静と動
究極を言えば、人は「いま」という時間しかない。いまここにしかないに、過去や未来を思いわずらってしまうと、それによって、大切ないまが食い尽くされてしまう。
過去や将来に束縛されるのではない。いまだけを意識して、いまを生きる。
わざわざ過去や未来に思いを馳せなくても、いま目の前のことを1つひとつ処理していれば、未来は自然と見えてくるし、過去の意味も次第にわかってくる。
堅いって?
まあそう言わない。
人生において、視点移動を試みた。つまりだ。クォータービューだ。180°のクォーター、1/4、45°からの視点。その結果、今まで見えていなかったものが、見えてきた。
上記のことだ。
私は、長い間、身動きができないままでいた。それはなぜか?答えは単純だ。
「生きながら、心が死んでいた」
からだ。
いまなら分かる。
失礼を承知で言わせてもらう。だが、これが事実だ。
この6年間、あらゆる事象が、まるで他人事のようだった。
心のどこかで、自分にはもう、およそ関わりのないことだと思っていた。
人は、無責任に、「時が解決してくれる」などと言う。
だが、私の場合はそうではなかった。
1年、2年、3年、4年、5年、6年・・・
何か変わったか?
いや、人はそんなに簡単には変われない。
どうせ自分なんかだめなんだと、投げやりになったり、あるいは自分は悲惨だとかみじめだと人に言ったりするというのが、己を失った状態だ。
なぜなら、そのようなことを言うのは、同情してほしいという気持ちが根底にあったからだと考える。人の同情にすがっているようなら、自分の意思に基づいて判断し、責任感を持っていない。己を失っている状態だ。
また、自分は何をしたいのかわからない、一応やっているがこれといった目標もないという人もいるが、これも己を失っている状態だ。
あえてそんなことを人には言わなかったが、もう隠居したいと考えるようになった。
よく「晩年は京都にひっそりと住みたい」とも言った。
だが、古き友人に「隠居するには、隠居する資格がいるんだよ」と言われた。
そんなものがあるわけ・・・と思っていた。
それだけ、この世に価値がないと思っていた。
ひとりで小さくお利口にまとまっていて、ひねくれた大人の見本だった。
6年。
言うこと為すこと、すべてが、ひねくれていた。
時は遡り、2010年6月25日。
私は咳で苦しんでいた。
病院行って、薬を飲みながら、惰性で過ごしていた。
6月25日。
6年経った。
友人もお墓参りに来てくれた。
「もう」なのか、「まだ」なのか。
結局、何も見えてはいなかった。
後日、近所のTSUTAYAに足を運んだ。
私が読む本と言えば、週刊少年ジャンプぐらいだ。
私は言語文化学科だったにも関わらず、大学卒業してから、本から離れていた。
話題の小説なんて、読んだこともない。そしてそれは今も変わらない。
だが、TSUTAYAに行くと、必ず、本のコーナーに立ち寄り、すべての通路を歩き、表紙だけを流し見る。時には手に取り、パラパラとめくる。これも今も変わらない。
いつもはそれで終わる。
だが、何かを求めているのは自分で分かった。
そして、本を数冊買った。
その次の休みにも、また本を買った。
漫画以外の本に、これだけお金をかけたのは、大学の教科書を買った時以来だ。
そして、本を読みあさり、何か掴みかけていた。ヒントを見つけたようだった。
それが、先日のつぶやきだ。
深夜にも関わらず、リアルタイムで見てくださった方には謝罪をする。
その日は寝不足だっただろうに。
そしてそれに感謝する。
ここで、話は始まりに戻る。
いまを生きることに気付いた。
こんな簡単なことに気付かなかったとは。
6年。
かかった。
長かった。
長かったな。
無意味ではなかった。
素晴らしい発見だ。
喜びに震えた。
これからの人生がちょっとおもしろくなってきた。
そう思ったら、じっとしていられなかった。
そこで、私は運動も始めた。
まずはウォーキングから。
初めはやっぱり筋肉痛。
そして、次のステップのジョギング。
仕事から帰ってきてから、走る。
仕事の疲れとはまた違う疲れ。
すがすがしい。
ストレスも飛んでいく。
汗が体の表面をコロラド河のように流れ落ちていく。
自分の脚で立って、ふたつの眼で前を見据えて、歩いて、走って、一呼吸、一呼吸に生死を感じ、文字通り前に進む。
前に進むのだ。
私はこれらを性質上、「静」と「動」に分けて、日常に取り入れた。
書物を読むのを「静」。
体を動かすのを「動」。
今まで忙しいのを理由にやらなかったことを取り入れた。
「忙しい」の9割は、無駄なことだ。
自分に言い訳していただけだ。
その無駄を省いた。
そして生活スタイルを変えた。
そしたら、人生も変わって見えてきた。
「見る」から「視る」に。
「視る」から「観る」に。
「観る」から「察する」に変わった。
さあ。
そして今日も生きていこう。
長文にお付き合い頂き、誠に光栄の至り。
この礼は、いずれ精神的に。
究極を言えば、人は「いま」という時間しかない。いまここにしかないに、過去や未来を思いわずらってしまうと、それによって、大切ないまが食い尽くされてしまう。
過去や将来に束縛されるのではない。いまだけを意識して、いまを生きる。
わざわざ過去や未来に思いを馳せなくても、いま目の前のことを1つひとつ処理していれば、未来は自然と見えてくるし、過去の意味も次第にわかってくる。
堅いって?
まあそう言わない。
人生において、視点移動を試みた。つまりだ。クォータービューだ。180°のクォーター、1/4、45°からの視点。その結果、今まで見えていなかったものが、見えてきた。
上記のことだ。
私は、長い間、身動きができないままでいた。それはなぜか?答えは単純だ。
「生きながら、心が死んでいた」
からだ。
いまなら分かる。
失礼を承知で言わせてもらう。だが、これが事実だ。
この6年間、あらゆる事象が、まるで他人事のようだった。
心のどこかで、自分にはもう、およそ関わりのないことだと思っていた。
人は、無責任に、「時が解決してくれる」などと言う。
だが、私の場合はそうではなかった。
1年、2年、3年、4年、5年、6年・・・
何か変わったか?
いや、人はそんなに簡単には変われない。
どうせ自分なんかだめなんだと、投げやりになったり、あるいは自分は悲惨だとかみじめだと人に言ったりするというのが、己を失った状態だ。
なぜなら、そのようなことを言うのは、同情してほしいという気持ちが根底にあったからだと考える。人の同情にすがっているようなら、自分の意思に基づいて判断し、責任感を持っていない。己を失っている状態だ。
また、自分は何をしたいのかわからない、一応やっているがこれといった目標もないという人もいるが、これも己を失っている状態だ。
あえてそんなことを人には言わなかったが、もう隠居したいと考えるようになった。
よく「晩年は京都にひっそりと住みたい」とも言った。
だが、古き友人に「隠居するには、隠居する資格がいるんだよ」と言われた。
そんなものがあるわけ・・・と思っていた。
それだけ、この世に価値がないと思っていた。
ひとりで小さくお利口にまとまっていて、ひねくれた大人の見本だった。
6年。
言うこと為すこと、すべてが、ひねくれていた。
時は遡り、2010年6月25日。
私は咳で苦しんでいた。
病院行って、薬を飲みながら、惰性で過ごしていた。
6月25日。
6年経った。
友人もお墓参りに来てくれた。
「もう」なのか、「まだ」なのか。
結局、何も見えてはいなかった。
後日、近所のTSUTAYAに足を運んだ。
私が読む本と言えば、週刊少年ジャンプぐらいだ。
私は言語文化学科だったにも関わらず、大学卒業してから、本から離れていた。
話題の小説なんて、読んだこともない。そしてそれは今も変わらない。
だが、TSUTAYAに行くと、必ず、本のコーナーに立ち寄り、すべての通路を歩き、表紙だけを流し見る。時には手に取り、パラパラとめくる。これも今も変わらない。
いつもはそれで終わる。
だが、何かを求めているのは自分で分かった。
そして、本を数冊買った。
その次の休みにも、また本を買った。
漫画以外の本に、これだけお金をかけたのは、大学の教科書を買った時以来だ。
そして、本を読みあさり、何か掴みかけていた。ヒントを見つけたようだった。
それが、先日のつぶやきだ。
深夜にも関わらず、リアルタイムで見てくださった方には謝罪をする。
その日は寝不足だっただろうに。
そしてそれに感謝する。
ここで、話は始まりに戻る。
いまを生きることに気付いた。
こんな簡単なことに気付かなかったとは。
6年。
かかった。
長かった。
長かったな。
無意味ではなかった。
素晴らしい発見だ。
喜びに震えた。
これからの人生がちょっとおもしろくなってきた。
そう思ったら、じっとしていられなかった。
そこで、私は運動も始めた。
まずはウォーキングから。
初めはやっぱり筋肉痛。
そして、次のステップのジョギング。
仕事から帰ってきてから、走る。
仕事の疲れとはまた違う疲れ。
すがすがしい。
ストレスも飛んでいく。
汗が体の表面をコロラド河のように流れ落ちていく。
自分の脚で立って、ふたつの眼で前を見据えて、歩いて、走って、一呼吸、一呼吸に生死を感じ、文字通り前に進む。
前に進むのだ。
私はこれらを性質上、「静」と「動」に分けて、日常に取り入れた。
書物を読むのを「静」。
体を動かすのを「動」。
今まで忙しいのを理由にやらなかったことを取り入れた。
「忙しい」の9割は、無駄なことだ。
自分に言い訳していただけだ。
その無駄を省いた。
そして生活スタイルを変えた。
そしたら、人生も変わって見えてきた。
「見る」から「視る」に。
「視る」から「観る」に。
「観る」から「察する」に変わった。
さあ。
そして今日も生きていこう。
長文にお付き合い頂き、誠に光栄の至り。
この礼は、いずれ精神的に。