こんばんは。
私は、コーヒーと紅茶ではどちら?と聞かれたら、間違いなく紅茶と答えます。
ココアも好きですし、コーヒー牛乳、ミルクセーキ、ウインナーコーヒーもだ~いすきです。
紅茶が好きなのは、お茶そのものが好きだから、ともいえます。
育った家の女主人だった母は、やはり大のお茶好きでした。実家のお茶の間と言われた部屋は、今でいうダイニングルーム。ブナ材のフローリングになっていながら、部屋の中央には、長火鉢が置かれて一日中、鉄瓶にお湯がしゅんしゅん沸いていました。
古道具のサイトから選ぼうにも記憶が薄れていてはっきりとは・・・
まあこんな感じだったでしょうか。
玄関の次の間、広間と呼んでいたところのは囲炉裏ふう、ただし、腰掛るタイプでした。飛騨家具でした。
そこも一年365日炭火の絶えることはありませんでした。
茶室以外に、もう一か所、炉が切ってあり、11月の口切の茶事以降4か月ほどは、いつも炭火がしてありました。
どこにもお湯の沸く音と蒸気の気配がした家でした。
母は急須の類を100個以上は持っていたのでは、と思います。若い頃に古儀茶道に入門、いわゆるお抹茶の世界ですが、それとは別に煎茶道、売茶流とかいうのも数年修行したらしいです。その名残か、煎茶道に使う小さな長盆や、急須の類があるのでしょう。
それ以外に世界の磁器のティーポットも集めていました。名窯、ウェッジウッドやマイセンなどそれは美しい絵付けの急須が床屋さんにあるようなガラスケースにきちんと並べて飾ってありました。母の趣味のひとつといえたでしょう。
私はいつでもそれらの母のコレクションを入手できると無欲で、実家から移動して自分のところに持ってくることを思いもしませんでした。
いくつかは、母に何かの折にもらって帰りましたので、確かにてもとにあります。
むしろ紅茶のティーポットがそんな経緯で私のもとに数個あります。玉露や煎茶の急須、万古焼とか常滑とか有田の類の和のものがいつでももらえるという呑気さから永遠に見ることもなくお蔵入りか、あるいは分散か。。。実家には父亡き後10数年の間に一度しか入ったことがないので、全く中の様子は不明です。
閑話休題。
私は、普段自宅でほぼ三度の食事やおやつの用意をしていただいています。
コロナ禍以前は、友人知人の類を供するのには、すべてあの150歳の陋屋でした。そこに、茶道具も自ずと移動することになり、自宅には実用品とかあまり思い入れのないものばかり残っているのが実情です。
ただ、この一年は、お客を呼ぶこともなかったために、お茶タイムはもっぱら自宅で、と変わってきています。
いつも飲んでいるトワイニングのアールグレイとアイリッシュティーとフレーバーティー、それにワイルドストロベリーティーです。
茶葉から淹れてポットはコーズィ(ポットカバー)をかぶせて2分間待つのが常道。たまにていーバックを使うときもティーポットには入れます。
普段使いのティーカップ、ソーサーなどですが、よくよく見ると、メイド イン ブリティッシュとあり、夫の海外からの凱旋の際の思い出の品の数々でした。
ROYAL KINGSTONEというブランド名が裏に印字されています。
ホテルに出てくる食器がすてきで、ホテルのアーケードで購入(もちろんカードで)壊さないように丁寧に荷物に加えて帰国したのだと、説明してもらいました。
オランダ、ハンガリー、イギリス(特にウェールズのカーディフに日本企業が進出してきていました)など、企業戦士のはしくれとして、機内泊2日を含めて、4泊3日のような出張を年間に20回はしていたのは40代だったでしょうか。今だとブラックだと訴えられそうな会社の方針でした。よくも殺されずに黙々と働いてくれた、と今になってその労に思いを馳せるありさまです。
コロナ禍で、本来のわが家にいる時間だけだったこの1年余。こし方の頑張りにも少しは敬服したり、悪いことばかりでもなかったようでした。。。
私は、コーヒーと紅茶ではどちら?と聞かれたら、間違いなく紅茶と答えます。
ココアも好きですし、コーヒー牛乳、ミルクセーキ、ウインナーコーヒーもだ~いすきです。
紅茶が好きなのは、お茶そのものが好きだから、ともいえます。
育った家の女主人だった母は、やはり大のお茶好きでした。実家のお茶の間と言われた部屋は、今でいうダイニングルーム。ブナ材のフローリングになっていながら、部屋の中央には、長火鉢が置かれて一日中、鉄瓶にお湯がしゅんしゅん沸いていました。
古道具のサイトから選ぼうにも記憶が薄れていてはっきりとは・・・
まあこんな感じだったでしょうか。
玄関の次の間、広間と呼んでいたところのは囲炉裏ふう、ただし、腰掛るタイプでした。飛騨家具でした。
そこも一年365日炭火の絶えることはありませんでした。
茶室以外に、もう一か所、炉が切ってあり、11月の口切の茶事以降4か月ほどは、いつも炭火がしてありました。
どこにもお湯の沸く音と蒸気の気配がした家でした。
母は急須の類を100個以上は持っていたのでは、と思います。若い頃に古儀茶道に入門、いわゆるお抹茶の世界ですが、それとは別に煎茶道、売茶流とかいうのも数年修行したらしいです。その名残か、煎茶道に使う小さな長盆や、急須の類があるのでしょう。
それ以外に世界の磁器のティーポットも集めていました。名窯、ウェッジウッドやマイセンなどそれは美しい絵付けの急須が床屋さんにあるようなガラスケースにきちんと並べて飾ってありました。母の趣味のひとつといえたでしょう。
私はいつでもそれらの母のコレクションを入手できると無欲で、実家から移動して自分のところに持ってくることを思いもしませんでした。
いくつかは、母に何かの折にもらって帰りましたので、確かにてもとにあります。
むしろ紅茶のティーポットがそんな経緯で私のもとに数個あります。玉露や煎茶の急須、万古焼とか常滑とか有田の類の和のものがいつでももらえるという呑気さから永遠に見ることもなくお蔵入りか、あるいは分散か。。。実家には父亡き後10数年の間に一度しか入ったことがないので、全く中の様子は不明です。
閑話休題。
私は、普段自宅でほぼ三度の食事やおやつの用意をしていただいています。
コロナ禍以前は、友人知人の類を供するのには、すべてあの150歳の陋屋でした。そこに、茶道具も自ずと移動することになり、自宅には実用品とかあまり思い入れのないものばかり残っているのが実情です。
ただ、この一年は、お客を呼ぶこともなかったために、お茶タイムはもっぱら自宅で、と変わってきています。
いつも飲んでいるトワイニングのアールグレイとアイリッシュティーとフレーバーティー、それにワイルドストロベリーティーです。
茶葉から淹れてポットはコーズィ(ポットカバー)をかぶせて2分間待つのが常道。たまにていーバックを使うときもティーポットには入れます。
普段使いのティーカップ、ソーサーなどですが、よくよく見ると、メイド イン ブリティッシュとあり、夫の海外からの凱旋の際の思い出の品の数々でした。
ROYAL KINGSTONEというブランド名が裏に印字されています。
ホテルに出てくる食器がすてきで、ホテルのアーケードで購入(もちろんカードで)壊さないように丁寧に荷物に加えて帰国したのだと、説明してもらいました。
オランダ、ハンガリー、イギリス(特にウェールズのカーディフに日本企業が進出してきていました)など、企業戦士のはしくれとして、機内泊2日を含めて、4泊3日のような出張を年間に20回はしていたのは40代だったでしょうか。今だとブラックだと訴えられそうな会社の方針でした。よくも殺されずに黙々と働いてくれた、と今になってその労に思いを馳せるありさまです。
コロナ禍で、本来のわが家にいる時間だけだったこの1年余。こし方の頑張りにも少しは敬服したり、悪いことばかりでもなかったようでした。。。
と訊かれたら、うーん、どうしょう・・・・・・やっぱりコーヒーですね。うちでは午前と午後の2回、コーヒーを飲んでいますから。
でも、最近はどう言う訳か、外で飲むときはロイヤルミルクティを飲むようになりました。一緒にケーキを注文するようになったせいかもしれません。
いいですね、こういう古い長火鉢。大好きです。
1年中炭火の耐えることがなかったのは、広いお宅だったからですね。昔の私の実家の狭い官舎では一酸化炭素中毒になりそうです(笑)。
うちの両親は家ではコーヒーを飲んでいるのを見たことはありません。外で散歩がてら夫婦で決まった喫茶店に行ってコーヒーは飲んでいたようですが。
私が実家に行くと最初に出してくれるのはいつも紅茶でした。
父はウイスキーを入れて。満洲に居たせいでしょうか。結構ロシアの影響を受けているようでしたから。ウーロン茶ではありませんでした。
ご主人様の海外土産に素敵な陶器の数々、割れ物を海外から持って帰るのは本当に疲れることですのに、奥様の嬉しい顔を見たかったのですね。
それを今頃になってお気付きになって、本当にコロナさまさま・・・・かもね(笑)
なんか。すごい!
そして、そのような出張を繰り返していた旦那さんもスゴイ!
その時のお土産で今、美味しく紅茶がいただける。
て言うのも良いですねぇ・・・
ロシア紅茶なのかどうか知らないのですが、私は紅茶にジャムを入れるのも好きです。こうして直接お砂糖は入れないまでも十二分に甘くしてコーヒー、紅茶をいただくのが好きです。
こどもが小学生くらいまでは、コーヒー豆をひいて、ドリップして薄めの味で何も入れないで、一日2,3回は飲んでいました。ママ友の来訪時もこのコーヒーが主でしたね。
息子は、おかあさんはコーヒー!と思っていたに違いありません。それが25年くらい前の事。それからはもっぱら紅茶です。食後にエスプレッソで、口の中をすっきりさせる程度です。
いつの間にか、カップ&ソーサ―が増えました。英、仏、独のブランドものも今は執着しなくなり、ノリタケやナルミの日本的な美しい色合いにも心惹かれます。
亭主留守で無事がいい、というのが、恥ずかしながら、私のことです。
海外への出張も国内のと変わらないくらいに度々で、身軽に飛び乗る感じでした。せいぜい私は、空港まで送るくらいが関の山で、送った後は、ルンルンと帰宅したものです。本当に薄情な妻でした。
よくぞ無事に健康を害することなくここまできてくれたものだ、と幸運に、そして自分の強運に感謝します。自分でいうのも変ですが、夫は恐妻家ではないはず、でも実際は私はかなりの悪妻でした。今は、夫婦の意識よりも身内感覚で、互いに人として優しくすることに努めている(つもりかな?)
Madonnaさんは、もっと貞淑な奥さまでいらしたことでしょうね、きっと!
長火鉢の底部に、いくつも小引き出しがあり、爪切り・傷バン、体温計など入っていたひきだし、昆布を小さくカットしていつでも食べられるように入れてある引き出し(昆布は乾燥していました)、切手やはがきの場所、等々、整理されて実用的でした。
私はよく、火箸で、胴の落としの中の灰をいじっては、母に注意されたものです。
広間の囲炉裏風の長火鉢は、正方形で淵が広かったので、食事も可能でした。穴(胴葺き)の上は、天井から自在鉤がついており、普通は、窯が鉤にかかっていますが、鉄鍋にいっぱいのけんちん汁が煮立っていた時も。蓋が杉の木目の美しい木製でした。
いろんなことを思い出しています。
もっとも記憶の底にあるのは、炭のにおいと、炭火のついたパチパチという音です。
さしずめ、今ですとアウトドアライフに近い?もっとも屋外には、大きな赤い野点傘も実際置かれていることもありましたけど。
もう、蘇らない旧態然とした景色です。
ところで、ポコさんはご実家も、子爵か何かのおうちなんですか?急須が100個なんて、近所の陶器屋さんでも せいぜい20個くらいでしょうか・・・。で、参考までに、我が家は、大小あわせて10個くらいです。継母がお茶しててもこんなもんです。お茶してなかったら1 or 0個でしょうね。
・・・で、わたくし、コーヒーが好きです。それも年中アイスコーヒー。からだが熱いオッサンなので冷たいモノが好き➡発熱してるかもしれへん。ポコさん流に言えば、年中【てきない】のです。
ちなみに、当地では【えらい】➡【えらー】➡【あ~えら】と変化します。金券じゃなかった、近県では【どえりゃーえりゃー】となるそうですが、メディアの発達で全国的に【しんどい】で天下統一したら・し・い。
次に、ウェールズ、カーディフ・スウォンジーにまつわる話を・・・。紙面の都合で次回に・・・。
・・・相も変わらない駄文 ご容赦!!!
とのコメントの一文に、ひらめくものがありました。
これは、私の目の前で起こったことなので、かなり昔(半世紀以上前?)とはいえ、事実の報告になります。
実家には毎日のように、顔を見せるお茶屋さんがいました。
「K野茶舗」という辛子色の布巾は、新品も含め今でもキッチンの引き出しに何枚も入っています。
たぶん、もともとは、父の職場に出入りしていたお茶屋さん(当時は、文房具屋ら印刷屋やら、お菓子屋、その他多岐にわたる出入りの業者がいて、多分、当然、癒着もあったと思います。現に父も公の立場から民間大手の旅行業者の立派な役職に天下りもしています、笑)が、自宅に運んで、と父に言われて実家に出入りするようになったのでは、とあくまでこれは推測の域をでませんが。
お茶屋さんには、母に連れられてお店にも行ったことがあり、玄関の部屋は畳で、たくさん、茶箱が積み上げられていたのを昨日の事のように思い出しています。
K野茶舗は、お店には禿げ頭のおじいさん(といってもそんなお年寄りではなかったのかも、)自転車を横乗りする奥さんは外商で、きれいなお嬢さんが看板娘でした。
母と意気投合したのか、K野さんと母の親交は30年以上は続きました。そしてある日、K野さんが、ぽつりとこの一言を
「おじいさんもなくなった、娘も若死にして。がんばってきたけれど、そろそろ潮時。商売をやめようと思うの」
お店に陳列してあった急須や、お茶道具を母は、かなりの部分引き取りました。急須の数がその時50個くらいは増えたと思います。私も10個母からもらいました。
そんな顛末もあって100個の急須コレクションとなった、そのことをはたとおもいだしたというわけです。
だらだら書き連ねて、自分でもしょうもないなあ、と今嘆息。
カーディフのことなどはいずれまた。
せっかくのコメントに何とも尻切れトンボのお返事になりますが、悪しからずお許しください。
私の歪んだ性格そのものが、あなたの精神衛生に悪影響を及ぼしているのは間違いありません。本当にすみません。
・・・し、しかも、それさえもポコさんはおゆるしになると思っている自分が存在します。。。
・・・・恥じ入るばかりです。
この私の歪んだ性格は、今後もこのような失礼極まりない文を、このゆがんだ右手が書き続けることと思います。
これは、私が、ポコさんの人柄を気に入っていることと同義語です。
・・・ってなことで、これからも許してネ。。
多謝。あかんね・・・。反省。
許すも何も、そんな言葉は滅相もありません。
無知を承知でお返事して、それにもお優しく対してくださる、私の小さい世界ではまれな、私の聞き役を演じてくださる方だと、まあ、この四角い箱の中での限られた世界の話ですが。
それでも、現にこうしてお言葉かけをしてくださるってこと、有り難すぎます。
どうぞ、未熟な私をお見捨てなく、また、お言葉をお寄せくださいませ。
(下心はありませんので 笑)
眼疾のこともありますので、私の駄文長文が大変恐縮ものですが、こうでもしないとなかなか自分の思いを文字にすることに到達しないのです。
私よりは恐らくだいぶお若く、闊達ななっとうさんの敬老精神におすがりして、今後のみちしるべをお願いするばかりです。