ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

JUDO 名勝負

2012年04月29日 | Weblog

 

昨日今日とまるで初夏のような気候で、大型連休でお出かけした人にとっては最高の天気であったことだろう。蓼科辺りも、ひょっとしたら桜が咲き初め超が付く込みようかもしれないが、普段の静かな蓼科を知ってる人間にとっては、この時期は絶対に避けたい。

付けっぱなしていた深夜のNHKテレビから、「これは明らかな誤審です」と叫んでいる声が聞こえた。何事かと思ったら、柔道の篠原とドイエのオリンピック無差別級決勝戦での中継だった。どうやらロンドンオリンピックに向けての盛り上げ番組の一つのようで、思い出に残る柔道名勝負ベストテンといった番組をやっていたのだ。この試合はベスト7辺りでその後いろいろ続くのだが、他の日本人が優勝した試合は殆ど覚えてなくて(例えば田村の試合とか)個人的には一番印象に残ってるのがこれだったのだ。対戦相手の名前を覚えてるのなんか、ドイエ以外だと、ヘーシンクと山下と戦ったラシュワンくらいしかいない。篠原の幻の決め技「内股すかし」なんてのも覚えたくらいだから。

何故これほどまでに覚えているかと言うと、まず口惜しかったというのがあるが、対戦相手のドイエがフランス国内では英雄的な名選手としてトップとして君臨していたという事実があり、その選手が明らかにやられたという顔をしてながらも、判定により救われ嬉しそうに表彰台のトップで金メダルを掲げていたのがどうにも腑に落ちなかったのだ。柔道のあるべき姿との違和感を感じたわけだが、JUDOというのはこういうものかとはっきり認識した。つまり、何でもいいから勝てば良いのがJUDOなのだ。微妙な判定、技を出すと直ぐに審判の顔を窺う、多分こんなものは柔道の目指したものではなかったはずだ。勝った瞬間ガッツポーズとか最早他のスポーツと一緒で勝てさえすればいいのである。

今や、柔道人口はフランスの方が多くフランスが本場になってしまうかもしれない。しかしそれは、JUDOを世界に普及させるのが目的だったならば喜ぶべき状況だろう。もし柔道の精神(礼節を重んじるなどの美学的世界)を広めたかったとしたら失敗。結局、オリンピックに柔道を組み入れた時点で行く末は決まっていたのだ。相撲に外人力士をいれるのも一緒。独自の世界を護りたいのならば、スポーツというグローバル化を免れない世界に色目を使っては駄目なのだ。

というわけで、これからテレビではオリンピックに向けての盛り上げ番組が多くなると思うが、今年は本番を全く見ないことにチャレンジしたい。前回も殆ど見なかったが、サッカーの予選だけは見たような。

 

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