まるで大竹野が帰ってきて、ここで新作を作り上げたような。作、演出、大竹野正典、というこのクレジットに偽りはない。大竹野がもう一度『サラサーテの盤』を再演したなら、きっとこうなる。そんな芝居になった。まさに入魂の一作である。今回、この公演にあたって、敢えて別の演出家を立てず、大竹野本人に演出をまかせたのは正しい判断だった。
実際は、小寿枝さんが大竹野になりかわってこの芝居の演出を担当し、本人以上の『サラサーテの盤』を作り上げた。いつも彼に寄り添って一緒に芝居作りをしてきた彼女だからこそ可能であった作業だ。自分を消し去り、生前に大竹野が求めていたものを再現する。これは常に彼と共に歩んできた彼女にしかできないことだろう。だが、この芝居の成功は、それだけが原因ではない。大竹野本人の演出をみんなが再現しようと試みたその結果だ。大竹野のもとに集まった仲間が精魂を込めてこの作品を作り上げたのだ。
大竹野が死んでからもう1年になる。ここにはもういない大竹野を担ぎ出して、彼の芝居を彼自身の演出によって再演する。そんな大胆なことを可能にしたのは、彼の仲間たちの力だ。もう一度くじら企画の芝居が見たい、とみんなが願った。若くしてこの世を去ってしまった大竹野を追悼するためにも、彼の芝居をもう一度、作りたい。そして、それをたくさんの観客の目に曝すしかない、と思った。それが大竹野を送るための儀式になる。葬儀とは別に、彼の死を悼む。そのための公演である。そうすることが、大竹野はここに生きている、ということの証明になる。作家は死んでも作品は残る。残された作品は永遠に生き続ける。そんな当たり前のことを、この作品は実証した。
それは簡単なことではない。それを可能にした彼のスタッフは凄い。芝居を1本作ることは容易なことではない。なのに、このチームは3本の芝居をここから連続して作ることとなる。故大竹野正典と、彼のチームが最後の大勝負に挑む。
その第1弾である今回の『サラサーテの盤』は傑作である。ここには故人の魂が込められている。30年間彼の全ての芝居を見続けてきた僕が言うのだから、間違いはない。この作品は大竹野の最高傑作であり、彼の到達点を示す記念碑的作品である。生きている人間にはとても作れない死者のドラマを、彼は自ら死者となることで実現した。
死者がやってくる。ウチダ(戎屋海老)のもとに。彼は生きているのだが、生きているものが死んでいるようで、死んでいるものが生きているような、そんな世界を彷徨する。忘れられたものは死んでしまったものと同じだ。だから、死者が忘れられたものを思い出させるため、それを取りに来る。この話を、今、こうして大竹野がいない世界で改めて見ると、ここにいない大竹野そのものがここには描かれているように見える。ウチダと大竹野が被さって見えてくる。そして、闇の奥に消えていく人たちの中にも、確かに大竹野がいた。これはそんじょそこらの追悼公演なんかではない。
実際は、小寿枝さんが大竹野になりかわってこの芝居の演出を担当し、本人以上の『サラサーテの盤』を作り上げた。いつも彼に寄り添って一緒に芝居作りをしてきた彼女だからこそ可能であった作業だ。自分を消し去り、生前に大竹野が求めていたものを再現する。これは常に彼と共に歩んできた彼女にしかできないことだろう。だが、この芝居の成功は、それだけが原因ではない。大竹野本人の演出をみんなが再現しようと試みたその結果だ。大竹野のもとに集まった仲間が精魂を込めてこの作品を作り上げたのだ。
大竹野が死んでからもう1年になる。ここにはもういない大竹野を担ぎ出して、彼の芝居を彼自身の演出によって再演する。そんな大胆なことを可能にしたのは、彼の仲間たちの力だ。もう一度くじら企画の芝居が見たい、とみんなが願った。若くしてこの世を去ってしまった大竹野を追悼するためにも、彼の芝居をもう一度、作りたい。そして、それをたくさんの観客の目に曝すしかない、と思った。それが大竹野を送るための儀式になる。葬儀とは別に、彼の死を悼む。そのための公演である。そうすることが、大竹野はここに生きている、ということの証明になる。作家は死んでも作品は残る。残された作品は永遠に生き続ける。そんな当たり前のことを、この作品は実証した。
それは簡単なことではない。それを可能にした彼のスタッフは凄い。芝居を1本作ることは容易なことではない。なのに、このチームは3本の芝居をここから連続して作ることとなる。故大竹野正典と、彼のチームが最後の大勝負に挑む。
その第1弾である今回の『サラサーテの盤』は傑作である。ここには故人の魂が込められている。30年間彼の全ての芝居を見続けてきた僕が言うのだから、間違いはない。この作品は大竹野の最高傑作であり、彼の到達点を示す記念碑的作品である。生きている人間にはとても作れない死者のドラマを、彼は自ら死者となることで実現した。
死者がやってくる。ウチダ(戎屋海老)のもとに。彼は生きているのだが、生きているものが死んでいるようで、死んでいるものが生きているような、そんな世界を彷徨する。忘れられたものは死んでしまったものと同じだ。だから、死者が忘れられたものを思い出させるため、それを取りに来る。この話を、今、こうして大竹野がいない世界で改めて見ると、ここにいない大竹野そのものがここには描かれているように見える。ウチダと大竹野が被さって見えてくる。そして、闇の奥に消えていく人たちの中にも、確かに大竹野がいた。これはそんじょそこらの追悼公演なんかではない。