エッセイと虚構と+α

日記やエッセイや小説などをたまに更新しています。随時リニューアルしています。拙文ですが暇つぶしになれば幸いです。

気まぐれ吉祥寺探訪

2013-05-02 22:40:04 | 小説
僕はその日、吉祥寺の肉屋の行列に並ぼうか迷っていた。行列はとても長くまるで話題の新作映画が封切りされるかのような熱気さえ帯びて、僕の歩行進路をUターンさせた。アーケードになっている商店街にはエクセルシオールがあり僕は270円ほどの金銭をパートタイマーの女性に渡すと、プラスチックケースのカフェモカを持って螺旋している深緑色の階段を上がって2階の窓際の席へとそれを置いた。そのままトイレへと向かう。たいていチェーンの喫茶店というものはトイレがいつも埋まっている。男性用・女性用限らずだ。ときに男女兼用のトイレがあったりもする。そんなときに入り口で待つのは気恥ずかしく、出てきた女性とすれ違うのは所在ないことこの上ないことである。しかしその日の吉祥寺のエクセルシオールのトイレは違った。すんなりと入れた。ドアを開け鍵を閉め用を足すと狭苦しいなかにある白い大理石の洗面台で手を洗う。
水を入れて、ノンカロリーのピンクの表示のあるガムシロップとコーヒーフレッシュとウェットティッシュを取ると窓際の席に腰かける。まずはアイスカフェモカのプラスチックの透明の蓋を取り、カチッとガムシロップとミルクを開けて一気に流し込む。殻になったガムシロップの上にミルクケースを重ね置く。ビニールを破いてウェットティシュを取り出し指についたガムシロップとミルクの飛沫を拭った。
カフェモカを飲むストローは緑色で液体がそこを通ると夕方の空に急に太陽が沈んでしまったような仄暗さになる。カフェモカの苦味に逆に喉が渇くだろうと思い水をもってきておいて良かった。歩行状態から一度腰を落ち着けると、立ち上がりたとえ水を一杯くんでくることさえ行列に何時間も並ぶこととそう変わらないくらいの面倒くささを感じてしまう。
水を飲んでみると檸檬の味がする。カフェモカをそして少し飲んで、窓から下のアーケード通りを覗いた。
前にはドラッグストアなのだが、カップラーメンやポテトチップスやチョコレート菓子の安売りワゴンを出し、上半分だけ切り取ったペットボトルの入った段ボールを重ねて、すでにスーパーマーケットと化した店を見つめる。
僕は水を飲み干し、カフェモカを右手で持ちながら籐椅子に腰かけて店舗を忙しく駆け回るアルバイトの店員を見ていた。カフェモカを空にすると、そのまま立ち上がり、プラスチックケースをゴミ箱に放り込み、螺旋している階段を降りてエクセルシオールを出る。「いらっしゃっいませ~」と叫ぶ僕よりかは若いアルバイト店員を尻目にアーケードをまだそのまま直進する。
アーケードの横に行くとゲームセンターの前に吉野家がありそこで腹ごしらえして、ゲームセンターのビートマニアを100円でやってみたのだが、ユーロビートを難易度マックスにしてしまったようで、お手上げだと思ったから、近くにいた少年にそれを託した。少年は6つのボタンを凄まじい速さと正確さでさばきその店のハイスコアを更新したようだった。ゲームセンターの店員から少年に景品が手渡されるのを見送ると、僕はまた通りを歩いた。

下宿屋

2013-04-19 00:28:38 | 小説
どうせなら信じてみようと私は思った。うぐいすのさえずりで目を覚まし、薄手の布団を横へどけ障子を開けた。ガラス窓の向こう側には針葉樹が等間隔に並び、そのうちの1本の杉の木の枝にうぐいすはのっていた。さえずりをするたびに体を震わせ杉の葉が風で揺れる。
その宿は箱根にあった。歩き回りひと気がない場所に高級な幽霊屋敷みたいな風体で周りの生い茂る草木と同一化して建っていた。普段ならそんな辺鄙な宿などには泊まることなどない。しかしその日はちがった。峠を上っていく道路が近くにあったのだが、往来な少なくまだ寒さの抜けない初春の風に落ちた松の葉が飛ばされ、その匂いだけが漂っている。
私にとって3回目の箱根の旅は温泉につかることではなく、山林で鹿の写真を撮ることだった。一眼レフの凸レンズを布巾で磨きながら、朝食が運ばれるのを待った。勤める出版社から久しぶりに命ぜられた出張は生物の参考書に必要な鹿の写真を沢山撮ってこいというものであった。30年も経たのだがすっかり窓際族であり、私は今回の任務はもしかしたらていのいい嫌がらせではないかと勘ぐっていた。社内では人員整理の噂が絶えることなくある。宿の仲居が、静かに階段を上がってくる足音でハッと我に返った。
「白岩さまよろしいでしょうか?」という瑞々しい声に、ふすまを自ら開けた私は驚いた。そこに白米の盛られている茶碗とにしんの塩焼きの皿、ひじきの入った小鉢、そして味噌汁のおわんの入った盆を持って正座していたのは、目もとの涼しげな色白の娘であった。
「君いくつだね?」と聞くと、仲居は「16になります」と言い、機敏な動作で盆を窓際の木机に運び込み「ごゆっくりどうぞ」と音の鳴らぬよう静かに襖を閉めた。階段を下る足音は軽く鍵盤を弾くような音色であった。
私は木机の前に座り、盆の上のひじきやにしんの塩焼きの色味があまり良くないなぁと思ったが食べてみると意外に美味しくすぐに平らげてしまった。とりあえず一眼レフの凸レンズをまた磨きだした。仲居は16と言ったな、私には18かそれ以上の年齢に見えた。あの娘はなぜ、あんなにも透き通っていたのだろう。もしかしたら山林から這い出た狐が娘の姿をしているだけなのではないかと私は思ってしまった。
ホーホケキョとタイミング良くうぐいすが鳴いた。「そうだ」と私の勘ぐりに相槌うっているに違いない。私は盆を持って、ふすまを開けて階段を下っていった。台所にそれを置くと玄関から外に出てみる。
杉の木はうぐいすの立ち位置を確保してあげていて、こちらのことなど全く意に介さずという佇まい。宿主が草履を手に「お客さん裸足では困ります」と私の横に下宿から出てきた。
私は「なぜ花粉が目の敵にされるのに杉の木そのものはこんなにも悠然といるのでしょうかね?」と宿主に草履を履きながら言った。「それは都会の人がアレルギーの原因を花粉に結びつけ過ぎだからじゃないですか?」宿主は老齢に刻まれた深い皺の笑みを浮かべながらそんなことを言った。
私は「そうですか?」と訝しげに尋ねた。
「そうですよ都会には、アスファルトの粉塵や車の排気ガス、アスベストそして単純に塵やほこりもそこらじゅうに舞っています。私はもう何十年もこの杉の木のたもとに暮らしていますがアレルギーを感じたことは実はないのです不思議なものですね」と宿主は言う。
「あなたが特異な体質なのではないですか」と私は少し早口に尋ね杉の木を見上げる。
「いや格別、わたしだけが丈夫であるわけではありません。ほら春先というのは昔からよく風が強いでしょう。春風とか落語家の名前にもなっていますし、なあ、より子、お前もアレルギーになったことなどないよな」と宿主は奥座敷でテレビを見ていた私がさっきまで仲居であると認識していた娘に言った。宿主の孫なのだろうか。いやもしかしたら年老いてから授かった子供なのかもしれない。
より子は「うんアレルギーになったこはないよ」と玄関を越えて外の私たちに聞こえるような大きい声で答えた。極めて健康な娘である。
「なので私はもしかしたら、春の強い風にのった様々な粉塵やほこりが、アレルギーを引き起こしているのではないかと思っています。粉塵に、比べたら花粉は微々たる刺激物です。げんにあなたもいまくしゃみをしていないでしょう」そう宿主が言う。たしかに私は杉の木がすぐそこにあるのに鼻がうずくことはない。元々花粉症になったことはなかったが、ひどく苦しむ友人がいたので、宿主の話をまだ信じることはできなかった。
「たしかにそうかもしれません。いわゆるプラシーボ効果というやつですね。以前マーフィーの法則という本がありました。テレビではネガティブなことを考えると自ずとそうなってしまうという余興本をよく紹介していました。しかしマーフィーの法則とはテレビで紹介され売れた余興本とは少しおもむきの違う成功哲学が本筋なのです。
だからおそらく花粉の本筋というのも花粉症という現象にあるのではなく、やはり森林を大地に繁らすことにあるのだと」そう言うと私は宿主の朗らかな笑みに包まれた柔和な顔を見つめた。
「おそらくそんなところでしょう。やはり思考というものは人間にしか与えられていない。杉の木はただそこにあるだけなのです。だからいまでは箱根では希少な鹿なども存外たくさんいたりするものなのですよ」そう言うと宿主は下宿に戻っていった。私は一旦、2階の部屋に戻ってカメラを取り、また草履を履いて外へと出てみた。鹿が何処かにいるような気がしてならなかった。
杉の木をかき分けて針葉樹の林へと足を踏み入れ、上を見上げるとうぐいすは既に飛び立っていた。駆け足で林を奥へと入っていった。ぐっと切り立った岩の前に鹿はこっちを見て佇んでいた。私は一眼レフのシャッターを何回も切った。フィルムが終わり巻き戻し音がなると鹿は何処かへと去っていった。

東京の出版社に戻ると上司は私の捉えた鹿の写真に満足したようだった。
そして私はなんとか人員整理の危機を逃れることができたみたいだ。
いやそもそも私の人員整理という取り越し苦労こそがおそらく幻だったのである。

日曜日

2013-04-18 11:54:11 | 小説
場所は吉祥寺そう久しぶりに中川は中央線に乗り訪れたのだ。
駅からほどなくして喫茶店レトロに着いた。軽いドアを開けてカランコロンと鈴の音が鳴る。馴染みになったウェイトレスの女性に会釈していつもの席に着いた。店内には、ジャズが小さく響きわたっている。店主はロックやジャズがおそらく趣味なのであろう。
窓から外を覗くと日曜日らしく穏やかな陽だまりができている。
アイスコーヒーを細いストローで一気に吸い終わると、中川は喫茶店を出て歩いた。
マクドナルドの黄色と赤の看板には食欲や人間の様々な欲求をそそる効果があるのではないかと社会学的な知識を思い出した。ガラス越しに垣間見えたハンバーガーを手に持ちながら談笑する女子中学生たち、1人窓際のカウンター席に照り焼きバーガーのバリューセットで腹ごしらえしている青年やドリンクだけで午後のひと時をすごす老夫婦、みな幸せそうに見える。なぜマクドナルドの椅子が固ければその回転率が上がるかという精巧なロジックはわからなかったしそこに集中させるだけの興味もさして中川にはない。そのまま駅でもう自宅へと帰ってしまうことも思慮したが、中川は下って行く賑わう道をもう少し歩いてることにした。柄にもなく洋服店に入ると、プルシアンブルーのライダースがハンガーに掛けられ陽をうけ目立っているのを羨望の眼差しで見つめる。古着屋だったので、それが男性用なのか、女性用なのかわからなかった。おそらくユニセックスということだろう。店の奥にはショルダー式の小さなバッグの類や小物が木製の展示棚の黒い敷物の上に並べられていた。中川にそれを手にとることはためらわれているところに、
「いらっしゃいませ~」と痩せぎすな古着屋の店員が近づいてきて、程よい距離で止まった。中川はアンクレットを手に取り眺めてみたが自分にはプレゼントするような女性もいない。
「男性用の小物類でしたらこちらにありますよ」という古着屋の店員の案内通りに男性用小物ゾーンを見てみた。ジッポやバックルなどバイカー向けのものが陳列されていて先の女性向けの豊富さに比するならばひどく寂しい売り場スペースであり、自分のこの街での所在なさというものにこれは似ているのだと中川は思い古着屋を後にする。さらに歩いていくとLPのレコードが店頭にならんでいる店やゲームセンター、カラオケ店、定食屋と雑然と歩道を彩るための店舗が所狭しと並べられその刺激にティーンネイジャーが心打たれ足繁く通う理由が中川にはわかった。
何処にでもあるようなCDショップに入り少し気を休めようとする。店内にはグリーンデイのホリデーが大きめの音量で流されていたが既に耳慣れたロックミュージックを聞きながら中川は安堵のため息をついた。街の刺激はときに美しい花に備えられている棘のように写り、内臓をチクチクと刺されるような痛みを生じさせた。それは時に苦しいことで、中川の心を満たさない。しかしたまに街に繰り出してしまうのは中川が決して自分をしっかりともってるような人間ではなく軸がブレやすいからかもしれない。

きた道を戻り喫茶店レトロの軽いドアを開けて奥のエアコンのあまり当たらないテーブル席に座り、アイスコーヒーを注文する。運んできたウェイトレスの女性に、
「なんだかひどく疲れたよ」と言う。
「この喫茶店があるのはそのためなんじゃないかな」とウェイトレスの女性は悪戯っぽく笑顔で言い厨房へと引き上げていった。
中川はカラカラになった喉をじっくりとアイスコーヒーで潤すことにした。

灯台

2013-04-14 11:58:48 | 小説
海岸線を歩いていた。季節は夏であったが、涼しい風がなびいていた。白岩は思った。こんなにも晴れやかで青い海と空に囲まれた崖の上を草を踏みしめながら歩くのはなんだか残酷であると。なぜならば海ではしゃいだり遊ぶことこそ青春であるからだ。前方には木製の柵が延々と続く景色しか見えない。
夏をテーマとした写真を撮ってくることを義務付けられていた。海岸線を離れ内陸部に戻ると売店があり白岩と同じ写真部の生徒がたむろしていた。
「おい写真はもう撮ったのか?」と中川が尋ねてきたので、白岩は
「まだだ」と答えた。
「俺たちはもう50枚は撮ったぞはやくしないと夕方になってしまうぞ」と囃し立てる中川の肩を押して振り返ることなく白岩は撮るべき被写体を求め歩く。
後ろでは中川とその仲間が売店で買ったであろうグラビア雑誌を見ながらあれこれ話していた。そんな声も聞こえないくらい草を踏みしめながら進んでゆくと木柵の向こう側に大きな灯台が見えた。海を背にし灯台はすくっと立っていた。コンクリートで建造されたであろうそれは白いコーティングが施され新しくできたばかりのように見えた。木柵に近づき下から見上げてみると天を目指し伸びているようだった。
首から下げていた一眼レフを覗くと白岩はシャッターをきった。カシャンという音でネガフィルムにその風景は刻まれた。おそらく天頂までおさまったのかは分からなかった。風がさっきよりも強さを増した。夕方が近づいてきている。
木柵からまた内陸部に戻り、今度は背景に海が広がるような構図を狙って白岩はシャッターをきった。級友たちは随分とたくさん撮ったのだなと思い返す。灯台を背にし木柵に沿って行く。前から観光客風の女性2人が歩いて来るのが分かった。
「写真撮ってるの~?」とひとりの女が聞いてきた。白岩は黙って通り過ぎようと思ったが、もうひとりの女が
「ダメだよ、いきなり声なんてかけてごめんなさいね」と言って行ってしまいそうになったので、
「写真部なんで課題で夏の被写体を探しているんです。」と言った。
「へぇ~高校生かな?」とグレーのタンクトップのリップは赤いルージュで笑みを浮かべる女は聞いてきた。
「中学2年です」と白岩は答えた。
「見えない。もっと大人かと思ったわ」とタンクトップの女と花柄の半袖のワンピースに白い帽子の女は顔を見合わせて笑った。
白岩は久しぶりに女性と言葉を交わした。じっと黙って風を受けていると、花柄のワンピースの女が帽子が飛ばされそうになるのを押さえながら
「じゃああたし達を被写体にしてよ」と言うとタンクトップの女にいいよねと耳打ちし、頷き合うと木柵の前で並んで撮られるのを待っている。
白岩はシャッターを何回も切った。海岸線にカシャカシャカシャという音が響き、風のなびきで何処かへ飛んでいく。女達は白岩がシャッターを押すたびに表情を微笑から真剣な眼差しに変えていった。
ネガフィルムの36枚は取りきって巻き戻し音が鳴ると女達は、白岩に投げキッスをして、「じゃあね!」と告げると小走りにキャッキャと言いながら灯台の方へと去って行った。白岩は崖の上の大地に風を受け立ち尽くしていた。
見送ると、白岩はその場にあぐらをかいて座り込んだ。
夏の夕暮れが風にのって、土の上に尖って生えている草たちをなびかせていた。木柵越しの海に浮かぶ船は西へ向かい、ここより遠くの売店からはクラスメイト達の談笑が聞こえた。そして船が汽笛を鳴らすのを白岩は寂しい気持ちで聴いた。

図書館の陽射し

2013-04-05 04:56:56 | 小説
自動ドアはいつも開け放たれていた。荻窪駅を下車しいくばくかも歩かぬところにその古書店は在していた。家路につく為にその前を通る人達は目を配ることはするのだが、中に入ることはなく通り過ぎてゆく。
外に突き出されたスチールの白い棚にはすっかり風化がすすんでいる文庫達が所狭しと並べられていた。背表紙を見て回る限りにそれほど年代の古い感じはない。売れ残ってどうしようもなくなった数々の古書が、日々風や陽にさらされていた。
中川は高校からの帰り道にその古書店へと立ち寄るのを日課にしていた。といっても店内には入らずもっぱら棚に並ぶ文庫本の背表紙を見て回るのだ。サッカー部を2年生の秋に辞めたことで、できてしまった途方もない無意味な時間に苦しめられていた。3年生の新学期も始まったというのにその心模様は曇天そのものであり、大学の付属高校の詰襟の制服の内で冷たくくすぶっていた。
伝統や気高さの裏返しである冷たい雰囲気の校舎にその日の終了のチャイムが響く。生徒達は皆ぞろぞろと席を立ち教室から何処かへと消えて行った。
中川は池袋のサンシャイシティーで取り残された子供のように所在無い感情を抱いた。座席の硬さをでん部に感じながらただその様子を見送っていた。
中央線に乗り換え、急行で荻窪駅へと急ぐ。付属高校の上の大学は世間でもあまりなの知られていないものであり、級友のほとんどは、他大学への受験を控え勉学に励んでいた。いわゆる落ちこぼれである中川は、他大学への受験という苛烈極まる競争に恐れを感じていた。
がらんとした車内には背広のサラリーマンはいなかった。幼児を抱えて銀の手摺りにもたれかかって座っている女性は疲れているように見えた。恐らく自分は無業者になるなと中川は思った。
白いスチール棚でほこりをかぶってしまっている文庫はこの前と全く同じ配列で並んでいた。棚の上部には、太字のサインペンで3冊 100円と書かれたダンボールの切れはしが付けてあった。
家に帰ると制服を脱ぎベージュのチノパンを履きライムグリーンのトレーナーを着て図書館へと自転車に乗り向かった。散った桜の花びらの上を滑走して坂を登りきると図書館に着いた。
自習ルームで天文学に関するハードカバーの本を読んでいたが曇天の胸の内は重く沈んだままであった。
トイレに立ち寄り引き返す道すがら水飲み機のボタンを押して放物線を描くカルキの多い水で口を湿らせた。天文学の本などに微塵もの興味も中川にとってはなかったのだかこうして難解そうなものを読んで自分が図書館の自習ルームという幾ばくかの知的空間の風景の一部としていられることが学校では無意味な存在にすぎない自己の存在を証明する為の唯一の方策だった。
下の書庫へ行き中川は天文学の本を戻そうと棚の乱立する狭い通路をウロウロしていた。量子力学と分子生物学の棚の下の段に中川が持っている本に割り振られている番号と一致する背表紙がずらっと並んでいたので少し腰を落とし本をそこにしまった。
屈伸したように曲がった身体を直立させながら後ろを振り返った。何かとぶつかり図書館のカーペットの床に尻もちをついた。甘い匂いがしていた。
目の前には自分と同じように座している決して派手ではない女性がいた。
「すいません」と中川は言った。
「いやこちらこそすいません」と女性は言った。履いているパンプスは自力で立ち上がるのには難しいことを示しているように思えたので、中川はまず自分が起き上がると女性もそう出来るようにと背中と腕を支えた。女性はなんとか立ち上があがる事ができた。
「ありがとう」と言いと麗しき笑みを浮かべると女性はハンカチを差し出した。どうやら中川は鼻血を出していたらしい。
「すいません」と言って鼻血を拭いしばらく女性に見とれていた。
「それじゃあ」と女性は去ろうとしたので、中川は
「このハンカチはどうすれば?」と半ば焦り気味に尋ねた。
女性は振り返ると、
「あなたにあげるわ」と言って図書館からいなくなってしまった。
薄く血の滲むピンクと青のグラデーションのハンカチを持ち書棚の通路に立ち尽くしていた。
中川は家に帰ると母親にハンカチを洗濯してくれるように頼んだ。
「何処から持ってきたのこのハンカチは?」と聞く母親に中川は、
「3年に進級したクラスは担任が英語の女性教諭で鼻血をホームルームの出してしまい貸してくれたのだ」と言った。

坂野は焼きたて直達便シリーズのデニッシュを食べながら、バックヤードで休憩をとっていた。友達の葉子からメールがきていた事に気付いて携帯を開く。他愛もないやり取りに熱中し終わると、洗面所で手を洗いいつもジーパンの後ろポケットに入れてあるハンカチで手を拭おうとしたが無かった。そういえば昨日、いつも行かないのに図書館に寄って館内をうろついていたらぶつかってしまいずっこけて鼻血を出した少年にあげてしまったのだった。
レジから呼び出し音が鳴って坂野は手をジーパンの太ももの部位にこすりつけ水滴を減らすと、ドアを開けて
「いらっしゃいませー」と言いながら
休止中のつい立てのある奥のレジに入り、オレンジのカゴをもって並んでいる客たちに、
「2番目にお並びのお客様どうぞ」と言いつい立てを台の下のスペースへとしまった。右隣りではフリーター4年目のベテランアルバイターがせわしなくバーコードリーダーに商品をかざしていた。台の上にカゴを無造作に乗せると男は、携帯を弄りながらそっぽを向いていた。素早く商品をレジに読み込ませて「1230円になります」とまだ新しい薄い紺色のスーツを着た20代くらいの髪をジェルで逆立てている男に言った。男は携帯を打つ手を止めポケットからすこしヨレた千円札2枚を釣銭トレーに置いた。「770円のお返しになります」と言って坂野は男の手に釣銭を渡した。ベテランアルバイターの素早い客さばきにより客の渋滞という難を逃れる事が出来たようだ。
「坂野さんまだ休憩中でしたよね」と銀フチの眼鏡を掛けたベテランアルバイターは言った。
「では戻ります」とだけ言うと、坂野はそそくさとバックヤードに引き返した。
金曜日の17時までのシフトを終えると帰宅した。
次の日、足は自然と図書館へと向かっていた。

中川にとってその日のホームルームは酷く落ち着かないものであった。担任の話しも上の空である。金曜日の終了のチャイムが鳴ると堰を切ったかのようにクラスメイトたちは外へと駆け出して行った。中川はしばらく待ち教室を出て賑わう帰りの通学路を1人歩いた。帰宅してハンカチが乾いていることを確認すると、夕食を食べてしばしゲームをすると眠りについた。
土曜日になっていた。正午に目を覚まして、髪を軽く整えてブルーのチェックのネルシャツに白のチノパンというあまりひねりのないスタイルで図書館へと自転車に乗って出掛けた。
図書館に入ると、この前通路でぶつかってしまった女性が雑誌コーナーのソファーでノンノを読み座っていた。中川は女性に近付くとハンカチを差し出して、
「この前はぶつかってしまいすいませんでしたハンカチ洗ったので返します」と言った。
女性は、
「気にしなくていいのそんなことより少し話しでもしない?」と言ってソファーに中川が座るスペースを開けてくれた。
中川はそこに座すと、
「あの、名前はなんというのですか?」と顔と声を引きつらせながら聞いた。
「坂野って言うんだ」と女性は言った。
「坂野さん、ぼく 中川って言います」と言い体を強張らせると、
「中川君ね。わかった」と言って雑誌をまた読み出す女性の横で中川は小さくなっていた。
立ち上がると中川は、「また来週この図書館で会えますか?」と聞いた。
女性は笑顔で頷きまた雑誌を読み出した。
図書館から出て風をきりながら自転車を漕ぎ、散る桜の花びらの上を滑走して行き、駅前の古書店に着いた。
中川はスチールの白い棚を通り過ぎると開け放たれた自動ドアの入口から店内へと足を踏み入れた。その古書店の中へと入ったのは中川にとって初めての事だった。そして図書館から古書店へ自転車を滑走させた事により額に滲んでいた汗をピンクと青色のグラデーションのハンカチで拭いた。