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日本のいまを考える#48 松井石根大将と興亜観音



祝日は国旗を掲揚しましょう。


★精神学協会「日本のいまを考える」から転載

『精神学協会』
http://www.godbrain.com/gb/letter/



■日本のいまを考える#48

●松井石根大将と興亜観音

静岡県熱海市の一角、伊豆山の中腹に、「興亜観音」が立っておられます。
松井石根陸軍大将の発願により建立された観音像です。
  礼拝山興亜観音
  http://www.koakannon.org/

興亜観音を訪問すると、堂守の伊丹妙浄尼がご案内くださるのですが、お父上の故伊丹忍礼師は松井大将から依頼され、堂守として新潟から熱海に移られて以来、ずっと興亜観音をお守りしてこられました。妙浄尼は忍礼師の三女です。

パンフレットをもとに概略をご紹介します。
昭和十五(一九四〇)年二月、松井石根陸軍大将の発願により支那事変での日支両軍の戦没者を、わけへだてなし「怨親平等(おんしんびょうどう)」に等しく弔慰、供養するために建立されました。
開眼式には願主の松井石根をはじめ、朝野の名士、戦没者遺族多数参列のもと、芝増上寺貫主、大島徹水僧正を導師として盛大且つ厳粛に行われたそうです。

松井大将は昭和十二(一九三七)年七月、支那事変の勃発により、八月上海派遣軍司令官を命ぜられ出征し南京攻略まで指揮に当たられました。

この激戦で日支両軍とも多くの将兵の血が流れたことを悼み、凱旋帰国後、熱海伊豆山に居を構え、両国の戦没者をともに供養するために観音像の建立を発願されたのです。

露立の聖観音像は支那事変の激戦地である大場鎮(だいじょうちん)・南京地域の「戦場の土」を取り寄せ、常滑の仏像陶工師柴山清風氏にはかり、彫塑家小倉右一郎氏の協力を得て制作されました。
高さ三.三メートル、推定重量六百キロ、七十年余年の風雨に耐えて祈り続けておられます。
すっきりと美しい立ち姿ですが、この大きさで焼き物であるということに驚きました。

松井大将は、熱海にいらっしゃるときは、雨の日も風の日も、毎日お山に通われて観音経をあげておられたそうです。
このお山には、昭和三十四(一九五九)年、英霊「七士の碑」も建立されています。

碑の揮毫は吉田茂元総理大臣です。
何名もの方の勇気あるご尽力と、ご縁を重ねて興亜観音のもとに届けられた七士のご遺灰の一部が石碑の下に埋葬されています。
   殉国七士の碑  ~興亜観音にその墓のあるわけ~ 
   先代堂守 伊丹忍礼(述)
   http://www.history.gr.jp/koa_kan_non/16-6.html


松井石根大将は敗戦後の昭和二十年十二月七日のラジオ放送を聞いて初めて南京事件を知ったそうです。
そのくらい、当時の新聞報道にあるように、現地においても、虐殺などとはかけ離れた状況であったということです。


南京事件に関して、阿羅健一さんの立ち上げた会の設立趣旨を参考までにご紹介します。

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「南京戦の真実を追求する会」設立趣旨
当会の目的は、①南京戦の真実を追求して史実を世に広め、②無実の罪を着せられて非命に斃れた松井石根大将を顕彰すること、にあります。
宣伝戦

第一次世界大戦が起こるとヨーロッパ諸国は宣伝に力を入れ、敵の残虐さを宣伝しました。支那事変が起こると、中華民国も宣伝に力を入れました。 中央宣伝部の副部長と対外宣伝処長が指揮を執り、そこにイギリスの新聞記者やアメリカの宣教師が協力して、南京で市民殺戮が行われたというストーリーが作られました。

南京事件
中華民国は第三国に向け南京事件を宣伝しました。ですから日本人が南京事件を知ったのは敗戦後です。松井石根大将は昭和二十年十二月七日のラジオ放送を聞いて初めて南京事件を知りました。

東京裁判
東京裁判でも宣伝は続きました。アメリカの宣教師は虚偽を証言しました。中華民国は架空の埋葬記録を作成して提出しました。このため、起訴状では数万人の殺害でしたが、二十万人に膨みました。

四十年後に再び
昭和二十四年、中国共産党は中華民国を倒し中華人民共和国を建国します。中華人民共和国は南京事件が中華民国の宣伝であることを知っていましたから、それを口にすることはありませんでした。しかし南京攻略から四十年が経ったことから、昭和五十年代後半に南京事件を言い出しました。

濡れ衣
東京裁判で絞首刑となった松井石根大将は南京事件をきっぱりと否定しており、その濡れ衣は晴らさなければなりません。また、中華人民共和国は南京事件を日本の歴史教科書に記述させ世界にも広めており、これらはただちに払拭しなければなりません。

「南京戦の真実を追求する会」の発足
以上の事実経過を明らかにし、松井大将以下の英霊に掛けられた濡れ衣を晴らすことは、われわれ世代に課せられた責務ではないでしょうか。そのために私たちはこの会を発足させました。この趣旨に賛同される方は、われわれと一緒に立ち上がりましょう。
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---------------------------- ここまで

また、南京事件に解して、今月十四日には、山田宏参議院議員が、下記のツイッター発言をされています。

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山田宏 自民党参議院議員‏認証済みアカウント @yamazogaikuzo 12月13日
何としてもやらねば。ユネスコ「世界の記憶」事業の改革が決まり、登録済みであっても非公開の「記憶遺産」は、登録抹消となる道が開かれました。「南京事件」資料は公開されてないので、抹消の可能性があります。公開に踏み切れば、国が片っ端から検証してインチキを世界に知らせなければなりません。

山田宏 自民党参議院議員‏認証済みアカウント @yamazogaikuzo 12月14日
私が南京攻略戦はあったが、南京「虐殺」はなかったとする理由。

①当時の南京安全区国際委員会の報告(中国国民党監修)では、南京攻略戦前と1カ月後の人口が20万から25万人に増加していること。虐殺が行われていれば増えるはずがない。

②「国民党中央宣伝部国際宣伝処工作概要1938~1941」によると、南京攻略戦の12/13の前1937年11月から1年間に、国民党はほぼ毎日の300回にわたって、外国人記者会見を行っているが、一度も虐殺事件に言及していないこと。虐殺があれば大宣伝するのが中国なのに。

③当時沢山いた南京駐在欧米記者の虐殺の記事がないこと。目を引くのは、ニューヨークタイムズ紙とタイムズ紙が、1938年1月28日から連続4日間「日本兵による米国大使館員平手打ち事件」を大々的に取り上げた事くらい。「平手打ち事件」でも大ニュースになるのだから、虐殺などなかった。

④「南京虐殺」なるものを報告した宣教師ベイツやフィッチ、また著書に書いたティンパーリ記者(上
海にいて南京にはいなかった)は、国民党顧問であったか、国民党からの資金など何らかの物心両面の援助を受けていたことが明らかになっている事。つまり国民党の宣伝に一翼を担っていた。

⑤南京攻略戦に参加した日本兵や、当時南京にいた日本人からの虐殺証言はゼロである事。軍が箝口令を引いたミッドウェー敗戦すらすぐ漏れていたのにだ。むしろ河村名古屋市長のお父上のように、南京市民とはとても和やかな状況で、かの朝日新聞も南京市民と日本兵の微笑ましい記事ばかりだ。

⑥「南京虐殺」の証拠とされるものは、全て中国側の証言と写真なるものばかり。証言には裏付け証拠は何もなく(慰安婦証言と同じ)、写真については東中野修道先生の綿密な調査で、偽造写真か、南京以外の戦争写真か、馬賊の写真であることが明らかになっている。

⑦中国が東京裁判に提出した、当時の埋葬団体紅卍会4万人と崇善堂11万人の埋葬記録について。崇善堂は当時埋葬活動をしていなかった事実が中国側の明らかになっていて、捏造記録である。
また、紅卍会が南京城内で処理した死体数は1793体と記されているが、これは当時(1938年4月)の大阪朝日新聞南鮮版の報道記事にある死体処理数1793体とピタリと一致し、日本軍の南京入城後に存在した死体数(戦闘によるものか、巻き込まれたものかはわからない)として信頼おける数字。これが南京の真実。

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石平太郎‏ @liyonyon

13日に北京入りした韓国大統領は驚くべきほどの冷遇を受けている。国賓なのに空港の出迎えは中国の外務次官補、13日から14日昼まで中国政府からのもてなしは一切無し。14日にやっと習近平に会えたのに国賓歓待の晩餐会もない。「南京」まで持ち出して中国に媚を売ったのにこの有様である。

山田宏 自民党参議院議員‏認証済みアカウント @yamazogaikuzo 12月14日
山田宏 自民党参議院議員さんが石平太郎をリツイートしました

中国は相手が弱みを見せると軽蔑して尊大になり、相手が強いと見ると畏敬して低姿勢になる傾向がある国。わが国は歴史の中で、彼らとの付き合い方を十分学んできた。何があっても友好友好といった姿勢は、実は侮られ馬鹿にされるだけ。不正不当な脅しは許さないという断固とした姿勢が対等友好の礎。

----------------------------- ここまで 山田宏参議院議員のツイッターより 


南京事件、南京大虐殺に関しては、今後もきちんと専門家の間で資料と共に検証していってもらいたいものです。

松井大将についての誤解はもっともっと払拭されてほしいです。
東條英機元首相についても、「戦犯」という失礼な言葉は該当しません。

「戦犯」「A級戦犯」「BC級戦犯」という言葉がありますが、どれも、東京裁判で処刑対象となった方々を意味する言葉として、マイナスイメージとともに使われています。

間違った言葉遣いに、悪いイメージをつけて流布させるという、いわばレッテル貼りといえる部分においても、日本語はいま、相当に乱れています。

ニュースなどにみる言葉遣いも荒れています。今上陛下の「生前退位」などという言葉も大変失礼な言葉ですし、共産党用語の「天皇制」という言葉もあまり気持ちの良い言葉ではありません。
議論になるとつい、相手の使う言葉に寄せて流されがちになりますが、新聞や報道がどうあれ、私たち国民は、正しい日本語として、本来の「ご譲位」や「皇室制度」に言葉をあらためて使いたいものです。

言葉の乱れは精神の乱れともいえるのだと思います。
東京裁判(極東国際軍事裁判)による「戦犯」という言葉は、その意味するところを考えると、立派な英霊たちに対しては使いたくない言葉だとつくづく思います。

正しくは、戦犯ではなく昭和殉難者と呼ぶべきなのです。それには、バチカンも協力しています。
ローマ教皇庁(きょうこうちょう)、バチカンのサン・ピエトロ寺院では、日本人僧侶・仲田順和師の願い出により、昭和五十五(一九八〇)年五月二十一日、昭和殉難者の鎮魂のため、荘厳なミサがヨハネ・パウロ二世により執り行われています。

仲田順和師と、製作者である栃木県大田原市の木工芸家星野皓穂氏から、五重塔に一千六十八柱の位牌を納めて奉納もされたようです。
 
 参考:   昭和殉難者のミサ
       http://vaccine.sblo.jp/article/1850309.html
       
      品川寺(ほんせんじ)にて昭和殉難者と学徒を慰霊
       http://nonbe.way-nifty.com/blog/2007/03/post_aa53.html

英霊の魂が集うとすれば「靖国で会おう!」といった当時の思いによってもはっきりしているように、なんといっても靖国です。
靖國神社には、あきらかにそれだけの清浄で重厚な気配があります。
ぜひ、ご参拝ください。昇殿参拝は、玉串料(初穂料)二千円以上のお志で受け付けてくださいます。

戦没者を慰霊するのは、世界の常識です。アーリントン墓地を持ち戦没者の名誉を守り続けるアメリカが、靖國神社を恐れ政治家たちの参拝を快く思わないとすれば、それは絨毯爆撃をしたことや原爆を使用したことなど戦争責任に関する恐れと連動しているのではないかと私は感じています。
さまざまな戦後の始末がきちんと回収され、ひとつ上の段階へとみんなで上がっていけるように祈ります。

今年の二月からスタートしたShin-maga 「日本のいまを考える」の連載も、年内なんとか無事に、毎週アップするという自分との約束を実行できたことに感謝いたします。
みなさま、ありがとうございました。

どうぞ良い新年をお迎えくださいますよう、心よりお祈りいたしております。


平成二十九年十二月二十九日
阿部 幸子
協力 ツチダクミコ
協力 白澤 秀樹

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