青春と友情、悔恨と慰め、戦争と老いと次世代。
西南戦争の恨み辛みがまだ残っている1926年(大正15年)第七高等学校造士館と第五高等学校との伝統の野球対抗戦が行われた。双方の応援団の間に小競り合いが生じそれが熊本市民を巻き込んだ大騒動が勃発した。5校生だけではなく熊本市民まで押しかけ木刀、竹槍、中には猟銃を持って七校側宿舎(旧県会議事堂)を取り囲んだ。警察では困難と判断した五校校長溝淵進馬は熊本第六師団憲兵隊の出動を求めた。それでも群衆は囲みを解かなかった。
溝淵校長は九州スポーツの父と呼ばれた柔道9段宇土虎雄に仲裁を依頼した。
七校応援団長
「ニ度詫びることは断じてなかです」
(七校側にすれば野球に勝っただけで、謝罪しなければならぬような真似をした覚えがないうえに、球場で一度謝っていた。ただそれは、自分たちの態度に勝者の驕りがあったかもしれない、という意味でである。)
宇土虎雄
「こん騒ぎ、どちらかが折れんことには収まらんばい。耐えざるを忍ぶも男ばい」
(宇土の気迫と誠実が七校生を動かした。やがて宇土の後ろに続き、七校生七人が建物の表に現れ)
「お詫び申す」
と五校応援団の前に土下座した。
これで群衆は去っていった。
残された七校生たちは、
「薩摩隼人が敵軍に詫びたとあいもうしては、ご先祖、親兄弟に合わせる顔がなか!」
と泣き伏した。
その若者たちの肩を抱き、これも涙しながら宇土虎雄は言った。
「この悔しさが、いつかきっと役に立つ日がくる。人の道は、平坦なものではない。諸君、我慢したまえ、我慢したまえ」
当時の高校生は何事も「真剣」で"しらける"という言葉が無かったのではないでしょうか。
「馬鹿の天才になれ!」
満州、太平洋で無益な戦争の無謀な作戦で尊い命が失われた事への鎮魂歌、そして親族・友人を無くした人達への慰めと悔恨。
私が生まれる14年前この国は戦争をしていた。
そして戦後78年、今でも叔父さん達に会いたかったと思っている。