫人とその男児の肖像」で得たということもあって、館内でもこの絵の前でじっとしている時間が長かったと思う。

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旅で出会った「妖精たち」が踊ってくれました(笑)

弊ブログでの西班牙彷徨シリーズは、未だルーヴル美術館を出ていないが、時期がくればフランスの田舎町から知合った旅の仲間について書くだろう。
その旅の仲間から自筆のクリスマスカードと、Eメールに添付されてきたエルフに扮した仲間がアニメチックに踊るクリスマスEメールカード、さらにオーストラリアに住んでいる友人からもクリスマスカードが届いた。
3通とも、それも12月24日に!


本当に嬉しい!

年賀状は1月1日という意識でいる自分にとっては、うっかりしていたも同然で、急いで返事を書いて送った。届いても年明けだなぁ(笑)。
でもみんな元気にしているようで何よりだった。

Tanti Auguri di un Sereno Natale e Felice Anno Nuovo.
Je vous souhaite à tous une très bonne année 2008 !
A happy new year !

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ウージェーヌ・ドラクロワ「ダンテの小舟」(1822)

フランスを代表するロマン派の画家ドラクロワについては、以前少しだけこちらで触れた。
しかし、ルーヴルのデゥノン翼のフランス絵画の大作の部屋(ジェリコーの「メディーズ号の筏」もある)にあるドラクロワの作品群こそ、さらにとりあげるべきと思う。
ドラクロワという画家は「本当の父親は誰か?」という議論が巻き起こるその出生からして、現代の美術研究者を悩ませている。
また面白い逸話として以下の二つがある。
一つは、『モンテ・クリスト伯』や『三銃士』などを書いたデュマに、ドラクロワ自身が語った内容として、小さい頃何度も死に掛けたが、それでも生き抜いてこれたのは「神の摂理が私を見守っていてくれたおかげ」だといったものがある。
もう一つは、子供の頃に出会った占い師が「この子は将来きっと有名になるであろう。だがその生涯は苦難に満ちてけわしく、絶えず反対にぶつかるだろう」と言い、成人し熟年に達したドラクロワは「まったくその通りではないか。今でも私は仕事を続けているが、相変わらず批判されてばかりいる。あの男はたしかに本当の占い師だった」とかいったようなものだ。
妙なというか奇怪というか(笑)。
事実、彼が発表した作品は、当時の美術界のなかで賛否両論の嵐が吹き荒れ、本当に評価が真っ二つに分かれた。新古典主義の通常の評価の基準からすれば、ドラクロワの作品は《まったく滅茶塗り》だと評する人もいたし、通常の評価基準では評価できない新しく前衛的な画家としてドラクロワを天才と言い切る人もいた。
さて、上の「ダンテの小舟」はあらゆる先輩画家や文学に学び、2ヶ月半にわたって没頭して描かれた24歳のドラクロワ渾身の作品で、1822年サロンに出品された。賛否両論あるなかで、この作品は政府に買い上げられ、以後ドラクロワは画家としての自分の歩む道に自信を深めた。
それにしても、絵の題材であるダンテの『神曲』地獄篇は、読むだけでもいろんな場面が頭の中で想像できるのに、それを絵に昇華したドラクロワには舌を巻くしかない。ちなみにこの絵は縦189cm×横246cmのサイズで、迫力がある。すごい作品だが、これですらまだ序の口かも。



ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」(1830)

来ました!フランスを代表する絵画の一つといっていい傑作。ちなみにサイズも260×325cmと圧巻だ。(ただ、これよりも大きいヴェロネーゼの「カナの婚礼」やダヴィッドの「妃ジョゼフィーヌ戴冠」もあるから、ルーヴルは計り知れない)
体があまり強くなく外に出ることの少なかった”書斎派”のドラクロワも、フランス革命の戦闘は目にしたことがあり、そこから絵につながる多大なるインスピレーションを得た。
フランス革命について書くと「~の襲撃」だ「~月革命」だとか、ごちゃごちゃあるようだが、「民衆を導く自由の女神」は1830年7月にシャルル10世のブルボン王朝が打倒された7月革命での民衆蜂起の寓意画である。ちなみに7月革命のあとルイ・フィリップによる「七月王政」が立つが、その頃にはこの作品の価値はあまり認められてなかったようだ。
しかし、今やこの作品は”フランスといえば、ドラクロワといえば”というぐらい、圧倒的な存在感と価値を誇っている。
私がこの大作で注目したのは、やっぱり上半身をむきだしにした「女神」の存在で、堂々としたリーダーシップを発揮し勇敢に歩む姿に、ほれぼれしてしまったのだった。帰国後、この絵についての解説を読んだら、なんと革命後発行された小冊子にアンヌ=シャルロットという洗濯女が戦闘で殺された弟の仇を討つため「スカートをつけただけの姿で」勇敢に戦った譚があって、「女神」像はそこから霊感を得た可能性もあるのだという。ルネサンスやバロック時代の画家も、モデルについて少し似たような霊感を得て絵にしたと聞いたことがあるが、ドラクロワにも同じことが少しくらいはいえるかもしれないと思う。



ドラクロワ「サルダナパールの死」(1827-28年)

反逆者に宮殿を取り囲まれた、栄華と快楽を極めた古代の専制君主が、最期に自分の寵愛した女や小姓、さらには愛馬や愛犬まですべて殺害するよう命じた場面。
左上に寝そべるサルダナパールの表情と傲然とした態度、もう完全な無意志というか、自暴自棄や絶望すら通り越してしまっている。官能的な殺害ともいえるドラマが、4m×5mぐらいの大きさで迫ってきた。
この絵は旅行ガイドブックでも「必見」みたいに扱われているが、私もそう思う。
絵のモティーフになっている時代は特定されてはおらず、伝説の域にとどまっているが、この絵のテーマは決して数は多くないとはいえ世に存在し、人間の無意識の一部を表現していると感じた。正直、心して見よ!と思った。

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ドメニコ・ギルランダイオ「老人と少年」(1488)



おや、修復されている??

ギルランダイオ(1449-94) はボッティチェリと並ぶフィレンツェ派の画家だ。なんと、ミケランジェロも当初は彼の弟子だったことがある。
ギルランダイオはとても写実にすぐれていて、多くのフレスコ画を製作して、宗教的場面の中に同時代の人物や風俗を豊富に描きこんだ。絵の注文主は裕福な人であることが多く、キリスト教の場面の偉い人物に当時の権力者の姿が、などという分析も、フィレンツェ史を少しでも知ってたらきっとおもしろいに違いない。ちなみに、この肖像画でも、ルーヴルにいた時にはそこまで気付かなかったが、この老人が裕福だった根拠として、着ている服の裏地が描かれてある。
独立肖像画を約20点残しているボッティチェリとは対照的に、ギルランダイオは2作品しか現存していないとされる。その一枚がルーヴルにあるのだ。
この「老人と少年」に描かれている人物からは情愛が感じられ、とても生き生きとしているので印象に残るのだが、なんとこの老人は描かれた時には既に亡くなっていて、死に顔のスケッチから生前の姿を再現しているという、ちょっと驚くべき作品なのだ。

ところで、この絵は私の好きな小説にも登場する。

日ごろからスワンは、巨匠の絵のなかにただ単に私たちをとりまく現実の普遍的な性格を見出すだけでなく、逆に最も普遍性と縁遠いように見えるもの、私たちの知合いの顔の個性的な特徴といったものをもそこに見出して喜ぶという、特殊な趣味を持っていた。こうしてスワンは、アントニオ・リッツォ作の総督ロレダーノの胸像が、頬骨の出かたといい、眉の傾斜といい、彼の馭者のレミと瓜二つであること、ギルランダーヨのある作品の色彩は、実はパランシー氏の鼻の色であること…
集英社版『失われた時を求めて』第二巻p77

小説の中のちらっとした描写だけれども、その譬えに使われる画家たちの名前、どうしても気になってしまう。私は絵の中の老人の鼻を、じっと見つめたりしていた…。



ジョバンニ・パオロ・パンニーニ「近代ローマの景観」(1759)

イタリア人画家パンニーニ(1691-1765)については、ユベール・ロベールについて書いたときにも触れたが、ローマで最初の廃墟の景観画家の一人なので、紹介したいなぁと思う。
この人の作品の特徴は、現実の建物・廃墟・場所と想像上の建物・廃墟・場所を巧みに混成させた奇想画(カプリッチョ)である。(ちなみに、パンニーニの影響を受けたと思われるロベールの奇想画の作品が、東京上野の国立西洋美術館にある。)
ルーヴルにはパンニーニの「近代ローマの景観」と「古代ローマの景観」という一対の作品があって、両作品とも古代ローマと近代ローマを写した風景画や彫刻がビッシリと一枚のカンバスに描かれている面白い作品がある。
絵画の中に描かれた風景画を見ると、日本でも旅行番組やガイドブックで見られる御馴染みの光景が、描かれてあったりする。正直、とても奇妙な感覚にとらわれたが、両作品でパンニーニはかつてのイタリアの偉大さを描こうとしたんだなと感じた。

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名作たちのシリーズ?が20を超えてしまった。まだしばらく続きますので、気長に気楽にお付き合い下さいm(_ _)m

さて、下にある2枚の絵だが、これらはレオナルド・ダ・ヴィンチの絵だ、と言ったら信じてしまうかもしれない。
もちろん、実際はレオナルドの絵ではない。しかし、作品の作者には共通するところがある。二人とも、レオナルドに入門し、彼を師と仰いだ画家なのだ。


アンドレア・ソラーリオ「緑色のクッションの聖母」(1500年頃)

「青は藍より出て藍より青し」というのは、レオナルドに言えた事だ。若きレオナルドは師匠のヴェロッキオの「キリストの洗礼」で天使の部分を描いたが、その天使を見たヴェロッキオが二度と筆を取るのを止めてしまったという「伝説」がある。
で、レオナルドが師匠であるというのは、どんなもんでしょ!?!?
アンドレア・ソラーリオ(ソラーリ)(1470/74頃-1514?)はミラノ生まれで、いろんな場所で先輩画家から多くのことを吸収し、生地に帰ってからはレオナルドに入門した。ソラーリは1490年以降にレオナルド芸術を忠実に反映した作品を描いたが、実際、画家として有能で作品も個性的ではあるのだ。
しかし、ソラーリの作品を現在の画集で見つけるには少々てこずるし、ルーヴル館内でも素通りする人が多かった。
レオナルドの画風の追従の域を出ないといわれることもあるが、私は上のソラーリの傑作は、美術史にしっかりと刻まれていると思う。実際、聖母を「母親の営み」として慶びの微笑とともに描いた作品は、あまり見られない貴重なものではないか。


ベルナルディーノ・ルイーニ「洗礼者聖ヨハネの首を受け取るサロメ」(1510年頃)



ひょっとして手が震えたのやも??

ベルナルディーノ・ルイーニ(1480/90頃-1532)のこの作品は、あのコードな映画でもほんの少し映った。
それにしても、このサロメの気持ちの状態はどうなんでしょ? 「勝利」の陶酔も表情に出さず、あたかも当然のような。少なくとも私はこの絵を見たとき、心の中で「うひゃぁ!」と叫び、動悸が激しくなってしまった(笑)

サロメについては、「サロメ」というキーワードで検索すれば、たくさん出てくる。
昔々、古代パレスティナの領主にヘロデという人がいて、ヘロデは兄弟の妻で既に娘のあったヘロディアを娶(めと)る。そのヘロディアの娘が、ここでいうサロメだ。
かつてキリストに洗礼をほどこした洗礼者ヨハネが、ヘロデを「兄弟の妻を娶るのは不道徳」と批判したので、ヘロデは彼を捕らえた。でも、洗礼者ヨハネは社会的?に影響力をもっているので、ヘロデは彼を殺さずに捕らえたままにしていた。
ある時、ヘロデの誕生日の宴会で、妻ヘロディアの娘サロメが、ヘロデとその部下らの前で舞った。ヘロデは彼女の舞がとても気に入り、「欲しいものは何でもやる」と誓ってしまう。
洗礼者ヨハネから不道徳だと言われ、彼を恨んでいたヘロディアは、サロメに「洗礼者ヨハネの首」を願い出るように言い、サロメは願い出た。ヘロデは悲しんだが、誓約した手前、洗礼者ヨハネの首を盆の上に乗せて持ってこさせ、サロメに与えるという、聖書にも載っている背筋の凍るような話である。
ここでは便宜上サロメと書いたが、聖書にはサロメという名前の記述は無い。しかし、この聖書の中のエピソードは、伝承の過程や絵画や戯曲や小説やオペラなどで、さまざまな解釈や物語の改変が重ねられ、今や「サロメ」というだけで、トロイア戦争の火種になったヘレネや、エジプトの女王クレオパトラらに負けず劣らず、ファム・ファタール(運命の女)の象徴にまでなってしまった。後世の解釈(創作・改変)で特に目を惹くのが、洗礼者ヨハネへの熱情にとらわれたサロメ自身が彼の首を望むというパターンだと、私は思う。
私はこの絵が、女性への一種の心理テストに用いられてもおかしくない気がする。私の勝手な妄想だが、この絵(テーマ)を好む傾向にある女性は、かなりの小悪魔ではないか!?(笑)。

ところで、上のルイーニの絵も、「レオナルド作です」と言われたら、「はいそうですね」と言ってしまいそうになるくらい、レオナルド芸術の影響が色濃い。ルイーニはレオナルドに入門し、1510年以降は師レオナルドに傾倒したのだ。
とはいえ、「洗礼者聖ヨハネの首を受け取るサロメ」は、ルイーニの画風である甘美な感じを前面に押し出したことで、師に負けないくらいの精神性が感じられはしないかと思う。

レオナルドの影響を強く受けたルイーニだが、1520年以降になると師の影響を脱して、ルイーニの独自の美しさが表れた作品が出てくる。そういった作品は主にイタリアにあるそうだが、ルーヴルにも先に紹介したボッティチェリの壁画のある同じ部屋に、下のルイーニ独自の作風が表れた作品があった。


ルイーニ「東方三博士の礼拝」(1520-1525頃)

今から思えば、「洗礼者聖ヨハネの首を受け取るサロメ」の印象が強くて「意外な気がした」が、その驚きの印象を忘れないでよかったと思う。
それにしてもこの絵、まるでお釈迦さんが誕生した時みたいな雰囲気を感じたのだが…。

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キリスト磔刑の場面。印象に残ったが誰の作品か、チェックし忘れた!

先に紹介したジョットの作品がある部屋には、フラ・アンジェリコの「聖母戴冠」や「聖コスマスと聖ダミアヌスの殉教」その他の名作もあったのだが、私が楽しみにしていたのは、何よりサンドロ・ボッティチェリの作品だった。


ボッティチェリ「薔薇園の聖母」(1468年頃) 93x69cm(下に図版からの画像)




この「薔薇園の聖母」は1470年以前のボッティチェリがプラートのフィリッポ・リッピのもとでの修行を終えてフィレンツェに戻り、おそらくヴェロッキオ工房で協力者として活動を開始した時期に描いたとされる「聖母像」のうちで、もっとも信憑性が高いものの一つだそうだ。
描かれているのは、マリアと幼キリストと少年時の洗礼者聖ヨハネの姿。もちろん聖書には、この三人が一堂に会したという記述は無い。実際、ルネサンス絵画で、キリスト教をテーマにした作品のうち、聖書原典にない解釈で持って描かれた作品は数多いといっていいのではないか。
しかしながら、たとえ聖書の記述に則してなくとも、この作品は宗教的なお題目以上ものが感じられた。
パッと見た感じでは、なんと美しいやさしい光溢れた絵だろうか、と思ったが、それ以上に、どうやったらこんな風に衣服を透けた様に描くことができるのか、不思議でならなかった。
そしてジョットの絵にも通じるようなルネサンスの共通点、まずは絵に奥行きを感じさせる技術、次に(私はこれが何より重要だと思っているのだが、)キリストといえども子供らしく、マリアといえどもわが子の将来をメランコリックに憂いる一人の母親として描いているところが、すばらしかった。
聖書のなかの重要人物といえども、見る側の人間の心の琴線に触れる、特にボッティチェリの聖母像は憂いの表情にとても特徴があって、私などは惹きつけられる。


ボッティチェリ「ヴィーナスと三美神から贈り物を授かる若い婦人」(1485年頃)

1873年にフィレンツェのレンミ荘の漆喰壁の下から発見された3枚のフレスコ画の一部。損傷がひどいので、ルーヴル内では薄暗い部屋にあった。最初は何の壁画かわからないけど、「春」とかを思い浮かべれば、似ているなぁと思った。額縁に入っているきれいな画もいいが、歴史を感じさせる損傷している壁画もまたすばらしかった。
この壁画が描かれた頃は、人文主義者や詩人、芸術家たちの文化サークルがメディチ家の別荘や他の各所で開かれ、そこでは古代の文化が語られ、さらには古代の思想とキリスト教とを統合しようという哲学も生まれていた。
この絵は、そういった哲学の影響が色濃く、ヴィーナスと三美神は「美」や「愛」をつかさどる存在だから、総じて寓意画とされる。
それにしても、一枚の絵に込められたテーマが一人の婦人に対して、重いと言うか密度が濃いなぁ(笑)。それが当時の栄誉だったといえばそうなのだが。贈り物をもらう描かれた婦人のモデルは正確には特定されていないが、壁画の所有者だった人は、実際どんな人だったんだろうと思ってしまった。

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ジョット・ディ・ボンドーネ「聖痕を受ける聖フランチェスコと聖フランチェスコ伝から三場面(教皇イノケンティウス3世の夢、フランシスコ会会則の許可、小鳥への説教)」(1295-1300頃?)

ルネサンスの画家といえば、ボッティチェッリやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロやミケランジェロが定番だが、ルネサンスの真の祖先といえばジョット(1266頃-1337)だといえる。
ジョット以前の絵は主にイコンとかビザンティン美術の作品みたく、教会の祭壇画みたいな感じで、それは神様もマリアも天使も聖人も配置や表情がどれも似通っていて、奥行きを感じさせない二次元空間での表現にとどまっていた。これは、中世の芸術家が祭壇画を描くときに、厳格な慣例と様式に従わなければならなかったからである。
ジョット以前にも絵画の伝統の束縛を思い切って打ち破ろうとした画家はいる。
しかし、ジョットの絵は、真ん中の聖フランチェスコの背景に岩山が描かれて奥行きを感じさせるところ、そして顔の驚きとともに敬虔な表情を描きこんでいる。それらが、ジョット以前の絵画との大きな違いなのだ。
さて、ジョットがテーマに選んだ聖フランチェスコ(1181-1226)とは、イタリアのアッシジで生まれた人で、遊蕩を重ねたあと重病に陥り、その後回心して一枚の衣だけで岩や土の上に寝て、福音を説き続けたという伝承が残る人だ。
聖フランチェスコには、いくつか有名なエピソードがある。そのうち二つ紹介すると、一つが、聖人が1224年にラ・ヴェルニアという山で祈っていると、熾天使(セラフ)が天から下ってくるのを目にし、やがて我にかえると身体に5つの傷(聖痕)が刻印されていたという異常事のエピソードだ。5つの傷というのは、キリストが十字架にかけられたときに受けた両手両足と右脇腹の傷のことだ。
もう一つは、鳥に説教して、鳥らがまじめに聞いてたというエピソード。
絵には、聖痕が刻まれる瞬間が描かれている。先に触れた奥行き、驚きとともに後ずさりした聖フランチェスコのアクションまで、その一瞬の場面を人間の表情と動きまで表現しようとしたといった特徴については、日本人団体客に向けての、わかりやすい解説がその場で聞こえてきたことで気付いたのだが、これが幸運だった。帰国してから、この絵についての詳しい解説を知りたいと思ったからだ。
さて、画像では分かりづらいが、絵の右下の方には、聖フランチェスコが鳥に説教している場面も、描かれている。見づらいので、拡大されている図版を載せると、



これは、説教しているのか?(笑)。正直、一瞬、エサを撒いて集まってきた種々の鳥たちみたいに見えたが、そこは鳥たちをみると、地面にクチバシを当てている鳥がいないのがわかる。それと、ほとんどの鳥が「つがい」に見える気がするのは私だけだろうか? 本当に、芸が細かい…。

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彼女は常にカメラに囲まれています。

メロスのアフロディテこと通称「ミロのヴィーナス」の展示室まで来た。


かなり身長の高い像です。

彫像についてはこちらに詳しいので、細かいことは端折るが、前100年頃につくられたとされるこの彫像が発見されたときには台座があったらしい。
台座はその後失われてしまったそうだが、記録によれば台座には、シリアのアンティオキア出身のハゲサンドロスという、作者たる彫刻家の名前が刻まれていたとされる。



もしかすると「ミロのヴィーナス」の実物を一度でいいから見てみたいと思っている方にとっては、これらの画像は興ざめかもしれない。
ただ、この像はあまりに人気があるゆえ、ゆっくり見ることができないのだ。その場の雰囲気からして落ち着かないのだ。
それが、これらの画像に顕れているかもしれないな、と思う。

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「サモトラケのニケ」(前190年頃、大理石、高さ:328cm)



写真で見ると小さく見えますが、かなり大きいです。人も多いです。

ルーヴル美術館(博物館)で最も有名な「存在」と聞けば、大抵の場合、即「モナ・リザ」と「ミロのヴィーナス」が挙げられると思う。
しかし、どんなにルーヴルにいる時間が短くとも「モナ・リザ」と「ミロのヴィーナス」に加えて、「サモトラケのニケ」だけは見ておいて損はないと思う。
この大きくてダイナミックな"勝利の女神"の像については、こちらやその他検索でたくさん出てくるので端折るが、ニケにまつわる現代的なおもしろいネタといえば、あのスポーツ用品メーカーNIKEの名の由来であることかもしれない。(映画「タイタニック」でニケの像のポーズを真似ているとか参考にしているとかいうネタもあるが、私にとっては不確かな情報だ)
さて、この像は現在、頭部も左右の腕も無い状態である。しかし、右腕は過去に発見されているとのことだ。ただ驚くべきは、薬指の先端と右手の甲がギリシアのサモトラケ島で、同じ手の親指と薬指の下半分がなんとウィーンの美術史美術館の資料室で発見されたことだ(1950年)。
像自体が1863年に発見され、118もの断片に分かれていたのを、現在の状態に復元しただけでもすごいのに、右手がどうなっていたかを突き止めるとは…恐るべし考古学!
ちなみにその右手の発見から、女神が右手に金属製の勝利のリボン(タイニア)を持っていたと分かったそうだ。


カメラのモードを変えて撮。



像はとても官能的で躍動的だった。

台座が船首であるから、像は全身に当たっている風までも表現している。というか、この像を近くでマジマジと見つめて、私などは、彫像や絵画でもって、風の自然な表現として完成の域に達している作品は、「サモトラケのニケ」とモネのいくつかの作品ぐらいしかないのでは、とさえ思った。
他いろんな事を想像した。もし、左肩の方に傾いていたとされる頭部、上方に向いていたとされる右腕、下方に向いていたとされる左腕が現在も残っていたなら、どんなふうな姿になっていたのだろうかと。
でも、ニケの像は古代への想像力をたくましくさせてくれる、見慣れたこの姿だからこそ、より心に残るものだと思う。またこの古代の傑作が、感動と新たなインスピレーションを現代人に与えつづけているのは間違いないだろう。それだけで充分ではないか。

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