人が気になるミス(失敗)と、あまり気にならないミスがあるとしたら、前者は「分かっていない」がために起こるミス、後者は「分かっている」けれど起きてしまったミス? 巨匠の演奏で、ミスしていても気にならない音楽の素晴らしさを感じるのは、このため!?
音楽演奏において、あらゆるミスが気になるのは、ミスそのものを追求してしまっている心ゆえに!? 演奏からは本来、音楽を目的として聴きたいものです。ミス探しは粗探し、これは幸せではないと思います!
コンクールや試験等において、「まずはミスが無いこと」を前提とするような風潮は・・・若者の健全な育成を阻害するする不幸せなものと思われます・・・ ミスは無い方がいい!しかし、ミス無しを主目的としてしまっては、事は本末転倒となる危険があるでしょう!
音楽演奏等において、ミス無しを前提として求める冷酷な雰囲気の場があるとしたら、それは芸術の敵だと思います。全然よくない。
芸術は、不思議な人生において、幸せのかけらに触れられるかもしれない、貴重な存在のひとつ!?
芸術に邁進することで、人生が不幸になるような場合が一見あるかもしれませんが・・・しかしそんな人においても、芸術に向き合っているその時は、ちょっと幸せ? それすら幸せでないなら、それは芸術ではない!?
狭義の自我にとらわれている芸術活動は、本物ではない・・・? 本当の芸術は、普遍性のかけらを有するもの!?
自我を、否定してもきっと仕方ない。自我とともに、生きる。有意義に!? 幸せに!?
音を飲物に例えると、協和音は水、不協和音は酒!? 協和音は、生命の源。しかし、こればかりでは味気無い!? 大人になると、不協和音すなわち酒!?で人生のスパイスを楽しめるようになる!? しかし酒ばかりでは、生命は縮まる・・・程々が肝心!?
100年ほど前に、協和音を徹底排除して作曲しようとした動きがありましたが、これは、水を拒否し、酒ばかりを追求する人生のよう!? これでは・・・生命は保たれないでしょう。不協和音ばかりの音楽に疑惑を持ち始めた今日この頃です・・・
協和音は、この宇宙に存在する確かな事実。これを放棄・無視するようなことは、この宇宙の中に生きることを拒絶することと同義!? 協和音無しには・・・生きてゆけない・・・?
でも、協和音ばかりでは、人は残念ながら飽きてくる・・・? 水ばかり呑んで過ごすのは、少なくともこの豊かな日本国での生活では、きっと物足りなく思えても仕方がないでしょうか・・・ しかし、生命は水無しには生きられない!これを忘れてはならない!
水を手に入れるのが困難な状況で水を口に含んだ時には、きっと!水はさぞかし美味しく感じることでしょう! 音楽に飢えている時、美しい協和音が聴こえたなら、きっと心はその音を美味しく思える!?
協和音と不協和音、音に関するこの事実に、音楽家としてより一層真剣に取り組みたいと思い始めた今日この頃です。
ムシカ・ムンダーナ、ムシカ・フマーナ、ムシカ・インストゥルメンタリス。中世ヨーロッパにおける音楽理論は、単なる過去の遺産ではない、今日においても生きている論理であるのかもしれません。 協和音に宇宙性を感じられるのなら!
二千年以上前の古代ギリシアにおいて発見されていたピタゴラス音律は、人類において、音の世界の理解度が増した貴重な一歩であったと言えましょうか。(ギリシア以前に中国でこれが発見されていたかも!?なんてったって四千年の歴史とも言われますので!これは凄い・・・)
更に昔、一万年前の人類の遺跡から、動物の骨に穴をあけて楽器とした笛が発見されたというニュースがあった記憶があります・・・ その当時の人は、この整数からなる音律の神秘に気付いていたのでしょうか!? 知っていたのか、あるいは感覚的にこれを楽しんでいたのか!?
数週間前からチェンバロに本格的に向かい合い始めたがためにか、およそ300年前の音文化を目の当たりにすることで、ついには二千年以上に及ぶ西欧の音楽文化の発展を意識させられる今日この頃です・・・ これ音楽家としての成長の印しであれば嬉しいのですが!
人類は、動物として、初めから声を音楽の元としていた? 原始の音楽は声楽とも言われます・・・
脈打つ鼓動は、リズムの根元!? ならば、生命体として宇宙に存在し始めた時から、リズムはあった!?