この動画は、令和元年度(2019年) 6月29日 青森市の沖館市民センターで行われた地域力アップ講座から、個人的に了解を得て講演を録画したものです。講師は、元青森運輸営林署で津軽森林鉄道機関士をされた藤田健市さんです。藤田さんは昭和10年(1935年)生まれで営林署就職当時の体験談や思い出、戦時中の周辺地域のお話も収録されています。
講演はフォーマルな津軽弁ですが、盛り込まれた会話によって、砕けた話し方や家族間で話していた津軽弁も出てきます。分かりにくい津軽弁の単語は、簡単な意味を左上に示しました。この動画での津軽弁の訳は正確でない所があります。全部共通語にすると、うまく伝わらないので私訳であります。話題に応じて、内容を示す字幕も表示しました。以下はその字幕内容です。画像より音声優先で収録しました。
動画は予期せず削除、または差し替えして別なURLへ再投稿することがあります。動画の相当部分で画像と音声が正確に合っていません。お許し下さい。(撮影編集伊東基成)
以下のテキストは動画に挿入した字幕内容、注釈です。
講演名 青森市沖館周辺地域の今昔
講師 元津軽森林鉄道機関士 藤田健市 さん
講師 元青森運輸営林署 津軽森林鉄道機関士
藤田 健市 さん
運輸営林署で働くことになったきっかけ
入署当時の思い出
蟹田貯木場でのこと
早朝、木炭車の準備
夜、蟹田の寮で
終列車で母に会いに青森まで
別れ際、母の一言
津軽線の最終列車 ホームにかかる歌
蟹田寮に帰ってもすぐには休めない
3年後 木炭車からディーゼル機関車に変わる
盛岡で大型免許を取り、トラックで材木輸送
小泊に転勤。市浦・青森への輸送説明
中里薄市での貯木場があった
ひば丸太
苦しかったときの母の一言
盛岡で大型免許を取った時のこと
機関士で苦労したが、今思うこと
運輸営林署について
入署時の営林署職員数
今の、地域の子供達に伝えるべき事
地域の写真展を開催すること
沖小校長 須藤先生との出会い
機関士の仕事と戦争体験を小学生に話聞せてほしい
体験談を聞いた子供達は
中学で修学旅行に行けたこと
(おなごのかろく:かろくとは家禄の意味だが、津軽弁で就労先に住み込みで働かせてもらい収入を得ること)
最後に私が思うこと
トラックに乗って3県の営林署 全営業所を1人で廻ったこと
家内のこと
営林署があったからこその地域生活
1日にこよん職業安定所のこと
(にこよん:100円硬貨2枚と10円硬貨4枚のこと。当時の公共職業安定所が行った失業対策。日雇い労働者に支払われた1日分の賃金として現金の硬貨で支給されていたためこの呼び方がついた。)
親の背中を見て育つということ
病弱な父が買ってくれたトランジスタ・ラジオ
そのラジオを借りて隣の屯所で空襲警報を聞いていた
葛屋根(くずやね)-草葺きの屋根の住宅
新田の簡易水道・戦時中の生活
新井田川
<木炭車エンジンにつて>
蒸気機関車は石炭等の燃料を燃焼させて、釜の水を沸騰させて、その蒸気エネルギーから動力を得るものです。
一方、木炭車には直接動力を得るためのボイラーはありません。(ボイラーは付いていても、蒸気機関ではありません)
木炭車ではない通常の燃焼だと、炭を燃やせば灰と二酸化炭素と水蒸気が発生して燃焼してしまいます。しかし供給する酸素を制限すると、不完全燃焼した一酸化炭素が発生します。この一酸化炭素ガスには、再び酸素を供給して加熱、圧力を加え燃焼させれば、熱膨張できるエネルギーが残っています。このガスをエンジンに供給して、ガソリンエンジンのように爆発させて、機械動力として取り出すのが木炭車です。当時は機関車だけでなく、道路を走行する自動車も木炭ガス発生装置を取り付けて、ガソリンの代替え燃料として使用していました。
Memories of my mother and Forestry job
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