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映画・演劇のレビュー

『悪人』

2010-09-14 23:14:08 | 映画
 今年一番期待の映画だった。魂を揺さぶる傑作だったあの分厚い原作小説をそのまま映画化することは不可能だ。だが、李相日監督が原作者である吉田修一と台本を作り、2時間19分の大作としてまとめあげた本作が、ここまで、ふがいない出来であることに衝撃を受けた。

 前半は悪くはない。この緊張感がどこまで持続するのか、ドキドキさせられた。だが、だんだんなんだか雲行きが怪しくなる。特に妻夫木聡に殺される満島ひかりのキャラクターが酷い。原作のままではあるのだが、彼女がここまでつまらない女に描かれていなくてもいいのではないか。こんなくだらない女のために殺人まで犯してしまうなんて、バカバカしすぎる。そんなふうに思わせたらそれだけで失敗だ。さらには、深津絵里。こんなつまらない男に深入りしてしまうなんて、わからない。しかも、出会った瞬間に。

 と、こう書きながら、こんなふうに書いている自分に戸惑いを隠せない。なぜならば、原作を読んだときには、この同じ話にあれほど共感し、切なくなったのだから。では、なぜ映画はダメだったのか。

 原作は丹念に状況描写をして、シチュエーションを追い、背景となる風景を切り取り、そこに彼らの生きる姿を置いた。だから、あれだけの長さが、あの小説には必要だったのである。

 映画は瞬間ですべてを納得させれることもある。今回のキャスティングは完璧だと思った。しかも役者たちはみんな熱演している。主役の2人だけでなく、脇役まで見事だ。だが、あまりに丹念に原作をなぞり過ぎて、映画自体の魅力を損なう。ここには原作のイメージしかない。あらゆるエピソードを残して原作の絵説きをした。それでは映画として独立したものにはならない。

 映画ならではの視点が欲しい。原作に縛られない作りが欲しい。なのに、あまりに原作が素晴らしすぎて、あの原作そのままを目指してしまった。だが、端折った部分がすべて陳腐なものとなる。思いもしない結果となった。もちろん、力作である。それは認める。主演の2人は素晴らしい。そこも認める。だが、これでは『悪人』ではない。

 長崎から車を飛ばして、福岡までやってくる。あるいは、佐賀まで来る。峠の山道を飛ばして2時間。彼女に会うため、何度となく通う。祖父の介護を黙々として、きつい肉体労働の現場でもきちんと働く。出会い系サイトで知り合った女と付き合う。それも、彼なりに本気だった。女は目の前で他の男の車に乗る。自分と会う薬草していたのも関わらずである。なぜ、そこまでバカにされなくてはならないのか、と思う。だが、殺すつもりはなかった。この後、事件を直接は描かない。そこもたぶん原作の設定そのままだ。忠実に原作をなぞる。だが、それらがなぜこんなにも心に沁みないのか。その底にあるものが描ききれていないからである。 灯台でままごとのように暮らすシーンも、ただの絵説きでしかない。

 柄本明演じる被害者の父親が、容疑者だった大学生に詰め寄るシーンがすばらしい。だが、あれだって原作のあの場面と同じだ。理不尽さに憤る。切ない。こんなつまらない男に置き去りにされたため娘は死んでしまうことになった。父親の怒り、無念が見に沁みる。だが、それが映画全体とつながらない。

 地方都市で生きる孤独な人々の闇を照らす。人間の孤独を見つめる。それは、誰の中にもある。痛ましい魂の叫びが描かれる。この映画は、傑作になってもよかったのだ。見終えて何とも知れない無念を感じた。突き抜けるものがないから、映画は傑作になり損ねた。

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