頭は次のブログに移行しつつあったが
そのブログにブログ仲間からメッセージを貰い、いつか井上靖の金沢での足跡を案内出来る時が来るだろうかと思っていたり、以前のブログを見たりしていた。
そうしたら「雪の原野」が再び現れ、その時の思いや私自身の青春の悔恨も現れた。
私の周りには井上靖のファンはメッセージを送ってくれたブログ仲間だけなのです。
思い出すキッカケを作ってくれて感謝!
井上靖著「わが一期一会」より
別離を書いた文「雪の原野」が収められています。
旧制第四高等学校柔道部、中国華北(軍隊)での二度と会うことがかなわない別れ。その時はさして思いもしなかった日常の別れが、終生の"別れ"の時だったことを無声堂(旧制四高の武道場)の畳の上で、感極まりこみ上げてきます。それが読み手にも伝わり胸にきます。
少し長いですが是非、読んで下さい。
「雪の原野」
私は高等学校時代を金沢で過ごした。
柔道部にはいっていて、あまり勉強しないで、殆ど柔道の稽古に明け暮れていた。勉強するためではなく、柔道をやるために高等学校にはいったようなものであったが、今になってみると、そうした若い日の送り方も、それはそれでよかったのではないかと思っている。
誰に強制されるわけでもなく、自分で自分をそうした生活に投げ込んでいたのである。
冬休みも、夏休みもないような烈しい部生活であったがしごくとか、しごかれるとか、そうした強制的なものはいっさいなかった。退部したければ、いつでも退部できたが、ただ退部しなかっただけである。
他の学生たちが、思想問題で悩んだり、哲学書を耽読したりしている時、私たちは私たちで、なぜ毎日こんな辛い柔道の練習をしなければならないかということを論じたり、そのことで悩んだりしていたのである。
多少取り組む主題が単純であっただけである。
大体、大学に進んでまで柔道をやる気は誰ももっていなかった。
高等学校三年間だけを道場で過ごし、非力な少年たちが研究に研究を重ねた寝業というものを武器にして、全国高専大会で優勝して
それでさっぱりと柔道とは別れようと思っていたのである。
従って、三年だけの柔道であり、三年だけの生き方であった。
他の生き方をしてもよかったし、他の生き方の方にもっとすばらしいものがあるかも知れなかったが、たまたまどういうものか柔道というものと関わり持ってしまい、その関わりを棄てなかっただけのことであった。
そうしたことが感心すべからざることか知らないが、とにかく若き日の毎日を埋めた道場が、先年犬山の"明治村"に移された。
旧制第四高等学校柔道部、中国華北(軍隊)での二度と会うことがかなわない別れ。その時はさして思いもしなかった日常の別れが、終生の"別れ"の時だったことを無声堂(旧制四高の武道場)の畳の上で、感極まりこみ上げてきます。それが読み手にも伝わり胸にきます。
少し長いですが是非、読んで下さい。
「雪の原野」
私は高等学校時代を金沢で過ごした。
柔道部にはいっていて、あまり勉強しないで、殆ど柔道の稽古に明け暮れていた。勉強するためではなく、柔道をやるために高等学校にはいったようなものであったが、今になってみると、そうした若い日の送り方も、それはそれでよかったのではないかと思っている。
誰に強制されるわけでもなく、自分で自分をそうした生活に投げ込んでいたのである。
冬休みも、夏休みもないような烈しい部生活であったがしごくとか、しごかれるとか、そうした強制的なものはいっさいなかった。退部したければ、いつでも退部できたが、ただ退部しなかっただけである。
他の学生たちが、思想問題で悩んだり、哲学書を耽読したりしている時、私たちは私たちで、なぜ毎日こんな辛い柔道の練習をしなければならないかということを論じたり、そのことで悩んだりしていたのである。
多少取り組む主題が単純であっただけである。
大体、大学に進んでまで柔道をやる気は誰ももっていなかった。
高等学校三年間だけを道場で過ごし、非力な少年たちが研究に研究を重ねた寝業というものを武器にして、全国高専大会で優勝して
それでさっぱりと柔道とは別れようと思っていたのである。
従って、三年だけの柔道であり、三年だけの生き方であった。
他の生き方をしてもよかったし、他の生き方の方にもっとすばらしいものがあるかも知れなかったが、たまたまどういうものか柔道というものと関わり持ってしまい、その関わりを棄てなかっただけのことであった。
そうしたことが感心すべからざることか知らないが、とにかく若き日の毎日を埋めた道場が、先年犬山の"明治村"に移された。
道場は"無声堂"という名であるが、とにかくその無声堂は、廃屋にもならず取り壊されることもなく、明治村の一画に長くその姿を遺すことなったのである。
この四月(昭和四十九年)の終わりに、
その明治村の無声堂に、部歌を刻んだ額と、かって部員であった者の名札を掲げる掲額式というか、入魂式というか、そういった式が行われることになり、それに私も出かけて行った。
妻も連れ、幼い孫たちも伴った。
そのような雰囲気の集まりであった。
かってこの道場でどたんばたんやった五、六十人の人たちが集まった。
何十年ぶりかで部歌を合唱したあとで、
私は短い挨拶を振り当てられたが
妙に胸が詰まって挨拶ができなかった。
部歌も歌えなかったし、スピーチも
できなかった。
新聞社の人は、若い日の感激が蘇ったという風に受けとったらしかったが、そういうようなものではなかった。
いっしょに道場で毎日を過ごした
一年上の部員たちがすっぽりと脱けてしまっていることに胸を衝かれたのである。
一人だけ姿を見せていたが他の当時の選手たち何人かは来ようにも来られなかった。
みんな戦争で亡くなっていた。
当時高専大会で名を知られていた何人かの青年たちは、若い日の三年を道場で送り、大学に進み、そして短い社会生活ののちに、大陸の戦線に赴いて、弾丸の中に生命を曝してしまったのである。
その時まで彼らの死を忘れていたわけではないが、ふいにその死に対する感慨が烈しく迫って来たのは、無声堂の畳の上に立っていたからであろう。
そして彼等が無声堂でそうであったように、いろいろなことに悩み疑問を持ちながらも、毎日の野戦生活を黙々として耐えて行ったに違いないと思った時、そしてまたこの無声堂に於いて自らを律し、自らに課していたものが、彼等の生涯にとっていかなる意味を持っていたであろうと
思った時不意に思いが停まり、
言葉が停まってしまったのである。
私はその掲額式が終わるまで、道場の畳の上に坐っていて、私は一体、戦死した一年上の選手たちといつ別れたのであろうかと考えていた。
この四月(昭和四十九年)の終わりに、
その明治村の無声堂に、部歌を刻んだ額と、かって部員であった者の名札を掲げる掲額式というか、入魂式というか、そういった式が行われることになり、それに私も出かけて行った。
妻も連れ、幼い孫たちも伴った。
そのような雰囲気の集まりであった。
かってこの道場でどたんばたんやった五、六十人の人たちが集まった。
何十年ぶりかで部歌を合唱したあとで、
私は短い挨拶を振り当てられたが
妙に胸が詰まって挨拶ができなかった。
部歌も歌えなかったし、スピーチも
できなかった。
新聞社の人は、若い日の感激が蘇ったという風に受けとったらしかったが、そういうようなものではなかった。
いっしょに道場で毎日を過ごした
一年上の部員たちがすっぽりと脱けてしまっていることに胸を衝かれたのである。
一人だけ姿を見せていたが他の当時の選手たち何人かは来ようにも来られなかった。
みんな戦争で亡くなっていた。
当時高専大会で名を知られていた何人かの青年たちは、若い日の三年を道場で送り、大学に進み、そして短い社会生活ののちに、大陸の戦線に赴いて、弾丸の中に生命を曝してしまったのである。
その時まで彼らの死を忘れていたわけではないが、ふいにその死に対する感慨が烈しく迫って来たのは、無声堂の畳の上に立っていたからであろう。
そして彼等が無声堂でそうであったように、いろいろなことに悩み疑問を持ちながらも、毎日の野戦生活を黙々として耐えて行ったに違いないと思った時、そしてまたこの無声堂に於いて自らを律し、自らに課していたものが、彼等の生涯にとっていかなる意味を持っていたであろうと
思った時不意に思いが停まり、
言葉が停まってしまったのである。
私はその掲額式が終わるまで、道場の畳の上に坐っていて、私は一体、戦死した一年上の選手たちといつ別れたのであろうかと考えていた。
一人一人考えていったが、いつ別れたのか記憶していなかった。
ふしぎに思い出さなかった。
道場を離れては、さして深い交わりというものはなかった。同学年の選手たちとは今も年に何回かは顔を合わせているが、一年上の選手たちとはそういう関係はなかった。
無声堂に於いてだけ固く結びついて
いたのである。
私は、その時ごく自然に、自分が別れたのは、高専大会に出掛けて行く朝、この道場で行われた宣誓式に於いてであったと思った。宣誓式というと大袈裟であるが、これから行われる試合に於いて、卑怯な振舞いのないようにと誓い合うだけのことである。
ふしぎに思い出さなかった。
道場を離れては、さして深い交わりというものはなかった。同学年の選手たちとは今も年に何回かは顔を合わせているが、一年上の選手たちとはそういう関係はなかった。
無声堂に於いてだけ固く結びついて
いたのである。
私は、その時ごく自然に、自分が別れたのは、高専大会に出掛けて行く朝、この道場で行われた宣誓式に於いてであったと思った。宣誓式というと大袈裟であるが、これから行われる試合に於いて、卑怯な振舞いのないようにと誓い合うだけのことである。
しかし、当時の若い私たちには、
一年間の苦しい道場の生活がすべて終わって、あとは試合に出掛けて行くだけであるという特殊な感慨のある行事だった。
私はその行事の場に於ける選手たちそれぞれの宣誓する姿を、一人一人眼にうかべることができた。
一年間の苦しい道場の生活がすべて終わって、あとは試合に出掛けて行くだけであるという特殊な感慨のある行事だった。
私はその行事の場に於ける選手たちそれぞれの宣誓する姿を、一人一人眼にうかべることができた。
確かにそれは宣誓の式であると
共に、三年生の選手たちにとっては、
道場に於ける最後の日でもあった。
大会が終わると、彼等は部生活から自由になり、
柔道着を着る必要もなければ
道場の畳を踏む必要もなかった。
翌年の春卒業してしまうので、落第でもしない限り、大会に出場することはできなかった。要するに、柔道の稽古をする意味はなくなってしまうのである。
共に、三年生の選手たちにとっては、
道場に於ける最後の日でもあった。
大会が終わると、彼等は部生活から自由になり、
柔道着を着る必要もなければ
道場の畳を踏む必要もなかった。
翌年の春卒業してしまうので、落第でもしない限り、大会に出場することはできなかった。要するに、柔道の稽古をする意味はなくなってしまうのである。
その年、私たちは高専大会で準優勝戦で松山高校に敗れたが、その宣誓式の朝はよもやそのようなことが起ころうとは思っていなかった。高校選手としては超弩級の者が三年の部員に固まっていたので、私たちも
優勝するつもりでいたし、他校からもそのように見られていた。
その超弩級の選手たちがもうしあわせたように今はなくなってしまっているのである。
それはともかくとして、私の瞼の上に思い出されてくる七月の半ばの、ある朝の無声堂の情景は、宣誓式のそれであるに違いなかったがそれ以上に、今の私にとっては"別れ"の儀式以外何ものでもなかった。
宣誓式のきびしさというより、"別れ"というものの持つきびしさであった。
私はその時以来、彼等に会っていないという気がした。実際にその日以後、道場に於て、彼等とそのようにしては会っていないのである。
青春特有の情熱と感傷に採られた四十余年前のある朝の無声堂の情景を、それまでとは私は全く異なった感慨で思い出していた。
それは青春の一時期を、共にふしぎなものに賭けた友同志の"別れ"式典であるに違いなかった。そして私たちと別れた彼等は、私の知らない生活を持ち、私の知らない時に戦線に赴き、私の知らないうちに戦死してしまったのである。
私もまた昭和十二年、日中戦争の初めに応召して、大陸に渡ったが、私の方は戦死することもなく、その翌年三月帰還している。
脚気衝心で倒れて、そのために一人だけ部隊から離れて、送還させられてしまったのである。
部隊から離れたのは、応召した年の十一月の下旬であった。それまで二十日ほど部隊は元氏という集落に駐屯していたが、突然三日工程の順徳というところへ進発命令が降った。
この日華北には最初の雪が降り、
見はるかす平原は一夜にして真白になっていた。
二十日間の駐屯生活の間、私は民家の土間にアンペラを敷いて、
その上に身を横たえていた。手も、足も、顔も風船のようにふくらんでいた。
部隊が進発して行く朝、軍医によって後送の手続きがとられ、私だけ駐屯地からかなり離れたところにある元氏の駅に残されることになった。そこで前線から来る貨車を捉えて、後方の石家荘の野戦病院に赴くようにということであった。
私は部隊共に、三十分ほど行軍し、
元氏駅まで行って、そこで部隊と別れた。
駅には二人の歩兵がが居たが、彼等にとって、私はひどく厄介な預かりものであるに違いなかった。
私は二人の兵隊が土間に私の寝床を作ってくれている間、雪に覆われた駅のホームから雪の原野を行軍して行く部隊を見送っていた。
私が第三者として、自分が所属していた部隊を眺めたたのは、その時が初めてであった。
広漠たる雪野のただ中に置かれた部隊は極めて小さく無力に見えた。隊列は長い一本の鎖となって段落ある真っ白い丘陵の波立っている中を、丘に隠されたり、丘から現れたりしながら、次第に遠ざかって行った。
私は駅に残された自分も不安であったし、いま見送っている部隊も不安であった。
独立輜重中隊という名の部隊でであったが、戦闘能力の殆どない車輛部隊であった。
この部隊との別れは、実際にまた、
同班の若い兵隊三名との別れであったし、私に後送の処置をとってくれた軍医との別れでもあった。そして私が名を知らぬ他班の多勢の兵隊たちとの別れでもあった。
みな戦死したのである。
戦争というものを振り返ってみた時、何とも言えぬ心の痛みと共に思い出されるのは、日本中に無数の"別れ"がばらまかれていたことである。
駅頭にも、村役場の前にも、家々の門口にも、"別れ"があった。
日本中が"別れ"で織りなされていた。
戦争によってたくさんの日本の都市は灰塵に帰してしまったが、それから二十余年にしてそれらは多少性格の変わった新しい町として生まれ変わっている。
"別れ"の悲劇の方はいかんともする術はなく、依然としてそのままの形で残されている。
ただ、歳月というものが、その悲劇を舞台の正面から遠方へと押し遣っただけのことである。
こんど無声堂の掲額式に出席して、
思いがけず新しい一つの"別れ"を発見した思いであった。
華北の雪の日の部隊との別れは私の
生涯における胸の迫る思い出であるが、
若い日の無声堂の宣誓式もまた今にして思うと、青春の輝かしさの中に仕組まれていた別離のドラマに他ならなかったのである。
迂闊なことであったが、私はその友だちと別れて、四十数年後にして初めて、その友たちのために胸を裂かれたのである。