多田謡子反権力人権賞の32回受賞発表会が今年も連合会館で行われた。今年の受賞は、沖縄北部訓練場での軍事廃棄物撤去闘争を闘う蝶類研究者・宮城秋乃さん、再審で無罪を勝ち取った冤罪被害者・青木惠子さん、天皇制と闘い、障害児・者の人権のため95歳のいまも闘い続ける北村小夜さんの3人だった。それぞれ稀有な体験に基づくお話しだったので深みがあり充実した内容だった。
コロナ禍、それも感染者数がどんどん増えるなかでの受賞発表会だったので、換気のため窓が何枚か開放され、寒さでダウンやコートを着込んで聞く人が多数の集会だった。
宮城秋乃さん(沖縄北部訓練場での軍事廃棄物撤去闘争)
宮城さんは沖縄在住の蝶類研究者だが、コロナ禍ということもありビデオ・メッセージでの報告となった。やんばるの森にはリュウキュウヒメジャノメ、リュウキュウウラボシシジミなど希少な蝶が多く棲息し現地で観察している。動画にも深い森にいる蝶々の姿が映し出された。
2016年12月22日、米軍北部訓練場の半分以上4010ヘクタールが返還された。そして沖縄防衛局が跡地の支障除去を行った。しかし除去したのは、米軍車両が通行した道路、ヘリパッド跡と周囲、ヘリ墜落地点と範囲を限定し、期間も1年未満だった。アメリカでは除去に10年以上かけるそうだ。17年12月25日に除去を完了し地権者に土地を引き渡した。といっても8割は沖縄森林管理署、つまり林野庁なので、市民の監視は難しい森の奥だ。
その2日後の12月27日に跡地で未使用の訓練用砲弾2発、1日後に地上でさらに1発を確認し、米軍も戦後の訓練で使用したと認めた。沢の斜面でバッテリーが見つかり、付近の土砂を分析すると現在使用禁止になっているDDTやBHCが検出された。殺虫剤に使用したのならこれほど高い数値は出ないので、不要になった薬剤をこの場所に廃棄したと推測され、生物への影響が懸念される。埋もれていたドラム缶があった場所の土を分析するとPCBが検出された。防衛局が除去したのは地上のみで、地下に埋もれているものも発見された。この場所には、清流の流れる自然度の高い場所に生息する絶滅危惧種のリュウキュウウラボシシジミが発生している。
LZ1ヘリパッド跡地では、不発の空砲、煙幕手りゅう弾、弾薬箱、大量の野戦食とスプーン、液体の入った点滴の袋、ブーツ、土嚢、ケミカルライト、乾電池などがみつかった。野戦食は地中で劣化していて完全に取り除くのはムリだったので、環境への影響が心配だ。
FBJヘリパッド跡地や現・北部訓練場などほかの場所も同じようなものだ。炭焼き窯の跡や神聖な場所である御嶽(うたき)の近くでも訓練を行った形跡があった。近くの生きた樹木に日付とみられる数字が彫られ、地面にタコ壺が掘られていた。
また離着陸面は凹凸が激しく疲弊していた。北部訓練場返還は、沖縄の負担軽減ではなく、土地の疲弊で使えなくなったため新しいヘリパッドがほしかったことが、現場をみればわかる。高江のヘリパッドが疲弊すれば、また新たな場所を求めるのだろうか。
また鉄板が残っていて支障除去が完了していないことを防衛局は認識しながら完了と発表したことも、あとで判明した。世界遺産申請を急ぐためだったと思われる。鉄板除去は当初2020年3月までとされたが、半年延長し費用も8000万円増額したが12月13日現在まだ完了できず、引き続き市民の監視が必要だ。
環境省は支障が除去されていないことを知りながら2018年6月返還地の約9割をやんばる国立公園に編入した。廃棄物や土地汚染を解決せず公園化することは国立公園の目的と矛盾する。観光客が危険物に触れ負傷する可能性もある。編入を急いだのは、やんばるの世界自然遺産登録を意識したと思われる。もしこの状態で登録が認められれば、米軍施設があったおかげで自然が守られたとの言説がより世間に浸透すると思われる。軍事施設の廃棄と自然保護は両立しないという事実が隠される。
訓練場でも訓練場跡地でもない場所のタナガーグムイで、2017年米兵が遊泳中に死亡したため米軍に立ち入らないよう求めた。過去に何度も事故があったので、もともと一般人は立入禁止になっていた場所だ。しかしその後も米軍の若者や家族を姿をみかける。市民の目が行き届きにくい場所では、ゴミが廃棄される。
今後も訓練場が提供されている限り、廃棄物が廃棄され、返還後も現地の人や生物に大きな問題を残していく。日米地位協定により、米軍は原状回復を免除されているので、米軍の廃棄物は日本の税金で処理される。過去何度も米軍の廃棄物や土壌水質汚染が報道されるが、米兵は市民が見える場所でこまめに清掃活動を行うので、市民は「よき隣人」として汚染の現状を見逃すことが多い。
2020年10月25日FBJヘリパッド跡地で小さな部品を発見した。文字を読み解き通信機器の電子管でコバルト60が封入されていることがわかった。電子管に接していた紙や布からはPCBが検出された。
青木惠子さん(冤罪との闘い、冤罪被害者支援の闘い)
阪神淡路大震災があった95年夏、大阪・東住吉の自宅が火事になり娘を亡くした。悲しく自責の念にかられていたところ、9月10日保険金目当てで放火し娘を殺したという容疑で逮捕された。厳しい取り調べで「やっていない」といっても信じてもらえず言葉の暴力で追い込まれ、2回自白した。
1度目は当日午後だった。午前はなんとか頑張ったが、刑事に、息子が「内縁の夫が火をつけるのを見た」とといわれ、刑事の言葉にうなずいた。亡くなった娘に申し訳なく、死にたいと思ったからだ。刑事のいうままに自白書を書かされた。弁護士に「やっていないなら認めるのはよくない」といわれ「やっていない」とひっくり返した。
2度目は9月14日夜、急にやさしくなった刑事に「やっていないのなら、なぜ助けなかった」といわれ、助けられなかったならわたしが殺したことになる、死んで娘のところに行きたいと思い自白した。わけがわからぬまま起訴され裁判になった。
「やっていない」のだから裁判所にはわかってもらえると思ったが一審は無期懲役、なぜ無実の人間を、これが日本の裁判所かと絶望した。そのころ面会に来てくれたのが布川事件の桜井昌司さんだった。「自分は29年獄中にいた。次は青木さんが面会をすればいい」といわれ希望をもらったことがずっと忘れられない。
控訴審では、事件の再現実験をしてほしいといったが棄却、最高裁も棄却、12年裁判をして和歌山刑務所に収監された。なぜ無実の人間が刑務所に行くのかと悔しい思いをした。その後、再審請求をし、弁護団が現場の煙突、当時の車を使い再現実験したところ、自白どおりにはならないことが証明された。大阪地裁で再審開始ということになったが「外にはいっさい漏らさない」という厳しい条件付きだった。あと10分で釈放というときに、大阪高裁が執行停止取消しを決定した。天国から地獄に落とされた。弁護士にあと何年、と聞くと1年半くらいと言われたが、3年半かかった。
2015年10月26日刑が執行停止され釈放された。20年ぶりなので外の世界がわからない。社会も変わっていて「携帯」も知らず「アホな人」になったことが精神的につらかった。何度も刑務所に戻りたいと言い、支援者にそんなこと言わずにといわれた。新しい世界で一から覚えていく大変さを味わった。事件当時8歳だった息子は34歳で家庭をもっていた。息子とはうまくつきあえていないが、息子は自分の生活もあるので、それはそれでよいと思っている。高齢になった両親の介護をし見送れたことはよかった。
警察・検察はなぜわたしを逮捕・起訴したのか、なぜあやまらないのかという怒りで国賠訴訟を起こした。またガソリンが漏れる車をつくったホンダに、今後娘のように死ぬ人が出てはいけない、一言あやまってほしいと損害賠償請求訴訟を起こした。ホンダのほうは20年の除斥期間を経過しているということで敗訴しこれから最高裁だ。国賠訴訟は、警察が保管する証拠の開示を求めたがなかなか開示せず、裁判官が交替しやっと一部が開示された。
証人尋問に進み、念願だったわたしの取調べ刑事への尋問が2月12日に行われる。
再審で自白証拠は排除され、真っ白な無罪になった。そして再審で取調べ日誌が開示された。わたしに大声を上げたり、体調が悪く老人のようにヨタヨタ歩いていたと書かれていた。つらい立場なのに、娘の写真を壁に貼り、「娘に悪いと思わないのか」と頭を押さえつけられ見させられた。つらくなり弱気になるとまた自白させられると、意地でも写真を見ないようにした。
それなのに(陳述書に)「罪を認めないといけないと説得するため、少しは大声を出した」などと書いている。同じ人間なのになぜあやまらないのか、どうしていまも平気でウソををいえるのか、証人尋問でわたしも尋問するが、机をたたいてやろうかと思う。
証人尋問のあと、わたしの本人尋問、結審、判決に進む。絶対に勝つ、負けるわけにいかないと思っている。
冤罪は本人だけでなく家族もみなつらい思いをする。一度冤罪になると取り返しがつかないということを、命ある限り伝えていきたい。
獄中のつらさは体験者でないとわからないので、桜井さんがわたしにしてくれたように、獄中の人に希望をもってもらえるよう、いまは全国の受刑者に手紙を書き、面会する生活を送っている。また「冤罪犠牲者の会」の共同代表を務めている。
北村小夜さん(天皇制・戦争との闘い、障害児・者の人権のための闘い)
わたしは、治安維持法が制定された1925年生まれで95歳だ。軍国少女に生まれ日の丸君が代が大好きだった。実感として、進んで戦争をしたと思っている。
戦争が終わり、天皇と付き合った5年はないことにして出直そうと勉強し直して1950年に教師になった。そのときは学習指導要領は試案で、指導要領空白時代だった。試案の序論に、これまでは上からの教育だったが、これからは子どもと教師で下からつくる方向の教育と書かれていた。何もないので工夫するしかない。工夫すると、親も先生も生徒も喜ぶ時代だった。その時代の教育状況を取り戻したいと思うし、教師としての元手になった気がする。
5年の担任になり、いままでなかった社会科の授業をすることになった。できたばかりの憲法に、第1条「天皇は日本国の象徴」とある。これは何か、と生徒と一所懸命何日も考えた。出した結論は「あってもなくてもよいもの」だった。
子どもといっしょに教師をすることはいいものだと思った。それが変わったのは58年の指導要領告示だった。道徳が特設され国旗国歌が教室に入るようになり、子どもの学力を向上させると言い始めた。実施され始めると「できない子」が生まれ「落ちこぼれ」という言葉ができた。わたしの教師としての資質が問われていると迷った。
特殊教育が始まり、61年東京学芸大学に特殊学級の教員養成課程が設置された。ちょうど第一次ベビーブームが一段落ついた時期で教員にすこし余裕ができ、都が受講生を募集したので1年学芸大学に通った。自分の力が足りないのではないか、特別な何かがあるのではないかと考えたからだ。後になって考えると、教わったのは子どもの分け方だった。
中学の特殊学級に赴任し、新任式に花柄のスーツを着ていった。なかなか担任の引き受けてがいないので歓迎された。学芸大学で「子どもに接するとき子どもに戸惑わせないよう、いつも同じ服をきていることが大事だ」と教えられたので、グレーの上っぱりに着替え教室に行った。前で待ち構えていた子に「いい洋服を着てきたのにどうしてここまで着てこないの、ぼくが汚すと思ったの?」といわれあわてて着替えに戻った。教室に入ると別の子に「先生も落第してきたの?」と言われた。当時は学力テストが行われ、自治体同士、学校同士、教師同士の争いが生まれた。点数の取れない子は排除され、学力テストの規定にも「特殊学級在籍児は精神薄弱とみなし、テストから排除する」とあり、その分学校の成績が上がった。その子は「先生なら大丈夫だよ、もう1回試験を受けて普通に戻りな」といった。いったん特殊学級に来た子はなかなか普通学級に戻れない。そこで「望まない子は特殊学級に入れない」と決心した。
「わが国の特殊教育」(1961.3)という文部省の広報資料があり、特殊教育の使命として、50人の普通学級の学級経営を完全にこなすため「学級内で大多数を占める心身に異常のない児童・生徒の教育そのものが、大きな障害を受けずにはいられません」「例外的な心身の故障者は除いて、これらとは別に、それぞれの故障に応じた適切な教育を行なう場所を用意する必要があるのです」「それだけ、小学校や中学校の、普通学級における教師の指導が容易になり、教育の効果があがるようになるのです」と記載されている。
そんなに分けられるのがいやなら、分けられる時間を減らそうと、たとえば体育や音楽が得意な子はその2時間だけでも普通学級で学ぶようにしようとした。しかし普通教室の教師がいやがった。
また文化祭は、何をやっても笑われることが多いのでただ見ているだけとか、別の文化祭をやることが多かった。それで職員会議で「皆でやる」と提案し、生徒会にも説明し段取りを付けた。ところが生徒に「いっしょがいいなら、なぜ分けた」と言われた。わたしには決定的な言葉だった。以後「ともに」や「交流」という言葉をなるだけ使わないようにした。別々だから「ともに」という必要がある。隔離・分離があるから「交流」がある。分けないことが大事だと思う
。子どもは子どものなかで育つ。みんなのなかでやるほうがうまくいくこともある。支援学校でできても、ほかではうまくいかないことが往々にしてある。分ければ障がい者は少人数集団になり、分けられた者は世話と管理の対象になり、命を失う子もいる。
分けられた子どもの悲哀だけでなく、分けた側の不幸もある。障がい児とともに育たないと、本人の責任ではないが障害児を排除する側にいるわけだ。そのまま育つと排除するおとなになる。障がい児差別の問題はそこにある。ともに育ってこなかった悲劇だ。
以前、福祉の専門学校の手伝いをしたことがある。老人施設の見学に連れて行くと「はじめて会って感動しました」と感想を書いた。翌週、知的障がいの人の作業所に連れて行くとまた同じことをいう。情けない話だ。とにかく分けないでいっしょに行くことを考えないといけない。
年をとりいままでやってきた仕事や肩書はお返ししたが「障害児を普通学校へ・全国連絡会」世話人だけは、まだ当分かかりそうなので続けている。
北村さん、青木さんを囲む支援者の皆さんと運営委員の辻さん
宮城さんの動画をみていて、どこかでお見かけしたと思ったら、2019年3月の「警視庁機動隊の沖縄への派遣は違法」住民訴訟で証人尋問をしてくださった方だった。このときは傍聴券の抽選に当たって証言を聞くことができた。今回の講演で、やんばるの貴重な自然と、米軍基地返還後も環境汚染が続く現状がわかった。青木さんのことはまったく知らなかったが、冤罪被害はどのように生まれるか、また釈放されても社会に適応するのがどんなに大変かということが具体的にわかった。この日も過去のつらさ、悔しさを思い出されたのか、何度も涙ぐみながら話された。そのなかで受刑者を支援する活動を続け、国や企業と闘い続ける姿勢には敬意を払わざるをえない。
北村さんは10年以上前だが、一度「戦争は教室から始まる」という講演を聞いた。国民の「逆らわない心と丈夫な体」が戦争には必要だというお話だった(こちらを参照)。今回は障がい児教育や人権をまもるテーマのお話で、インクルーシブ教育の理念と意義がわかってよかった。
どの講演も、ほかではなかなか聞けない稀有な話で、内容が濃く充実していた。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
★2020年の目次を「過去記事タイトル一覧」の「総目次を作成」に追加しました。 ご参照ください(2020.1.1)
コロナ禍、それも感染者数がどんどん増えるなかでの受賞発表会だったので、換気のため窓が何枚か開放され、寒さでダウンやコートを着込んで聞く人が多数の集会だった。
宮城秋乃さん(沖縄北部訓練場での軍事廃棄物撤去闘争)
宮城さんは沖縄在住の蝶類研究者だが、コロナ禍ということもありビデオ・メッセージでの報告となった。やんばるの森にはリュウキュウヒメジャノメ、リュウキュウウラボシシジミなど希少な蝶が多く棲息し現地で観察している。動画にも深い森にいる蝶々の姿が映し出された。
2016年12月22日、米軍北部訓練場の半分以上4010ヘクタールが返還された。そして沖縄防衛局が跡地の支障除去を行った。しかし除去したのは、米軍車両が通行した道路、ヘリパッド跡と周囲、ヘリ墜落地点と範囲を限定し、期間も1年未満だった。アメリカでは除去に10年以上かけるそうだ。17年12月25日に除去を完了し地権者に土地を引き渡した。といっても8割は沖縄森林管理署、つまり林野庁なので、市民の監視は難しい森の奥だ。
その2日後の12月27日に跡地で未使用の訓練用砲弾2発、1日後に地上でさらに1発を確認し、米軍も戦後の訓練で使用したと認めた。沢の斜面でバッテリーが見つかり、付近の土砂を分析すると現在使用禁止になっているDDTやBHCが検出された。殺虫剤に使用したのならこれほど高い数値は出ないので、不要になった薬剤をこの場所に廃棄したと推測され、生物への影響が懸念される。埋もれていたドラム缶があった場所の土を分析するとPCBが検出された。防衛局が除去したのは地上のみで、地下に埋もれているものも発見された。この場所には、清流の流れる自然度の高い場所に生息する絶滅危惧種のリュウキュウウラボシシジミが発生している。
LZ1ヘリパッド跡地では、不発の空砲、煙幕手りゅう弾、弾薬箱、大量の野戦食とスプーン、液体の入った点滴の袋、ブーツ、土嚢、ケミカルライト、乾電池などがみつかった。野戦食は地中で劣化していて完全に取り除くのはムリだったので、環境への影響が心配だ。
FBJヘリパッド跡地や現・北部訓練場などほかの場所も同じようなものだ。炭焼き窯の跡や神聖な場所である御嶽(うたき)の近くでも訓練を行った形跡があった。近くの生きた樹木に日付とみられる数字が彫られ、地面にタコ壺が掘られていた。
また離着陸面は凹凸が激しく疲弊していた。北部訓練場返還は、沖縄の負担軽減ではなく、土地の疲弊で使えなくなったため新しいヘリパッドがほしかったことが、現場をみればわかる。高江のヘリパッドが疲弊すれば、また新たな場所を求めるのだろうか。
また鉄板が残っていて支障除去が完了していないことを防衛局は認識しながら完了と発表したことも、あとで判明した。世界遺産申請を急ぐためだったと思われる。鉄板除去は当初2020年3月までとされたが、半年延長し費用も8000万円増額したが12月13日現在まだ完了できず、引き続き市民の監視が必要だ。
環境省は支障が除去されていないことを知りながら2018年6月返還地の約9割をやんばる国立公園に編入した。廃棄物や土地汚染を解決せず公園化することは国立公園の目的と矛盾する。観光客が危険物に触れ負傷する可能性もある。編入を急いだのは、やんばるの世界自然遺産登録を意識したと思われる。もしこの状態で登録が認められれば、米軍施設があったおかげで自然が守られたとの言説がより世間に浸透すると思われる。軍事施設の廃棄と自然保護は両立しないという事実が隠される。
訓練場でも訓練場跡地でもない場所のタナガーグムイで、2017年米兵が遊泳中に死亡したため米軍に立ち入らないよう求めた。過去に何度も事故があったので、もともと一般人は立入禁止になっていた場所だ。しかしその後も米軍の若者や家族を姿をみかける。市民の目が行き届きにくい場所では、ゴミが廃棄される。
今後も訓練場が提供されている限り、廃棄物が廃棄され、返還後も現地の人や生物に大きな問題を残していく。日米地位協定により、米軍は原状回復を免除されているので、米軍の廃棄物は日本の税金で処理される。過去何度も米軍の廃棄物や土壌水質汚染が報道されるが、米兵は市民が見える場所でこまめに清掃活動を行うので、市民は「よき隣人」として汚染の現状を見逃すことが多い。
2020年10月25日FBJヘリパッド跡地で小さな部品を発見した。文字を読み解き通信機器の電子管でコバルト60が封入されていることがわかった。電子管に接していた紙や布からはPCBが検出された。
青木惠子さん(冤罪との闘い、冤罪被害者支援の闘い)
阪神淡路大震災があった95年夏、大阪・東住吉の自宅が火事になり娘を亡くした。悲しく自責の念にかられていたところ、9月10日保険金目当てで放火し娘を殺したという容疑で逮捕された。厳しい取り調べで「やっていない」といっても信じてもらえず言葉の暴力で追い込まれ、2回自白した。
1度目は当日午後だった。午前はなんとか頑張ったが、刑事に、息子が「内縁の夫が火をつけるのを見た」とといわれ、刑事の言葉にうなずいた。亡くなった娘に申し訳なく、死にたいと思ったからだ。刑事のいうままに自白書を書かされた。弁護士に「やっていないなら認めるのはよくない」といわれ「やっていない」とひっくり返した。
2度目は9月14日夜、急にやさしくなった刑事に「やっていないのなら、なぜ助けなかった」といわれ、助けられなかったならわたしが殺したことになる、死んで娘のところに行きたいと思い自白した。わけがわからぬまま起訴され裁判になった。
「やっていない」のだから裁判所にはわかってもらえると思ったが一審は無期懲役、なぜ無実の人間を、これが日本の裁判所かと絶望した。そのころ面会に来てくれたのが布川事件の桜井昌司さんだった。「自分は29年獄中にいた。次は青木さんが面会をすればいい」といわれ希望をもらったことがずっと忘れられない。
控訴審では、事件の再現実験をしてほしいといったが棄却、最高裁も棄却、12年裁判をして和歌山刑務所に収監された。なぜ無実の人間が刑務所に行くのかと悔しい思いをした。その後、再審請求をし、弁護団が現場の煙突、当時の車を使い再現実験したところ、自白どおりにはならないことが証明された。大阪地裁で再審開始ということになったが「外にはいっさい漏らさない」という厳しい条件付きだった。あと10分で釈放というときに、大阪高裁が執行停止取消しを決定した。天国から地獄に落とされた。弁護士にあと何年、と聞くと1年半くらいと言われたが、3年半かかった。
2015年10月26日刑が執行停止され釈放された。20年ぶりなので外の世界がわからない。社会も変わっていて「携帯」も知らず「アホな人」になったことが精神的につらかった。何度も刑務所に戻りたいと言い、支援者にそんなこと言わずにといわれた。新しい世界で一から覚えていく大変さを味わった。事件当時8歳だった息子は34歳で家庭をもっていた。息子とはうまくつきあえていないが、息子は自分の生活もあるので、それはそれでよいと思っている。高齢になった両親の介護をし見送れたことはよかった。
警察・検察はなぜわたしを逮捕・起訴したのか、なぜあやまらないのかという怒りで国賠訴訟を起こした。またガソリンが漏れる車をつくったホンダに、今後娘のように死ぬ人が出てはいけない、一言あやまってほしいと損害賠償請求訴訟を起こした。ホンダのほうは20年の除斥期間を経過しているということで敗訴しこれから最高裁だ。国賠訴訟は、警察が保管する証拠の開示を求めたがなかなか開示せず、裁判官が交替しやっと一部が開示された。
証人尋問に進み、念願だったわたしの取調べ刑事への尋問が2月12日に行われる。
再審で自白証拠は排除され、真っ白な無罪になった。そして再審で取調べ日誌が開示された。わたしに大声を上げたり、体調が悪く老人のようにヨタヨタ歩いていたと書かれていた。つらい立場なのに、娘の写真を壁に貼り、「娘に悪いと思わないのか」と頭を押さえつけられ見させられた。つらくなり弱気になるとまた自白させられると、意地でも写真を見ないようにした。
それなのに(陳述書に)「罪を認めないといけないと説得するため、少しは大声を出した」などと書いている。同じ人間なのになぜあやまらないのか、どうしていまも平気でウソををいえるのか、証人尋問でわたしも尋問するが、机をたたいてやろうかと思う。
証人尋問のあと、わたしの本人尋問、結審、判決に進む。絶対に勝つ、負けるわけにいかないと思っている。
冤罪は本人だけでなく家族もみなつらい思いをする。一度冤罪になると取り返しがつかないということを、命ある限り伝えていきたい。
獄中のつらさは体験者でないとわからないので、桜井さんがわたしにしてくれたように、獄中の人に希望をもってもらえるよう、いまは全国の受刑者に手紙を書き、面会する生活を送っている。また「冤罪犠牲者の会」の共同代表を務めている。
北村小夜さん(天皇制・戦争との闘い、障害児・者の人権のための闘い)
わたしは、治安維持法が制定された1925年生まれで95歳だ。軍国少女に生まれ日の丸君が代が大好きだった。実感として、進んで戦争をしたと思っている。
戦争が終わり、天皇と付き合った5年はないことにして出直そうと勉強し直して1950年に教師になった。そのときは学習指導要領は試案で、指導要領空白時代だった。試案の序論に、これまでは上からの教育だったが、これからは子どもと教師で下からつくる方向の教育と書かれていた。何もないので工夫するしかない。工夫すると、親も先生も生徒も喜ぶ時代だった。その時代の教育状況を取り戻したいと思うし、教師としての元手になった気がする。
5年の担任になり、いままでなかった社会科の授業をすることになった。できたばかりの憲法に、第1条「天皇は日本国の象徴」とある。これは何か、と生徒と一所懸命何日も考えた。出した結論は「あってもなくてもよいもの」だった。
子どもといっしょに教師をすることはいいものだと思った。それが変わったのは58年の指導要領告示だった。道徳が特設され国旗国歌が教室に入るようになり、子どもの学力を向上させると言い始めた。実施され始めると「できない子」が生まれ「落ちこぼれ」という言葉ができた。わたしの教師としての資質が問われていると迷った。
特殊教育が始まり、61年東京学芸大学に特殊学級の教員養成課程が設置された。ちょうど第一次ベビーブームが一段落ついた時期で教員にすこし余裕ができ、都が受講生を募集したので1年学芸大学に通った。自分の力が足りないのではないか、特別な何かがあるのではないかと考えたからだ。後になって考えると、教わったのは子どもの分け方だった。
中学の特殊学級に赴任し、新任式に花柄のスーツを着ていった。なかなか担任の引き受けてがいないので歓迎された。学芸大学で「子どもに接するとき子どもに戸惑わせないよう、いつも同じ服をきていることが大事だ」と教えられたので、グレーの上っぱりに着替え教室に行った。前で待ち構えていた子に「いい洋服を着てきたのにどうしてここまで着てこないの、ぼくが汚すと思ったの?」といわれあわてて着替えに戻った。教室に入ると別の子に「先生も落第してきたの?」と言われた。当時は学力テストが行われ、自治体同士、学校同士、教師同士の争いが生まれた。点数の取れない子は排除され、学力テストの規定にも「特殊学級在籍児は精神薄弱とみなし、テストから排除する」とあり、その分学校の成績が上がった。その子は「先生なら大丈夫だよ、もう1回試験を受けて普通に戻りな」といった。いったん特殊学級に来た子はなかなか普通学級に戻れない。そこで「望まない子は特殊学級に入れない」と決心した。
「わが国の特殊教育」(1961.3)という文部省の広報資料があり、特殊教育の使命として、50人の普通学級の学級経営を完全にこなすため「学級内で大多数を占める心身に異常のない児童・生徒の教育そのものが、大きな障害を受けずにはいられません」「例外的な心身の故障者は除いて、これらとは別に、それぞれの故障に応じた適切な教育を行なう場所を用意する必要があるのです」「それだけ、小学校や中学校の、普通学級における教師の指導が容易になり、教育の効果があがるようになるのです」と記載されている。
そんなに分けられるのがいやなら、分けられる時間を減らそうと、たとえば体育や音楽が得意な子はその2時間だけでも普通学級で学ぶようにしようとした。しかし普通教室の教師がいやがった。
また文化祭は、何をやっても笑われることが多いのでただ見ているだけとか、別の文化祭をやることが多かった。それで職員会議で「皆でやる」と提案し、生徒会にも説明し段取りを付けた。ところが生徒に「いっしょがいいなら、なぜ分けた」と言われた。わたしには決定的な言葉だった。以後「ともに」や「交流」という言葉をなるだけ使わないようにした。別々だから「ともに」という必要がある。隔離・分離があるから「交流」がある。分けないことが大事だと思う
。子どもは子どものなかで育つ。みんなのなかでやるほうがうまくいくこともある。支援学校でできても、ほかではうまくいかないことが往々にしてある。分ければ障がい者は少人数集団になり、分けられた者は世話と管理の対象になり、命を失う子もいる。
分けられた子どもの悲哀だけでなく、分けた側の不幸もある。障がい児とともに育たないと、本人の責任ではないが障害児を排除する側にいるわけだ。そのまま育つと排除するおとなになる。障がい児差別の問題はそこにある。ともに育ってこなかった悲劇だ。
以前、福祉の専門学校の手伝いをしたことがある。老人施設の見学に連れて行くと「はじめて会って感動しました」と感想を書いた。翌週、知的障がいの人の作業所に連れて行くとまた同じことをいう。情けない話だ。とにかく分けないでいっしょに行くことを考えないといけない。
年をとりいままでやってきた仕事や肩書はお返ししたが「障害児を普通学校へ・全国連絡会」世話人だけは、まだ当分かかりそうなので続けている。
北村さん、青木さんを囲む支援者の皆さんと運営委員の辻さん
宮城さんの動画をみていて、どこかでお見かけしたと思ったら、2019年3月の「警視庁機動隊の沖縄への派遣は違法」住民訴訟で証人尋問をしてくださった方だった。このときは傍聴券の抽選に当たって証言を聞くことができた。今回の講演で、やんばるの貴重な自然と、米軍基地返還後も環境汚染が続く現状がわかった。青木さんのことはまったく知らなかったが、冤罪被害はどのように生まれるか、また釈放されても社会に適応するのがどんなに大変かということが具体的にわかった。この日も過去のつらさ、悔しさを思い出されたのか、何度も涙ぐみながら話された。そのなかで受刑者を支援する活動を続け、国や企業と闘い続ける姿勢には敬意を払わざるをえない。
北村さんは10年以上前だが、一度「戦争は教室から始まる」という講演を聞いた。国民の「逆らわない心と丈夫な体」が戦争には必要だというお話だった(こちらを参照)。今回は障がい児教育や人権をまもるテーマのお話で、インクルーシブ教育の理念と意義がわかってよかった。
どの講演も、ほかではなかなか聞けない稀有な話で、内容が濃く充実していた。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
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