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映画・演劇のレビュー

プロトテアトル『どこよりも遠く、どこにでもあった場所。あるいは、どこよりも近く、なにもない。』

2018-05-02 20:40:34 | 演劇

想い出の2018年、というスタンスがとてもいい。この瞬間すら想い出の彼方にしてしまうというのだ。今のはずなのに、追憶の彼方。そんな遠くて懐かしい場所、時間から芝居はスタートして、ラストで再びそこに戻っていく。

2年前に上演するはずだったこの作品を2年の歳月を経て、確かにここで上演する。それは上演を中止にしたことへのリベンジではなく、とうぜんの帰結なのだ。こうなるべくしてこうなった。

 

2年前には書けなかった台本は(一応は完成したらしいが不本意なものにしかならなかった)反古にされ、あの時にはその台本の原点であるテネシー・ウイリアムズの『ガラスの動物園』をリーディング劇として上演した。あれから2年。今、ここで上演されたこの作品は、驚くほど『ガラスの動物園』と似ている。でも、その近さこそがこの作品のオリジナリティを指し示す。『ガラスの動物園』を原案にして書かれたものを自分の世界に引き寄せて、ひとつの家族の物語とする。どこにでもある、どこにでもない物語。

 

家族から逃れて、家族のもとへと再び帰っていく。ひとりの男のお話である。30過ぎて今更映画を撮りたいという。家族に縛られて息苦しい。自分の夢と目の前の現実の板挟みになり、今の自分からも逃げるため映画館に逃げ込む。居場所のない男。父の失踪から始まったドラマは彼の失踪でひとつの決着がつく。父と同じ道をたどる。その結果、何が見えてくるのか。彼の後悔は母親の死ではない。

 

白髪頭は時間の喪失の象徴。カラフルなはずの布による壁は、薄くてモノトーンになる不条理。主人公は妹夫婦が帰ってくることで自分の居場所をなくす。目の前の現実と、頭の中の理想、夢。その板挟みになり壊れていく。とても単純なお話なのだ。2018年だけど、2016年でも2008年、2000年でもいい。要するに21世紀の始まりの頃というのか。そんな漠然とした未来が設定される。そして、そこが今ではもう遠い昔のこと。そんな世界で彼が帰っていくのは、どこなのか。

 

昔々、ある家族がいました。最初と最後が同じ。ただ語り手が違う。このマンションの大家から、彼自身に。赤の他人であるはずの2人が重なる。できることならその先が見たかった。

 


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