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めいぷるアッシュEnnyの日々是好日

今日のお散歩は伏見寺から

最近唯一の運動が散歩です。散歩が運動かどうかは議論の余地があるようです、なんせ電信柱毎に止まりますから^^;

 

今日のお散歩は寺町・西茶屋街界隈です「伏見寺」(ふしみてら)からスタートします。

めいぷるさんと先祖のお墓に参って、それから藤五郎さんのお墓にも参っていよいよスタートです。真言宗のお寺なので犬には比較的寛容であるかもしれない。それは弘法大師が二匹の犬に導かれて高野山に至ったという伝承があるからです。(二匹の犬の黒色と白色、紀州犬と甲斐犬では?と言われています)

 

「伏見寺」は芋掘藤五郎のお墓があることで有名?です。

藤五郎さんのお墓に参るめいぷる

 

日本昔ばなし

「芋掘り藤五郎」
昔、加賀の国の山科ちゅう村に、藤五郎という若者が住んでおった。親を早く亡くし、山へ行っては山芋を掘って暮らしておったんで、誰いうとなく"芋掘り藤五郎"と呼ばれておった。 ある日のことじゃった。粗末な藤五郎のあばら屋に、上品な老夫婦と美しい娘が山のような花嫁道具を下人に持たせて訪ねてきてな、こういうて頭を下げたのじゃそうな。「私は大和の初瀬村に住む生玉方信(いくたまほうしん)と申します。突然ではございますが、どうかこの娘をもろうてくだされ」 あまりのことで、面食らった顔をしとる藤五郎に、方信はなおもいうたと。「実は、私どもは村一番の長者ですが、長い間子宝に恵まれませなんだ。で、長谷観音様にお願いして、ようやっと授かったのがこの娘でございます。和子と名付け、そりゃもう大事に育ててまいりました。そして、、日本一の花婿をと再び長谷観音様に願を掛けましたところ、あなた様の名前を告げられたのです。ですから、どうか‥‥‥」 そういわれても、気ままな貧乏暮らしが気に入っとった藤五郎は、なかなか「うん」とはいわなんだ。が、あまりしつこく頼みこむもんで、仕方なくいっただ。「おらあ、貧乏が性に合っとるだ。だから、せっかくの荷物も近所の貧しい人たちにあげてしまうつもりなんじゃが、それでもええか」「むろん、嫁にもろうてもらえれば、あなたさまのもの。ご自由にお使いください」こうして娘と結婚した藤五郎は、約束通り花嫁道具を近所の人たちに分け与えたあと、相変わらず山へ芋掘りに入ってはその日のくいぶちぶんを稼いでくると、残りは人にあげてしまい、貧乏生活を楽しんでおった。最初は戸惑っておった娘もそのうちに慣れ、藤五郎と同様、貧しい生活を苦にせんようになっただ。 何ヶ月か過ぎたある日、藤五郎のもとへ大和の方信から、娘が不自由な思いをせんようにと砂金の一杯詰まった袋が送られてきたのじゃ。しかし砂金の値打ちを知らん藤五郎はふと通りかかった田圃に雁が遊んでいるのを見て 捕まえてやろうと手にした砂金袋を投げてしもうたのじゃそうな。「なんともったいないことをなさる」その話を聞かされた娘は、あまりの無頓着さにあきれ、砂金がいかに大切であり、貧しい人たちに喜ばれるかをこんこんと藤五郎に説いたんじゃと。と、藤五郎は、「あんなもの、芋掘りに行けばなんぼでもとれるだ」と得意そうにいい、翌朝娘を山へ連れて行っただ。なるほど、山芋を掘ると、根っ子のところに無数の砂金がキラキラと輝いておった。それからというもの、二人はせっせと芋を掘っては近くの沢で洗い、砂金を集めたんでたちまち長者になったが、決してひとり占めにはせず貧しい人たちに分け与えたため、暮らしは少しも変わらなんだ。それでも二人は十分に幸せで、人々からは"芋掘り長者"と呼ばれてたいそう敬われたという話じゃ。 それとじゃな、金沢という地名も、この藤五郎が砂金を洗った沢、つまり"金洗い沢"というんでついたんじゃそうな。兼六園の一角に"金城霊沢"という名の場所が今もあるが、ここがその砂金を洗った沢の跡じゃといわれる。

 

寺町は金沢城の防衛の一角を担っていたようです。「伏見寺」は山科という処にあったのですが、藩の政策によって寺町が作られ移って来たようです。

「伏見寺」をスタートして直ぐに横道に入ります。この辺りも大人がやっとすれ違い出来る路地がある所です。「チコちゃんは知っている」で大阪の天満橋筋とか御堂筋はどうして筋というのか?ゲストかボケっと生きてんじゃない!!と言われていましたが、私も??でした。解答の前に大阪市民に質問、二人が答えられず3人目のオカマっぽいコスチュームのおじいさんが曰く"大阪の人間ならそんなもんみんな知っとる"と見事正解に何故か笑ってしまいました。絶大な権勢を誇る秀吉の居城大阪城に向かって伸びる東西に伸びる道を「通」その通りに対して南北に伸びる道を「筋」。かたや外様の金沢城はいつ攻められても良いように西と東にお寺を集め防衛拠点として道路は狭く迷路の様です。幸いに空襲にあっていません。

 六斗の廣見(広見)

今は自動車が通りますがそれ以前はどんなだったのでしょうか?

 

広見から路地を下り、大通りを渡ると西の茶屋街です。その路地を下りていると何かの案内図かなと見てみると

五木寛之さんだった。

 西の茶屋街着、誰もいない。

 

島精の「地上」の1文を読む。ここが折り返し地点ここから広小路交差点から寺町通りと緩い傾斜を行く。

一旦寺町台地を上り、そして犀川ベリまで降りる。ここW坂からまた台地に上がる。めいぷる分かりますか?
W坂の途中に井上靖「北の海」の文学碑があります。井上靖は静岡県立沼津中学から第四高等学校に入学して柔道部に入る。この小説は井上靖の自伝的小説です。この頃の柔道は今のオリンピック柔道ではなくグレイシー柔術の元祖になる。(寝技中心、当身あり)
W坂を登ったところの緑地から。眼下に犀川そして市街地を望む。
スタート地点の伏見寺は直ぐそこです。
寺町通り
この日は金沢ロードレースの日、時間までに帰らないと封鎖されてしまいます。内側から見る(ハーフ10キロ地点)

 

 お休みなさい。

 

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