1月26日(土)夜、光が丘区民センターで光が丘地域学校統廃合問題学習交流会が開催された(主催 生かそう1947教育基本法!練馬連絡会議、東京都教職員組合練馬支部 参加 約30人)。
練馬区では区立学校適正配置計画の第一弾として、2010年4月に光が丘の小学校8校を4校に統合することにした。しかしこの案は昨年9月に公表され、10月に住民向け説明会、11月に保護者との意見交換会、12月に決定に持ち込もうという性急なものだった。さすがに12月決定は無理で時期は少しずれ込んでいる。
主催者から「統廃合の当事者は生徒、保護者、教員のはずであり、当事者の声をきちんと聞くプロセスがあるべきだ。進め方が間違っている。このままでは統合される学校の新入生が減る可能性があるが、区は何も対応していない」との話のあと、統廃合を行った東久留米市と凍結になった文京区の事例、そして研究者のアドバイスを聞いた。
●東久留米市の小学校の保護者
東久留米市では4年前に滝山小、7小、9小の3校を2校に統廃合した。廃校のウワサが先行した滝山小は入学希望者が1ケタに激減し、気がつくと滝山小の保護者から統廃合の要望が出ていた。2002年「地域内再編成で3校による対等合併」という市の計画が公表された。わたくしは9小の保護者として2年間統合準備会に参加した。保護者、地域住民、卒業生なら誰でも自由に参加できるが、教員は入っていない(校長・教頭・主任の管理職はオブザーバー参加したが、教育公務員なので意見は言えない)、司会は教育委員会の職員だった。決定は全会一致なので新校名も、何も決まらず、教育委員会に決定を投げる結果となった。準備期間はずいぶん長いようにみえるが、登下校の道順や安全面の配慮など、後から考えると的外れなことばかり話し合っていた。準備会はあったが「準備」はなかった。
校名変更にお金を使うより補助教員やカウンセラーなど生徒の心のケアに予算を使おうということで、背に腹はかえられず7小、9小の校名は涙を飲んで変えないことにした。あのとき新しい校名になっていれば、少なくとも大人の意識は「新しい学校になった」と変わっていたかもしれない。
さて2004年4月、統廃合が実施され学校はどうなっただろうか。建前は対等合併だったが、9小の校名は変わらず、9小の学校のルールがすべて生かされたので実態は「吸収合併」だった。廃校になった滝山の生徒は7小、9小に分かれて通学したが、大規模な転校生のようなものだった。滝山小から9小に来た子どもは混乱した。たとえば校門が開く時間も違っていた。子どもの心は揺れに揺れた。しかし9小の先生は、教育内容、教育方法、長年培った「伝統」のすり合わせも引き継ぎもないので、滝山でどうやっていたかわからず、子どもの心の揺れを把握できなかった。また統廃合反対の先生はすべて外部に転出させられ、9小には滝山の教頭と教務主任の2人が配属されただけだった(7小には普通の教員が配属された)。
それでも2~3年の低学年は9小に溶け込んでいったが、高学年の生徒ほど学校や教師への信頼心を削がれていった。そして学級崩壊が発生した。
校長は学級崩壊は統廃合のせいではなく、子どもの資質や教師の力量不足のせいだと言い放った。責めは「あの子」「この子」「あの先生」へと向かった。保護者は「あなたの家庭での教育が悪いからこうなった」と後ろ指を指されるのを恐れ、何もいえる雰囲気ではなくなった。しかし統廃合の前と家庭環境は何も変わっていない家庭も多い。また担任は「ごめんなさい。わたしが悪い」とあやまるばかりだった。中学に進学した4年後のいまになっても心の傷が残り、不登校の生徒もいる。しかし市議会はいまも「統廃合は大成功」と公言する。
当初、市教委は統廃合を成功させるためには「何でもします」と言っていた。わたしたちもその言葉を信じた。たしかにトイレやプールなど施設には億単位のお金をかけ、よくなった。しかし廃校条例が通ったとたん姿勢はガラリと変わった。市教委の言葉は幻想だったことがわかった。
こうならないためには、統廃合の準備に教員も保護者も入れて、その声を吸い上げ、十分にすり合わせをする必要があることを痛感した。
●文京区の小学校教員
文京区はもともと24学級の過大な小学校がある一方、単学級の学校が5校以上ある極端な区だった。そこに2003年中学の学校選択が導入され2005年には文京7中の入学者がゼロになった。04年11月の希望調査の時点では24人、05年2月の入学説明会では希望が4人あったのに区教委が電話で説得しゼロにした結果だった。98年に真砂小と元町小が統合し本郷小学校になったときにも区教委は同じ手法をとり、入学希望者が3~4人いても説得してゼロにした。
2006年6月、小学校20校を13校、中学校11校を8校と校数を2/3に減らす文京区立小・中学校将来ビジョン(素案)が発表された。2校を統合し、空いた土地に大規模校の第二校舎を建設する「工事計画優先」で、そこに統廃合をあてはめるドミノ倒しのような乱暴なプランだった。徒歩10分くらいかかる場所に第二校舎をつくったとき職員会議はどこでやるのか、1人しかいない養護や図工の教員はどこにいればよいのか、現場を知らない無謀な案だった。PTAはホームページを立ち上げたり署名運動をして反対した、また教育センターと新大塚公園をつぶして5中・7中統合後の新校舎を建てるという計画もあった。当然地域住民から反対の声が起き、町会も反対に回った。PTAや町会の反対は2007年4月の文京区長選の争点にもなり、07年9月区教委はこのビジョンをいったん凍結にした。反対運動が成功した背景には、学童保育などを通した地域のつながりがあったことが挙げられる。
小規模校、少人数クラスのよさもある。たとえば30人未満のクラスなら、九九でも一人ずつ見てあげられるし、ひらがなの学習は1時間で2回見ることができる。
また統廃合で、小学校と中学では事情が違う。中学は、部活動が限られるとか敷地の広さの問題もある。
●質疑応答より
Q わたしは新校の保護者だが、同じように受入れ側だった9小の保護者の対応はどうだったのか
A そこが問題だった。まるで他人事だった。滝山小の保護者は、「傷ついている」ことをなんら考えてもらっていないことに気づき、もう一度傷つく状態だった。わたしたちは当時「温度差」と呼んでいた。
滝山小の保護者のなかには「9小はきらいだ。なくなってはじめて小規模校のよさがわかった」という声もあった。
Q 教員の増員や「心の相談員」を付ければ大丈夫という説明もあるが。
A たくさん付いたが意味がなく用を足さなかった。心のケアのため、9小では教師は2学年に1人ずつ計3人増え、巡回のカウンセラーが1人付いた。しかし保護者はベテラン教師を希望したのに着任したのは若手の教員だった。また養護教員を要求したが看護師が増えただけで、しかも1年にたった10日というものだった。
必死に要求したのでやっとこの増員が実現したが、子どもの心のケアという点では「人数」の問題ではないことを実感した。
Q 光が丘のように地域のインフラのない団地ではどんな運動が有効だろうか。
A いまの学校をよいと思うなら、それを言い続けるのがよい。東久留米4小は公務員住宅や団地が多く転勤者の多い学校で、お母さん方がクラブ活動のように楽しんで反対運動をしていた。「この学校はいい」と言い続け、統廃合凍結に成功した。
●山本由美さん(浦和大学短期大学部)
学校統廃合では、前任校の教師が新校についていかないと意味がない。ついていかないと子どもは孤立無援の状況になる。滝山でも、心身障害学級では生徒とともに担任がついていった。教員同士が一生けんめいすり合わせをしたので問題は起こらなかった。普通学級では子どもたちに心的外傷状態が残った。
統廃合を阻止したケースを調べると2つの条件がある。ひとつは地域、教員、保護者が一体となり反対することだ。もうひとつは行政への働きかけと新入生の確保である。新入生が2年続けてゼロになると自動的に廃校になる。文京の例にみられるように、行政は新入生をゼロにするため電話で説得するなど、姑息な手段を使い「兵糧攻め」にすることもある。
子どもに「統合すると新しい学校の校舎はきれいだよ」「新しい友達ができていいね」などときれいごとだけ言っていると子どもは混乱し、本当のことを言えなくなってしまう。滝山の場合、反対した学年のクラスの子どもだけ混乱を乗り越えることができた。
80年代に統廃合を進めた台東、荒川、北区では統廃合すると10年は学校が荒れることを覚悟して実施した。統合はすべてをリセットし、対等な立場で一から新しい学校づくりをするようにしたほうがよい。また子どもたちにダメージを与えないようにすることに徹底すべきである。
地元から参加した光が丘1小、3小、4小、5小などの保護者から「今日の話を聞き、子どもの心の傷つきが心配だ。しかし具体的にどうすればよいのかわからない」「説明会や教育委員会の傍聴に行っても、学校が混乱したという話は出ない」「先生に迷惑をかけそうで、統廃合の話は言い出しにくい雰囲気がある」といった感想が語られた。
最後に主催者から「あまりにも性急な進め方だ。練馬ではじめての統廃合なので、どう対応してよいかわからない。はじめに計画ありきになっているが、話を適正規模からスタートするのはおかしい。子どもの存在をカヤの外にしている。区教委は校舎を器としか考えていないようだ。区教委は「親が不安に思うと子どもも不安になる」と平気で言う。これからスタートというつもりでこの問題にしっかり取り組みたい」と締めくくりの言葉があった。
☆練馬区教委へは5本意見書が上がっているそうだ。1月30日からこれに対する審議が始まる。傍聴席は18席用意されている。
練馬区では区立学校適正配置計画の第一弾として、2010年4月に光が丘の小学校8校を4校に統合することにした。しかしこの案は昨年9月に公表され、10月に住民向け説明会、11月に保護者との意見交換会、12月に決定に持ち込もうという性急なものだった。さすがに12月決定は無理で時期は少しずれ込んでいる。
主催者から「統廃合の当事者は生徒、保護者、教員のはずであり、当事者の声をきちんと聞くプロセスがあるべきだ。進め方が間違っている。このままでは統合される学校の新入生が減る可能性があるが、区は何も対応していない」との話のあと、統廃合を行った東久留米市と凍結になった文京区の事例、そして研究者のアドバイスを聞いた。
●東久留米市の小学校の保護者
東久留米市では4年前に滝山小、7小、9小の3校を2校に統廃合した。廃校のウワサが先行した滝山小は入学希望者が1ケタに激減し、気がつくと滝山小の保護者から統廃合の要望が出ていた。2002年「地域内再編成で3校による対等合併」という市の計画が公表された。わたくしは9小の保護者として2年間統合準備会に参加した。保護者、地域住民、卒業生なら誰でも自由に参加できるが、教員は入っていない(校長・教頭・主任の管理職はオブザーバー参加したが、教育公務員なので意見は言えない)、司会は教育委員会の職員だった。決定は全会一致なので新校名も、何も決まらず、教育委員会に決定を投げる結果となった。準備期間はずいぶん長いようにみえるが、登下校の道順や安全面の配慮など、後から考えると的外れなことばかり話し合っていた。準備会はあったが「準備」はなかった。
校名変更にお金を使うより補助教員やカウンセラーなど生徒の心のケアに予算を使おうということで、背に腹はかえられず7小、9小の校名は涙を飲んで変えないことにした。あのとき新しい校名になっていれば、少なくとも大人の意識は「新しい学校になった」と変わっていたかもしれない。
さて2004年4月、統廃合が実施され学校はどうなっただろうか。建前は対等合併だったが、9小の校名は変わらず、9小の学校のルールがすべて生かされたので実態は「吸収合併」だった。廃校になった滝山の生徒は7小、9小に分かれて通学したが、大規模な転校生のようなものだった。滝山小から9小に来た子どもは混乱した。たとえば校門が開く時間も違っていた。子どもの心は揺れに揺れた。しかし9小の先生は、教育内容、教育方法、長年培った「伝統」のすり合わせも引き継ぎもないので、滝山でどうやっていたかわからず、子どもの心の揺れを把握できなかった。また統廃合反対の先生はすべて外部に転出させられ、9小には滝山の教頭と教務主任の2人が配属されただけだった(7小には普通の教員が配属された)。
それでも2~3年の低学年は9小に溶け込んでいったが、高学年の生徒ほど学校や教師への信頼心を削がれていった。そして学級崩壊が発生した。
校長は学級崩壊は統廃合のせいではなく、子どもの資質や教師の力量不足のせいだと言い放った。責めは「あの子」「この子」「あの先生」へと向かった。保護者は「あなたの家庭での教育が悪いからこうなった」と後ろ指を指されるのを恐れ、何もいえる雰囲気ではなくなった。しかし統廃合の前と家庭環境は何も変わっていない家庭も多い。また担任は「ごめんなさい。わたしが悪い」とあやまるばかりだった。中学に進学した4年後のいまになっても心の傷が残り、不登校の生徒もいる。しかし市議会はいまも「統廃合は大成功」と公言する。
当初、市教委は統廃合を成功させるためには「何でもします」と言っていた。わたしたちもその言葉を信じた。たしかにトイレやプールなど施設には億単位のお金をかけ、よくなった。しかし廃校条例が通ったとたん姿勢はガラリと変わった。市教委の言葉は幻想だったことがわかった。
こうならないためには、統廃合の準備に教員も保護者も入れて、その声を吸い上げ、十分にすり合わせをする必要があることを痛感した。
●文京区の小学校教員
文京区はもともと24学級の過大な小学校がある一方、単学級の学校が5校以上ある極端な区だった。そこに2003年中学の学校選択が導入され2005年には文京7中の入学者がゼロになった。04年11月の希望調査の時点では24人、05年2月の入学説明会では希望が4人あったのに区教委が電話で説得しゼロにした結果だった。98年に真砂小と元町小が統合し本郷小学校になったときにも区教委は同じ手法をとり、入学希望者が3~4人いても説得してゼロにした。
2006年6月、小学校20校を13校、中学校11校を8校と校数を2/3に減らす文京区立小・中学校将来ビジョン(素案)が発表された。2校を統合し、空いた土地に大規模校の第二校舎を建設する「工事計画優先」で、そこに統廃合をあてはめるドミノ倒しのような乱暴なプランだった。徒歩10分くらいかかる場所に第二校舎をつくったとき職員会議はどこでやるのか、1人しかいない養護や図工の教員はどこにいればよいのか、現場を知らない無謀な案だった。PTAはホームページを立ち上げたり署名運動をして反対した、また教育センターと新大塚公園をつぶして5中・7中統合後の新校舎を建てるという計画もあった。当然地域住民から反対の声が起き、町会も反対に回った。PTAや町会の反対は2007年4月の文京区長選の争点にもなり、07年9月区教委はこのビジョンをいったん凍結にした。反対運動が成功した背景には、学童保育などを通した地域のつながりがあったことが挙げられる。
小規模校、少人数クラスのよさもある。たとえば30人未満のクラスなら、九九でも一人ずつ見てあげられるし、ひらがなの学習は1時間で2回見ることができる。
また統廃合で、小学校と中学では事情が違う。中学は、部活動が限られるとか敷地の広さの問題もある。
●質疑応答より
Q わたしは新校の保護者だが、同じように受入れ側だった9小の保護者の対応はどうだったのか
A そこが問題だった。まるで他人事だった。滝山小の保護者は、「傷ついている」ことをなんら考えてもらっていないことに気づき、もう一度傷つく状態だった。わたしたちは当時「温度差」と呼んでいた。
滝山小の保護者のなかには「9小はきらいだ。なくなってはじめて小規模校のよさがわかった」という声もあった。
Q 教員の増員や「心の相談員」を付ければ大丈夫という説明もあるが。
A たくさん付いたが意味がなく用を足さなかった。心のケアのため、9小では教師は2学年に1人ずつ計3人増え、巡回のカウンセラーが1人付いた。しかし保護者はベテラン教師を希望したのに着任したのは若手の教員だった。また養護教員を要求したが看護師が増えただけで、しかも1年にたった10日というものだった。
必死に要求したのでやっとこの増員が実現したが、子どもの心のケアという点では「人数」の問題ではないことを実感した。
Q 光が丘のように地域のインフラのない団地ではどんな運動が有効だろうか。
A いまの学校をよいと思うなら、それを言い続けるのがよい。東久留米4小は公務員住宅や団地が多く転勤者の多い学校で、お母さん方がクラブ活動のように楽しんで反対運動をしていた。「この学校はいい」と言い続け、統廃合凍結に成功した。
●山本由美さん(浦和大学短期大学部)
学校統廃合では、前任校の教師が新校についていかないと意味がない。ついていかないと子どもは孤立無援の状況になる。滝山でも、心身障害学級では生徒とともに担任がついていった。教員同士が一生けんめいすり合わせをしたので問題は起こらなかった。普通学級では子どもたちに心的外傷状態が残った。
統廃合を阻止したケースを調べると2つの条件がある。ひとつは地域、教員、保護者が一体となり反対することだ。もうひとつは行政への働きかけと新入生の確保である。新入生が2年続けてゼロになると自動的に廃校になる。文京の例にみられるように、行政は新入生をゼロにするため電話で説得するなど、姑息な手段を使い「兵糧攻め」にすることもある。
子どもに「統合すると新しい学校の校舎はきれいだよ」「新しい友達ができていいね」などときれいごとだけ言っていると子どもは混乱し、本当のことを言えなくなってしまう。滝山の場合、反対した学年のクラスの子どもだけ混乱を乗り越えることができた。
80年代に統廃合を進めた台東、荒川、北区では統廃合すると10年は学校が荒れることを覚悟して実施した。統合はすべてをリセットし、対等な立場で一から新しい学校づくりをするようにしたほうがよい。また子どもたちにダメージを与えないようにすることに徹底すべきである。
地元から参加した光が丘1小、3小、4小、5小などの保護者から「今日の話を聞き、子どもの心の傷つきが心配だ。しかし具体的にどうすればよいのかわからない」「説明会や教育委員会の傍聴に行っても、学校が混乱したという話は出ない」「先生に迷惑をかけそうで、統廃合の話は言い出しにくい雰囲気がある」といった感想が語られた。
最後に主催者から「あまりにも性急な進め方だ。練馬ではじめての統廃合なので、どう対応してよいかわからない。はじめに計画ありきになっているが、話を適正規模からスタートするのはおかしい。子どもの存在をカヤの外にしている。区教委は校舎を器としか考えていないようだ。区教委は「親が不安に思うと子どもも不安になる」と平気で言う。これからスタートというつもりでこの問題にしっかり取り組みたい」と締めくくりの言葉があった。
☆練馬区教委へは5本意見書が上がっているそうだ。1月30日からこれに対する審議が始まる。傍聴席は18席用意されている。