江東区北砂の東京大空襲・戦災資料センターを訪れた。一度、現代美術館に行った帰りに訪れたがそのときはたまたま休館日だった。
この資料センターは、死者10万人の被害をもたらした1945年3月10日の空襲の資料ををメインに収集した民間の施設である。センターも被災した場所にある。
まず2階で78年のNHK特集「東京大空襲」(50分番組を25分にダイジェストしたもの)をみたあと、3階の資料室をみる順序になっている。3階は東京大空襲関係の展示、「戦争と子どもたち」というコーナー、早乙女勝元・館長の著作や戦災を扱った書物の展示の3つのパートに分かれている。
NHK特集のビデオは、ルメイ少将による空襲の作戦立案から3月10日2時半頃最後のB29が飛び去るまでの経過、空襲警報が空襲開始6分後に遅れて発令された真相、避難の様子、酸素不足でポンプが止まった消火活動、翌日掘割から死体を引き揚げた状況などのインタビューが続く。南カリフォルニアで隠居生活を送るルメイへの取材まであった。
空襲は3期に分かれる。第1期は1944年11月24日中島飛行機武蔵製作所爆撃から45年3月9日で白昼、高高度から軍事施設や工場を爆撃した時期、第2期は45年3月10日から5月下旬で、夜間低高度で市街地や住宅を爆撃した時期、第3期はそれ以降で、中小都市を爆撃した時期。北は留萌から南は与論や那覇まで450市町村、犠牲者40~50万人に及ぶ。東京では8月2日に八王子が爆撃を受けた。
1945年3月10日の空襲は、B29爆撃機325機が飛来し0時9分から2時半までナパーム弾など38万発の爆弾を投下した。折からの北西風で隅田川以東は火の海になり、罹災者は100万人をこえ、死者は10万人(推定)に上る。
石川光陽氏の写真をみると、母子の死体は完全に炭化し、母の背中は白く赤ん坊をおんぶしていたことがわかる。そばに爆風で吹き飛ばされた赤ん坊の死体がころがっている。隅田川や掘割など水のある所は眠るような表情の死体が無数に浮かんでいる。
被災した小学生の手記にもあったが、炭化した死体はすでにモノである。
8.15集会の彦坂諦さん(作家)の言葉を思い出す。
「死はそれぞれ個別である。まして戦場で美しい死などあろうはずがない。重油がベットリ付着し、溺死した黒い死体、手足がもげた死体、首のない死体・・・。」
3階展示室の東京大空襲関係では、「国民総決起」のポスター、映画「決戦の大空へ」のリーフ、焼夷弾や溶けた瓦、火の粉で焦げた防空頭巾、小野沢さんいち氏などの絵が展示されている。
朝鮮人も吾嬬製鋼、東京瓦斯、国鉄などに動員されていた。洲崎の石川島造船所の寮での被災をはじめ、空襲で死亡した朝鮮人も多かった。朝鮮人が多数住んでいた枝川は戦災を免れ、隣保館での炊き出しなど朝鮮人が日本人の救援をしたそうだ。
「戦争と子どもたち」のコーナーは41年4月発足した国民学校の教育の紹介である。国民道徳・国家奉仕・臣民の道の実践を唱導する「臣民の道」(1941年7月文部省教学局編纂)が展示されていた。なんだか2007年の現代と主張が似ている。「日本は神の国」「神国日本」という小学生の習字の作品も展示されている。
早乙女館長の著作のなかに子どものころ読んだ『火の瞳』(理論社)を発見した。爆撃機から落下した鉄板が、主人公の友達の女の子の胸にバウンドして当たり死んでしまう悲しい物語だ。1964年1月発刊(「たのしい6年生」に62年4月から1年間連載)なので初版発刊直後に読んだようだ。主人公の「杉夫」と「町子」という名前もこのセンターで確認できた。
☆もともと東京都では美濃部都知事時代から平和祈念館建設の運動が進んでいた。墨田区横綱町公園に平和祈念館を2001年に開館することまで決まっていたが、97年に初当選した土屋たかゆき都議(板橋選出 民主党)らが「軍事都市東京」という文言や展示が空襲容認論に基づくなどと都議会文教委員会(97年10月、98年7月)や本会議(98年3月)でクレームを付け、凍結に追い込んだ。(土屋都議の主張は密室行政を撃つ!のなかの第一弾を参照)そこで4000人以上の民間寄付と土地の無償提供を受け2002年3月9日に開館したのがこのセンターである。来館者は4年で3万5000人を超え、今年3月増築オープンしたそうだ。
〒136-0073 東京都江東区北砂1丁目5-4
TEL:03-5857-5631
開館日 水曜日~日曜日
開館時間 12時~午後4時まで
協力費
一般 300円
中・高校生 200円
小学生以下 無料
この資料センターは、死者10万人の被害をもたらした1945年3月10日の空襲の資料ををメインに収集した民間の施設である。センターも被災した場所にある。
まず2階で78年のNHK特集「東京大空襲」(50分番組を25分にダイジェストしたもの)をみたあと、3階の資料室をみる順序になっている。3階は東京大空襲関係の展示、「戦争と子どもたち」というコーナー、早乙女勝元・館長の著作や戦災を扱った書物の展示の3つのパートに分かれている。
NHK特集のビデオは、ルメイ少将による空襲の作戦立案から3月10日2時半頃最後のB29が飛び去るまでの経過、空襲警報が空襲開始6分後に遅れて発令された真相、避難の様子、酸素不足でポンプが止まった消火活動、翌日掘割から死体を引き揚げた状況などのインタビューが続く。南カリフォルニアで隠居生活を送るルメイへの取材まであった。
空襲は3期に分かれる。第1期は1944年11月24日中島飛行機武蔵製作所爆撃から45年3月9日で白昼、高高度から軍事施設や工場を爆撃した時期、第2期は45年3月10日から5月下旬で、夜間低高度で市街地や住宅を爆撃した時期、第3期はそれ以降で、中小都市を爆撃した時期。北は留萌から南は与論や那覇まで450市町村、犠牲者40~50万人に及ぶ。東京では8月2日に八王子が爆撃を受けた。
1945年3月10日の空襲は、B29爆撃機325機が飛来し0時9分から2時半までナパーム弾など38万発の爆弾を投下した。折からの北西風で隅田川以東は火の海になり、罹災者は100万人をこえ、死者は10万人(推定)に上る。
石川光陽氏の写真をみると、母子の死体は完全に炭化し、母の背中は白く赤ん坊をおんぶしていたことがわかる。そばに爆風で吹き飛ばされた赤ん坊の死体がころがっている。隅田川や掘割など水のある所は眠るような表情の死体が無数に浮かんでいる。
被災した小学生の手記にもあったが、炭化した死体はすでにモノである。
8.15集会の彦坂諦さん(作家)の言葉を思い出す。
「死はそれぞれ個別である。まして戦場で美しい死などあろうはずがない。重油がベットリ付着し、溺死した黒い死体、手足がもげた死体、首のない死体・・・。」
3階展示室の東京大空襲関係では、「国民総決起」のポスター、映画「決戦の大空へ」のリーフ、焼夷弾や溶けた瓦、火の粉で焦げた防空頭巾、小野沢さんいち氏などの絵が展示されている。
朝鮮人も吾嬬製鋼、東京瓦斯、国鉄などに動員されていた。洲崎の石川島造船所の寮での被災をはじめ、空襲で死亡した朝鮮人も多かった。朝鮮人が多数住んでいた枝川は戦災を免れ、隣保館での炊き出しなど朝鮮人が日本人の救援をしたそうだ。
「戦争と子どもたち」のコーナーは41年4月発足した国民学校の教育の紹介である。国民道徳・国家奉仕・臣民の道の実践を唱導する「臣民の道」(1941年7月文部省教学局編纂)が展示されていた。なんだか2007年の現代と主張が似ている。「日本は神の国」「神国日本」という小学生の習字の作品も展示されている。
早乙女館長の著作のなかに子どものころ読んだ『火の瞳』(理論社)を発見した。爆撃機から落下した鉄板が、主人公の友達の女の子の胸にバウンドして当たり死んでしまう悲しい物語だ。1964年1月発刊(「たのしい6年生」に62年4月から1年間連載)なので初版発刊直後に読んだようだ。主人公の「杉夫」と「町子」という名前もこのセンターで確認できた。
☆もともと東京都では美濃部都知事時代から平和祈念館建設の運動が進んでいた。墨田区横綱町公園に平和祈念館を2001年に開館することまで決まっていたが、97年に初当選した土屋たかゆき都議(板橋選出 民主党)らが「軍事都市東京」という文言や展示が空襲容認論に基づくなどと都議会文教委員会(97年10月、98年7月)や本会議(98年3月)でクレームを付け、凍結に追い込んだ。(土屋都議の主張は密室行政を撃つ!のなかの第一弾を参照)そこで4000人以上の民間寄付と土地の無償提供を受け2002年3月9日に開館したのがこのセンターである。来館者は4年で3万5000人を超え、今年3月増築オープンしたそうだ。
〒136-0073 東京都江東区北砂1丁目5-4
TEL:03-5857-5631
開館日 水曜日~日曜日
開館時間 12時~午後4時まで
協力費
一般 300円
中・高校生 200円
小学生以下 無料