2月18日(木)パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK交響楽団
《2016年2月Bプロ》 サントリーホール
【曲目】
1. R.シュトラウス/変容
2.シューマン/ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54
【アンコール】
ドビュッシー/月の光
Pf:カティア・ブニアティシュヴィリ
3.R.シュトラウス/交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」Op.30
昨年10月に続き、2月のN響B定期でまたパーヴォ・ヤルヴィが登場した。プログラムは例によってシュトラウスが中心。最初の「メタモルフォーゼン」はつい6日前に紀尾井シンフォニエッタの定期で聴いたばかり。パーヴォ/N響の46人の弦楽器奏者からは、終始柔らかく香り高い響きが醸し出された。暖かな空気を内包し、滑らかに進行する音像にはうっすらと影を引く。その影も淡い色彩を帯び、極上の音世界を描いていった。
精巧で優れた機能を誇る放送交響楽団という性質とは異なる、歴史と伝統のあるヨーロッパの最上質のオーケストラのような音が聴こえてきたのは驚きだった。この曲は23人の弦楽器奏者のために23のパートがそれぞれ独立して書かれているというが、パーヴォは楽器を2倍に増強して、適宜音に厚みを与えていた。これが音楽の奥行き、温度や密度の変化に自然で大きな幅を与え、雄弁なドラマを語らせた。
作曲の背景を知らなければ、至福の人生を送ってきた老人が、その生涯を穏やかに回想しているようなシーンが思い浮かぶほど、幸福感溢れる温かな演奏に身を委ねていたが、曲の最後に来て凝縮された寂寥、孤独感が迫ってきて、この音楽全体が抱える「悲しみ」を感じることとなった。音が消えたあとの長い静寂も素晴らしかったが、あともう少しで拍手が始まるというときに、間抜けなLINEの着信音を鳴らすやつが!電源切っとけ!
続くシューマンのピアノコンチェルトのソリストはジョージア出身の若手、ブニアティシュヴィリ。これはかなり驚きの演奏だった。短いトゥッティの後にピアノだけで演奏されるフレーズが、なんと小さな音で、柔軟で甘美に綴られたことか。魔法にかけられたように魅了されたことは確かだが、さてこれで30分にも及ぶコンチェルトをどう料理するか見当がつかない。
果たしてブニアティシュヴィリは、聴き慣れたこの曲の演奏とはえらく毛色の違う演奏を繰り広げた。とにかく弱音を多用し、そこではテンポも思いっきり抑える。パーヴォ/N響もこのアプローチに(僕に言わせれば)「付き合わされ」て、颯爽とリズムを刻んで突き進んで欲しいところも、撫でるようなソットヴォーチェでピアノに付き従う。これでは、音楽本来の持つ方向性やエネルギーの濃淡が失われてしまう。
アンコールの「月の光」のような小品ならまだしも、シューマンはコンチェルトとしての全体構想をまとめた上で、それぞれのフレーズに、相応しい勢いや力学的な妥当性を込めたはずで、それがことごとくカティア流にアレンジされるのは、本人は明確な根拠のもとに行っているとしても、僕には独善的にさえ思えた。
ただ聴衆のウケはいい。遠目にはかなりの魅惑的美人に見えたが、彼女が拍手に応えて投げキスを放つ度に、条件反射のようにブラボーの声が飛ぶ。美人は得だなー。それにしてもN響は外人ソリストが好きだ。もし日本人なら、このクラスよりかなり上のキャリアとか、コンクールの受賞歴がなければ呼んでもらえないのでは?世界に誇る日本のオケであるN響こそ、日本人の若い演奏家にもっとチャンスと経験を与えるべきではないだろうか。
最後は再びシュトラウス。これはとても充実した名演だった。オケは懐が深く、表情は柔軟で、力がみなぎっているが、力みは一切なく余裕すら感じる。響きのブレンド具合も極上で、心技体の整ったアスリートの惚れ惚れする演技を見ているよう。ゲストコンサートマスターのエシュケナージのヴァイオリンソロも香り高く、頼もしさも具わり、安定していた。
ステージにはレコーディングのためにマイクがたくさん立っていたが、昨夜の演奏のテイクも合わせて、また良いCDに仕上がるのではないだろうか。ただ、この意味深長な音楽は僕にとっては難しくて、感動にまで至らなかった。N響B定期は「ツァラトゥストラ」を本当によく取り上げる。こういう難しい音楽は、たまには他の定期に振り分けてもらいたい。
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《2016年2月Bプロ》 サントリーホール
【曲目】
1. R.シュトラウス/変容
2.シューマン/ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54
【アンコール】
ドビュッシー/月の光
Pf:カティア・ブニアティシュヴィリ
3.R.シュトラウス/交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」Op.30
昨年10月に続き、2月のN響B定期でまたパーヴォ・ヤルヴィが登場した。プログラムは例によってシュトラウスが中心。最初の「メタモルフォーゼン」はつい6日前に紀尾井シンフォニエッタの定期で聴いたばかり。パーヴォ/N響の46人の弦楽器奏者からは、終始柔らかく香り高い響きが醸し出された。暖かな空気を内包し、滑らかに進行する音像にはうっすらと影を引く。その影も淡い色彩を帯び、極上の音世界を描いていった。
精巧で優れた機能を誇る放送交響楽団という性質とは異なる、歴史と伝統のあるヨーロッパの最上質のオーケストラのような音が聴こえてきたのは驚きだった。この曲は23人の弦楽器奏者のために23のパートがそれぞれ独立して書かれているというが、パーヴォは楽器を2倍に増強して、適宜音に厚みを与えていた。これが音楽の奥行き、温度や密度の変化に自然で大きな幅を与え、雄弁なドラマを語らせた。
作曲の背景を知らなければ、至福の人生を送ってきた老人が、その生涯を穏やかに回想しているようなシーンが思い浮かぶほど、幸福感溢れる温かな演奏に身を委ねていたが、曲の最後に来て凝縮された寂寥、孤独感が迫ってきて、この音楽全体が抱える「悲しみ」を感じることとなった。音が消えたあとの長い静寂も素晴らしかったが、あともう少しで拍手が始まるというときに、間抜けなLINEの着信音を鳴らすやつが!電源切っとけ!
続くシューマンのピアノコンチェルトのソリストはジョージア出身の若手、ブニアティシュヴィリ。これはかなり驚きの演奏だった。短いトゥッティの後にピアノだけで演奏されるフレーズが、なんと小さな音で、柔軟で甘美に綴られたことか。魔法にかけられたように魅了されたことは確かだが、さてこれで30分にも及ぶコンチェルトをどう料理するか見当がつかない。
果たしてブニアティシュヴィリは、聴き慣れたこの曲の演奏とはえらく毛色の違う演奏を繰り広げた。とにかく弱音を多用し、そこではテンポも思いっきり抑える。パーヴォ/N響もこのアプローチに(僕に言わせれば)「付き合わされ」て、颯爽とリズムを刻んで突き進んで欲しいところも、撫でるようなソットヴォーチェでピアノに付き従う。これでは、音楽本来の持つ方向性やエネルギーの濃淡が失われてしまう。
アンコールの「月の光」のような小品ならまだしも、シューマンはコンチェルトとしての全体構想をまとめた上で、それぞれのフレーズに、相応しい勢いや力学的な妥当性を込めたはずで、それがことごとくカティア流にアレンジされるのは、本人は明確な根拠のもとに行っているとしても、僕には独善的にさえ思えた。
ただ聴衆のウケはいい。遠目にはかなりの魅惑的美人に見えたが、彼女が拍手に応えて投げキスを放つ度に、条件反射のようにブラボーの声が飛ぶ。美人は得だなー。それにしてもN響は外人ソリストが好きだ。もし日本人なら、このクラスよりかなり上のキャリアとか、コンクールの受賞歴がなければ呼んでもらえないのでは?世界に誇る日本のオケであるN響こそ、日本人の若い演奏家にもっとチャンスと経験を与えるべきではないだろうか。
最後は再びシュトラウス。これはとても充実した名演だった。オケは懐が深く、表情は柔軟で、力がみなぎっているが、力みは一切なく余裕すら感じる。響きのブレンド具合も極上で、心技体の整ったアスリートの惚れ惚れする演技を見ているよう。ゲストコンサートマスターのエシュケナージのヴァイオリンソロも香り高く、頼もしさも具わり、安定していた。
ステージにはレコーディングのためにマイクがたくさん立っていたが、昨夜の演奏のテイクも合わせて、また良いCDに仕上がるのではないだろうか。ただ、この意味深長な音楽は僕にとっては難しくて、感動にまで至らなかった。N響B定期は「ツァラトゥストラ」を本当によく取り上げる。こういう難しい音楽は、たまには他の定期に振り分けてもらいたい。
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