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日本のいまを考える#42 大東亜戦争の遠因を探る ~その6~ 盗まれた楽園と日系移民



祝日は国旗の掲揚をしましょう。


★精神学協会「日本のいまを考える」から転載

『精神学協会』
http://www.godbrain.com/gb/letter/



■日本のいまを考える#42

大東亜戦争の遠因を探る ~その6~ 盗まれた楽園と日系移民

日本の移民史は、ハワイ王国の哀しい歴史にも一部関係があると #38 大東亜戦争の遠因を探る ~その2~ 排日移民法 で書き、前回の #41 大東亜戦争の遠因を探る ~その5~ オレンジ計画 にも、ハワイ併合などの話を出しました。

今回は「オレンジ計画」を策定するに至るアメリカの、建国からの領土拡大と、ハワイ王国の滅亡と併合、ハワイ王国と縁の深い日系移民に焦点を絞り、書いてみたいと思います。
まずは、アメリカ建国の歴史をざっと見てみます。

北アメリカ大陸に最初に住んだ人々はアジア系のモンゴロイドでした。後にインディアンと呼ばれたネイティブアメリカンです。氷河期であったおよそ三万年前から一万年前にかけて、シベリアからアラスカに経由して南北アメリカ大陸に分散していった人々は、母系社会による独自の文化を育んでいったとされています。

十世紀ごろから、ノルマン人(ヴァイキング)が北米にやって来たりはしたものの、先住民との抗争などで結局定住することはできず、領有もなかったことから、コロンブスのように歴史に大きな足跡を残していません。

近年、南米大陸だけでなく、北米大陸にもインディアン文明の史跡は発掘、発見されるようになりました。

十四世紀から十六世紀にかけて、ヨーロッパではルネッサンスが花開き、ポルトガルやスペインがいち早く遠洋航海技術を身につけ、大航海時代の幕開けとなります。イタリア人探検家で、奴隷商人でもあったコロンブスは、スペイン女王の承諾を受け、西廻りによるアジア発見を志しましたが、実際にはアジアには至らず、一四九二年に西インド諸島に到達しました。それに続くようにして、イギリス人ジョン・カボットが北米東海岸を探検し、イギリスはニューイングランドを領有、フランス人ジャック・カルティエがセントローレンス川を遡り、フランスが領有(カナダ植民地)するなど、西欧人による南北アメリカ大陸の探検と開拓、インディアンに対する領土略奪と虐殺が始まりました。

当初は、イギリス、フランスが、あとに続いてオランダ、スペイン、スウェーデンが、それぞれ思い思いに今日のアメリカ合衆国の範囲に植民地を築き、植民地で砂糖やコーヒー、綿花、タバコなどの農作物を農園で作り出し、足りない労働力に現地のインディアンを奴隷として使役していました。

さらに西欧諸国は、同時期アフリカ大陸の大西洋沿岸にも進出して、現地のアフリカ諸部族の黒人有力者から黒人を買い取り、南北アメリカ大陸に輸出するという奴隷貿易を行っていたため、労働力を求めていたアメリカはより一層多民族国家となっていきました。

十七世紀から十八世紀にかけて、英仏は戦争を繰り返し、ヨーロッパで戦争をするたびに、それぞれの植民地でも戦争が起こりました。この戦争中に英国は次々とフランス・スペインの植民地を獲得、またアメリカ南部に広がるスペイン植民地への奴隷専売権を得ます。そして北米大陸の大西洋沿岸をほぼ全て手中に収め、イギリス海上帝国、つまり大英帝国の礎を築き上げました。インディアンたちは英仏どちらにつくかを選択させられ、代理戦争を引き受けさせられましたが、どちらが勝っても彼らの領土は没収され、部族は散り散りにさせられました。

北米東海岸を一手に握った英国は、先住民インディアンを駆逐して領土を西へ拡大します。この段階で十三州の植民地を建設し、州によっては白人の人口がインディアンを上回る地域が生まれています。


十八世紀に入ると、寒冷で比較的農業に向いていなかった北東部で醸造、造船、運輸などの産業が発達し、英国本国の経済を圧迫するようになります。この頃にはすでに国として自立できる力を持っていました。

植民地への独自貿易の禁止や重い課税の末、「印紙法」制定による貿易独占をはかりますが、住民が反課税と印紙法廃止を主張して激しい反対運動を展開したため撤廃、次に「茶法」によって「茶」の貿易を独占しようとしました。

対して住民は一七七三年にボストン港を襲撃、「ボストン茶会事件」です。
茶会事件に衝撃を受けた英国はボストン港を閉鎖、住民に対して強硬な姿勢を示しました。
アメリカ大陸十三州の住民代表者はフィラデルフィアで史上初めての大陸会議を開き、植民地の自治権を求めて英国に対して反抗、一七七五年四月、英国の駐屯兵と住民有志による民兵が衝突し、アメリカ独立戦争となります。

住民代表者は第二次大陸会議を開催、ジョージ・ワシントンを戦争の総司令官に任命して大陸軍を結成、一七七六年七月四日の大陸会議において、トーマス・ジェファーソンが起草し、プロテスタント的思想を体現して近代民主主義の原点となったアメリカ独立宣言を発表しました。また、英国は一六六〇年代から囚人の流刑地としてアメリカを利用していましたが、独立戦争が始まったことにより巨大な流刑地を喪失し刑執行が困難になり、これが新たな流刑植民地としてのオーストラリアの歴史へとも繋がっていきます。

ジェファーソンは一七七八年にデラウェア州でデラウェア族と「インディアン条約」を初めて結び、以後、合衆国はインディアンから武力を背景に領土を購入し、彼らを保留地(Reservation)へ追いやるという政策を推し進めていきました。インディアンには土地を売り買いする文化は無かったので、これが理解されたとは言い難く、数々の「インディアン戦争」に結びつきました。そして必ずその結果はインディアンの領土のさらなる縮小となりました。
      
(出典 http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/amerikah.gif )


ヨーロッパから大西洋を渡った人々によって建国された多民族国家アメリカは、建国以来、西に向かって領地拡大を続けてきました。米墨戦争でカリフォルニアを征服した、アメリカは、さらに西を目指すことになります。
太平洋を制圧すれば、西廻りでアジアに向かうことも容易になります。

オレンジ計画は当初、一八九七年にセオドア・ルーズベルトにより策定されました。
復習になりますが、何の罪もない平和国家日本を軍事的に征服するため「オレンジ計画」をスタートさせた最初の動機は、
  「『ハワイ併合』に際し、日本が『ハワイ人の独立運動』を軍事支援して、
   日米戦争となる事態」に備える
というものでした。

一八九八年の米西戦争により、キューバを保護国に、フィリピン、プエルトリコ、グアムを領有、海外に殖民地を持つ国となったアメリカは、同年ハワイを併合します。


ハワイはもともと、アメリカともイギリスともまったく別の立憲君主国家でした。
ハワイ王国の歴史がいま残されているのは、十九世紀のはじめから一八九三年の崩壊、さらに一八九七年のハワイ併合までのことですが、カメハメハ大王の登場以前にも、ハワイには長く人が住み、傑出した指導者も多くいたといわれています。
しかし、言葉を書き残す習慣はなく、口伝として伝えていたので、確かな記録がありません。

一七七八年にハワイを「発見」したイギリス人ジェームズ・クック以来、イギリスをはじめ、さまざまな国の人々がハワイを訪れるようになっていました。太平洋航海の中継地として便利なだけでなく、ヨーロッパ人が中国との貿易をするときに好都合な白檀の木があったからです。

カメハメハ国王によるハワイ統一(一八一〇年)は、その強大な軍事力と指導力に負うところが大きかったのですが、もうひとつ、重要な要因がありました。ハワイの外の世界、とりわけ欧米との交流により、武器や生活用品、食料、そして戦略を含む知識を導入していくことで、支配階級の人々をおさえ、ハワイでの覇権を確立していきました。

その一方で、カメハメハ国王は欧米文化を崇拝し、安易に取り込むことはありませんでした。
むしろ、彼はハワイの伝統を非常に大切にした指導者でした。
外からの技術や知識とハワイの伝統のバランスを、巧みに維持し続けたことが成功の秘訣でした。

ハワイの心を失うことなく、統治には伝統的な方法を用いて、外来者がハワイの土地を所有することも認めませんでしたし、キリスト教に心を動かされることもなく、ハワイ古来の神々と文化を大切にしました。

のちに、キリスト教宣教師たちに淫らだと非難され、戴冠式にさえ披露されなくなっていった伝統的なフラも盛んに踊られていたのです。

欧米では捕鯨産業が盛んになり、太平洋で鯨を追う船が次々と訪れ、食料や燃料の補給や休憩をするようになると、捕鯨船の船員相手に商売を始めるためにハワイに住みつく欧米人も増え、アメリカ人を中心とするキリスト教宣教師の数も増えていきました。

当時欧米の国々は太平洋の島々を植民地にしようと目論み、イギリスはニュージーランド
を、フランスはタヒチを領土とします。欧米列強はハワイを含め、ほかの島々にも少なからぬ関心を抱いていました。

片やハワイでは、ハワイアンの人口が急速に減っていきます。欧米では珍しくない病気でも、免疫のないハワイアンにとっては、重篤になりがちで、ハワイ王国の憲法を発布したカメハメハ三世の三十年ほどの治世(一八二五年から一八五四年)の間に人口は半減したといわれています。

十九世紀半ば以降、ハワイからアメリカに輸出されるサトウキビの量は急増しました。アメリカ西海岸が合衆国の領土となり、北カリフォルニアで金鉱が発見されると、太平洋沿岸の人口が増え、砂糖の需要も高くなっていきました。アメリカ国内で南北戦争が起こり、南部の砂糖が北部に流れなくなるとハワイからの輸出はさらに増えました。ハワイではサトウキビ農場が次々と作られ、中国からの移民がそこで働くようになりました。

ハワイのサトウキビ産業をさらにもっと成長させるために関税をかけないよう、互恵契約を望んでいたハワイは、関税免除の見返りとして、プウロア(真珠湾)をアメリカに提供することを真剣に検討するようになっていきます。
しかし、先祖から受け継いできた土地を海外諸国に一部でも手渡すということは、決して許されないことだと考えたハワイアンの多くは、反対しました。

カメハメハ大王は最も有名なハワイ国王ですが、その次に有名なのが、七代にあたるカラカウア国王でしょう。

「メリー(陽気な)モナーク(君主)」としても知られるカラカウア国王ですが、国王選挙に勝つために、白人のサトウキビ経営者たちの支持に依存するしかありませんでした。当時のハワイ王国は、欧米から来た白人が国土の七十五%以上を保有し、また政府の要職も独占していたのです。

王位についた直後から、さまざまな問題に直面し、解決するために苦心していましたが、サトウキビの関税を免れるために、オアフ島のプウロア(真珠湾)の独占的使用をアメリカ合衆国に認めてしまいます。

また、ハワイアンの人口は伝染病などの蔓延のため、百年間で三十万人から五万人へと急速に減少するなか、サトウキビ農場の経営を確かなものとするために、海外からの移民労働者を積極的に受け入れようとしました。

治的、経済的に難しい舵取りをしていく中で、やがてハワイの伝統を守ることがハワイの王としての義務であり、ハワイアンの支持を確かなものとする術でもあると考えるようになります。一九八三年、就任九年目にして戴冠式を行うことを決め、近代化するハワイ社会の中で、多くの人に忘れられつつあったフラを復活させて、戴冠式という公式行事でフラを踊らせています。

カラカウア国王は日本を訪れた初の国家元首でした。
歴代ハワイの君主の中で初めて世界一周の旅に出たカラカウア国王は、一八八一年(明治十四年)三月、横浜港に到着しています。

日本の海軍軍楽隊はハワイの国歌「ハワイ・ボノイ(ハワイの国民)」を演奏して出迎え、王は思いがけない日本側のもてなしと、異国の地で自身が作詞した国歌を聴かされた事に感じ入って、涙を流しました。

横浜港も鉄道も日本人だけで運用されていて、「どこにもハオール(ハワイ語で「白人」)を見なかった」事に強い感銘を受けたそうです。

国王はアメリカ人随行員を出し抜き、夜、明治天皇にひそかに謁見し、以下三点で日本の協力を要請します。
  一、日本人移民の実現
  二、王位を継ぐ姪のカイウラニ王女と山階宮定麿親王(東伏見宮依仁親王)との縁組み
  三、ハワイと日本の友好によって、将来の太平洋の発展に寄与したい
ハワイと日本の皇室が婚姻関係を結ぶことは、米国の敵となる事を意味します。
ペリーの砲艦外交に屈して開国し、明治維新後わずか十四年の日本には米国と対抗する力はありませんでした。

翌年、明治天皇はカラカウア王に特使を派遣して、婚姻の議は謝絶します。
「日本の皇室にはそのような前例がないこと」「米国の勢力圏に立ち入るのを好ましくないと判断」したことを理由に挙げました。

余談ですが、日本訪問の時には五歳であったカイウラニ王女は、大変知的で美しい女性に育ちました。たぐいまれな美貌とヨーロッパで身に付けた優雅で洗練された姿で、アメリカでも絶大な人気を得たそうです。

王女は一八九九年三月、ハワイ島で大雨の中を乗馬し、体調を崩しました。一度はワイキキに帰ることができるほど回復しましたが、その後再び悪化し、二十三歳の若さで病死しました。
   【ハワイ王朝】カイウラニ王女 美貌のハワイ王国最期の王位継承者  
     https://ameblo.jp/audrey-beautytips/entry-10625374931.html


日本の皇族との婚約話は立ち消えましたが、移民については、その後もハワイ側から再三の要請があり、 一八八五年には官約移民が実現します。 ホノルルに到着した日本移民のための歓迎会には、王自身が参加し、日本酒が振る舞われ、 ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会が催されたそうです。日系移民は続き、二十世紀初頭には日系人人口が 全体の四割と民族別
では最大の割合を占めるようになりました。

島内の文化を守りつつ、島外の国と関係を深めていこうとしたカラカウア国王の政治姿勢は、矛盾に満ちたものでした。欧州市場を重視する米人勢力はそれに反発し、国王の動きを封ずるべく、一八八七年には新憲法の発布を強要します。王としての政治的権力のほとんどを奪われ、さらに土地所有を有権者の条件とし、多くのハワイ人とほとんどすべてのアジア人を選挙から排除する新憲法の発布でした。

一八九一年一月、病死したカラカウア王の後を継いで、実妹のリリウオカラニ女王が即位しました。
女王は一八九三年一月十四日、ハワイ人にも選挙権を与える新憲法の発布をしようとし、翌日、イオラニ宮殿前には数千人のハワイ人が集まって、女王支持のデモを展開しました。 白人側はこれを機に一気に王制打倒に動き出します。

白人有力者たちは臨時政府を組織し、女王は流血を避けるために王権を放棄、スティーブン公使は臨時政府をアメリカの保護下に置くことを承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚されました。そしてフォスター国務長官に、ハワイ併合を訴えたのです。

この混乱のさなか日本から 二月二十三日、巡洋艦「浪速」、さらに五日遅れて「金剛」が相継いでホノルル港に入り、「ボストン」の隣に投錨しました。 「浪速」の艦長は東郷平八郎、後に日本海海戦を指揮して世界に勇名を馳せた名提督の若き日の姿です。カラカウア国王の要請した日本からの移民は、一八八五年(明治十八年)から始まり、この年までに二万五千人に上っていました。その日本人移民の「生命と財産を守るため」というのが、表向きの理由でしたが、女王側からの緊急要請があったとも言われています。

無言の圧力を与えた日本の二艦、「浪速」は三カ月とどまり、一時帰国しました。地元紙は日本と英国が組んで米国と開戦する可能性まで論じていました。

クーデター直後の三月四日に就任したクリーブランド大統領は、 ハリソン前大統領とは違って、ハワイ併合に消極的でした。クリーブランド大統領が派遣した特使は 米国旗を降ろし、米兵たちに自艦に戻るように命じ、さらにこの革命はスティーブンス公使と現地白人有力者 たちの画策であったと本国に報告しました。

大統領は議会で、「ハワイは誰もが同意も希望もしなかったのに、アメリカの軍事力によってアメリカの所有物になってしまった。アメリカによるホノルルの軍事占領はまったく正当化できるものではない」と主張し、「アメリカの名誉と正義のためにも、あらゆる努力を真剣にはらって償いをなすべきである」と、王政復古への援助を示唆しました。

臨時政府側は、ハワイ併合までには時間がかかると判断して内政干渉だとして突っぱね、一八九四年七月四日、アメリカの独立記念日をわざわざ選んで、新憲法の発布を行い、正式なハワイ共和国として出発しました。

翌一八九五年一月、大勢のハワイ人王統派が武装蜂起したが、二週間で平定され、リリウオカラニ女王は反逆罪で逮捕されました。一年以上の幽閉の後、共和国への忠誠を誓い、一般市民として静かに余生を送るという誓約書に署名しました。

「アロハ・オエ」はリリウオカラニ女王の作曲です。人間、自然、神との一体感を甘く物悲しい旋律で歌ったこの名曲は、最後の女王による盗まれた楽園への挽歌になってしまいました。

「アロハ・オエ」ほどの人気はありませんが、「ケ・アロハ・オ・カ・ハク (Ke Aloha O Ka Haku) 」という曲は幽閉中に作られ、通称「女王の祈り」と呼ばれています。
  
あなたの愛は天国にある
  そしてあなたの真実は非の打ちどころがない
  私は悲しみとともに生きる囚われの身
  あなたは私の光
  あなたの輝きは私の支え
  悪意を持って見てはいけない 人が犯す数々の罪を
  しかし許しそして洗い清めなさい
  ですから神よ
  あなたの翼の元で私たちの安寧が永遠でありますように

アメリカ国内でハワイ併合を強く支持していたのは、セオドア・ルーズベルトの「オレンジ計画」を策定するにあたり指南役となった海軍戦略家アルフレッド・マハンと、マハンを理論的支柱として、大海軍建設と植民地獲得による「海上権力」を求める一派でした。
このマハンに時の海軍次官、次期大統領となるセオドア・ルーズベルトは次のような手紙を送っています。
  
我々はハワイ諸島を明日にでも併合すべきだ。
  私の信念では、日本が英国に発注した戦艦2隻が英国を 離れる前に、我々はともかくも
  ハワイのそこら中に星条旗を掲げ、細々とした問題はその後に片づければいい。
  そしてニカラグア運河(のちのパナマ運河)を早急に建設し、12隻の戦艦を作って
  半分は太平洋に配置すべきだ。
  私は日本の脅威を現実のものとして感じている。

二十世紀初頭のアメリカは、東海岸からカリブ海、パナマ運河、ハワイ、グアム、フィリピンに至る一大海洋帝国として登場しました。あとは「日本の脅威」を除けば、太平洋はアメリカの内海となるところまで来ていたのです。
カラカウア国王、リリウオカラニ女王とハワイ王国の滅亡に関してもう少し詳しく知りたい方は、下記をどうぞ。
  
Japan On the Globe(226)    国際派日本人養成講座
   地球史探訪: 盗まれた楽園、ハワイ王国
   日本との「同種族連合」を目指すカラカウワ王に、白人特権階級が反旗を翻した。
   http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog226.html

アメリカの建国と西欧の植民地争奪戦、そしてハワイ王国が滅亡していくに至る歴史を改めて眺めてみると、「領土」というものと「国家」そして、自国の文化を守っていくということは、どれも時機を逸しては叶わないことなのだ、とわかります。

今の日本の危機を思うと、海外でかつてあった歴史に学び、相手国がどこであれ、同じ轍を踏まないようにすることは大切なことなのではないでしょうか。


平成二十九年十一月十七日
阿部 幸子
協力 ツチダクミ

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