毎年恒例の中央区まるごとミュージアム、今年は11月13日(日)に開催された。ここ2年ほどコロナ禍もあり、わたしは見学に行かなかったが、今年は少し見に行った。
まず日本橋本町・小津和紙の手漉き体験に参加した。はじめに「美濃和紙ができるまで」という15分のビデオを見て、楮(こうぞ)を原料にした和紙のつくり方を学ぶ。すなわち刈入れ、剥皮、水さらし、漂白、細かくほぐすための叩解、水と紙の繊維をビーターという機械にかけ繊維を1本ずつバラバラにする、粘液性が強いトロロアオイから抽出した液を混ぜ粘りを加える、スノコを使う漉紙、脱水のための圧搾、乾燥、汚れや傷の検品・選別という工程だ。黒い皮やほこりを取り、漂白し、より白くより強い紙をつくることを狙いとする工程だ。
いよいよ1階の実習室に移動し実習に入る。まず一通りお手本をみせていただく。
トロロアオイを混ぜた紙の原料(溶液)が流し台のシンクくらいの大きさの水槽に入っている。木枠にスノコを敷いた「スゲタ(簀桁)」が道具だ。
紙を漉く作業の体験
溶液の水槽にスゲタを垂直に入れ、溶液をすくい向う側に流す。そして左右に20回振る、2回目をすくい、今度は前後に20回振る、3回目はすくった後、ふたたび左右に20回、4回目は前後に20回、つまりタテヨコに紙繊維が直交したものを上下4層にしたわけだ。5回目はすくって流すだけ、それを親指を下にクルリと回転させ、型をかぶせシャワーで1mくらいの高さからタテ方向にまんべんなく水をかける。
型をかぶせるのは、紙に凹凸のパターン模様を付ける落水紙というものをつくるやり方だ。わたしは単純な格子パターンを選んだが、花、渦巻き、青海波、不定形な模様など各種プラスチックの型があった。
スノコをはがして電気掃除機の原理で水分を脱水し、60度の温度の専用ホットプレートに貼りつけて乾燥させる。そのときにブラシを中心から外に動かし、空気を抜くことがポイントになる。乾けば完成だ。
わりにシンプルな工程で、左右や前後に20回ずつ振るところは動画でもよく出てきて印象的でやりやすい。しかしわたしの場合、直角に溶液槽にスゲタを入れるところをやり損ねたり、大きなシワができたりし一度やり直しになった。予測はしていたが、シワをつくらない流し方など、扱い方にはいろんなコツがあるようだ。
でき上った格子パターンの落水紙(右は小津和紙の社用封筒)
作業している間に、紙に関する豆知識を教えていただいた。たとえば洋紙と和紙の違いは原料にある。洋紙の原料はパルプだが、クラフト紙などをつくる針葉樹パルプと印刷用紙に使われる広葉樹パルプに分かれる。針葉樹は松、柿、籐など、広葉樹はオーク、ユーカリ、ヤナギなどを混ぜてある。和紙は、ミツマタ、楮、雁皮のいずれか一種類だ。和紙のほうが丈夫だとのこと。
紙が発明されたのは、105年中国で蔡倫(さいりん)によるものだが、日本に伝わったのは高句麗の僧、曇徴(どんちょう)の渡来によるもので610年、使われ始めたのは飛鳥時代でそれまでの木簡に代わり公用文書に使われた。その後、平安時代には紫式部など貴族が小説や和歌を書いたり写本したりする新たな需要が生まれ、鎌倉以降は武士の書状のやり取りという需要、室町時代になると障壁画の需要、江戸時代には商人の大福帳や寺子屋での習字という需要が生まれ、紙の製造量・流通量も増えていった。
持丸俳優力量競(1876 画・梅堂国政) 番付の右から2人目・東関脇に小津清左衛門
小津和紙は、1653(承応2)年の創業、370年もの長い歴史のある会社だ。創業当主・清左衛門長弘は三重県松坂出身、江戸日本橋大伝馬町に店を構え成功した。
「一 御公儀様の御法度は申すまでもなく、諸事のきまりに背かないこと。一 奉公人の保証人になることや、金銭や奉公先の斡旋をすることは厳禁」など7カ条の掟書をつくり、店則の基本になった。その後、代々当主は松坂の本家で暮らし、松坂近郊の人を従業員にして送り出し、江戸三店で働いてもらった。
江戸の商人のなかでも有力になり、幕府への「御用金請取証文」(貸付金)の総額は3500両に上った。うち1000両は1806(文化3)年に貸し付けたものだ。1815(文化12)年の江戸じまん(商人番付)には西の小結に次ぐ地位に小津清左衛門、1846(弘化3)年の大江戸持丸長者鑑には行司として小津清左衛門の名がある。
明治に入っても、1868(明治元)年11月東京商法会議所の元締頭取に指名されたが商法司が1年で廃止となり、会所も消滅した。なおこの東京商法会議所は渋沢栄一が1878(明治11)年に設立した商法会議所とは別のものである。
しかし1876(明治9)年の持丸俳優力量競(かねとわざおぎちからくらべ 梅堂国政)では、勧進元が三井八郎右ェ門、白木屋彦太郎、松坂屋利助など錚錚たるメンバーのなか、大関・大丸屋庄右衛門、鹿嶋清兵衛に次ぎ東関脇にランクしている。
エピソードとして映画監督小津安二郎の数代前の親戚は、やはり松坂出身者で小津和紙店で働き、1700年ころ東京の支配人に上り詰めた。その後、引退して松坂に戻り別家として肥料問屋干鰯屋の湯浅屋に出資した。安二郎の先祖は代々湯浅屋の東京店の支配人を務めた。安二郎は深川で生まれ、10歳のときに松坂に転居した。19歳で再度上京し映画の道を歩み始めた。
これだけ古い歴史をもつので、商店の1200点あまりの古文書が1994年に中央区の有形文化財に登録され、98年に史料館を開設した。
2012年、中央区に29あるまちかど展示館のひとつに認定され、一般公開されている。
月島図書館で「地域と水の関わり」という小展覧会を開催していた。主として月島・晴海・佃地域の埋立と時代の特色ある建造物についてだった。知っていることも多かったが、なかには初の知見もあったのでいくつか紹介する。なお残念ながら写真撮影はいっさい禁止だった。
この地域は、江戸初期に家康が大阪の佃から漁民を呼び寄せ住まわせ、もともとあった島を佃島と名付けたことから歴史が始まる。佃煮はもちろんだが白魚や海苔も名物だった。18世紀の寛政年間に人足寄場になったことも知られているが明治になっても続き、1895(明治28)年に監獄が巣鴨に移動するまでこの地にあったことは知らなかった。また幕末の1853(嘉永6)年設立の官営石川島造船所がIHIの前身であることは知っていたが、平野富二に払い下げされたのは1877(明治10)年で、維新後すぐ民営になったわけではない。
なお月島の埋立は1885(明治18)年に始まり92(明治25)年に完成、2号地(現・勝どき1-4丁目)は94年、新佃(現・佃2-3丁目)が96年、3号地(現・勝どき5-6丁目)が昭和に入った1935年と徐々に拡大した。勝どきの南の豊海は戦後の1958年に都議会の賛同を得、63年完成した。
月島から島外に出るため芝金杉川口町と月島西河岸通り2丁目、芝浦と月島橋を結ぶ通船があった。また月島にも1917(大正6)年から数年間だけだが海水浴場があったそうだ。
晴海は月島4号地として1931(昭和6)年に完成した。1940年のオリンピック会場予定地だったという話は有名だが、その前に市庁舎移転が1933年市会で決議されていたそうだ。
晴海ふ頭は、戦後の1955年晴海の仮設展示館で国際見本市が開催された年に開業し、64年に貨客船桟橋を増設した。56年に第一次南極観測船「宗谷」が出港、その後「ふじ」「しらせ」もここから出港した。
59年、東京国際見本市会場が竣工し東京モーターショーの会場、61年には東京国際見本市の会場として利用され、東京ビッグサイトが完成した1996年に閉場した。
晴海から豊洲への臨海線のことは2019年11月のまるごとミュージアムの記事にも書いたことがあったが、臨海線はもともと戦後復興のための鉄と石炭の傾斜生産を目的としていたことを知った。ただ具体的には小野田セメント、日本水産、日東製粉などの会社専用線として使われたとのことだ。89年2月10日に供用が廃止された。
スダ美容室の店名スタンドはメンバーの作品。しかし壁などに90年の「年季」がみえる
その他、「香老舗 松栄堂」と「銀座奥野ビル306号室プロジェクト」に行った。松栄堂は「灰と炭を使ったお香の焚き方の実演」が売り物だったが、たまたまわたしが訪れた時間は運悪くタイミングが合わず、みられなかった。わたしは「香道」のような「高貴」な嗜みにはまったく縁がなかった。しかし店内を見渡すと、かわいい香炉や香皿、香坏、香台もあり、美術品鑑賞としての楽しみ方もあるようだった。また匂い袋の代わりに、紙のパッケージが伸び縮みするように折りたたまれたその名も「香でぃおん」(6050円)という商品もあった。
機会があれば、また見に行きたい。
奥野ビルには、毎回ついつい立ち寄ってしまうが、今年はビルそのものが90周年だそうで、何があるのかと見に行った。ここもタイミング悪く、たまたま模様替え作業の途中だった。ただほかに客がいなかったので、いろんなことを伺うことができた。
この部屋には「スダ美容室」があり、ある時期までは店舗、ある時期以降は店主の住居として利用され、2009年に店主は100歳で亡くなった。
ただ部屋の調度がすべて90年ということではないようだった。たとえば「スダ美容室」のあんどん型の店名スタンドは、メンバーが当時の雰囲気を想像してつくった「作品」なのだそうだ。また一番故障しやすい上水管もあとで取り付けられたそうだ。しかし窓はそのままだし、階段やエレベータも昔のままだ。あと10年で1世紀の歴史を迎える。
周囲の部屋はけっこう新しいブティックやギャラリーとして使われている。例年以上に人の出入りが多いように思えた。
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