日常のことばたち

時々落ち込むこともあるけれど、いまを生きるんだ。

3月11日か・・・

2015-03-11 22:31:23 | 日常
東日本大震災から丸4年か。

地震が来た時には、どうなることかと思った。

家が潰れるのではないかと。

ただ、本当に怖かったのはその後だった。

千葉方面では石油会社のタンクが爆発炎上。

交通機関はマヒ。

そして、津波だ。

私は幸い海に近くは無かったが、ヘリからの津波の生中継が恐ろしかった。

第一波、第二波、続く。

海を走るダイタルウェイブ。

港から陸地にかけて、津波がなだれ込んでいった。

車で必死に逃げる様子もあったが、津波に飲み込まれていった。

家が車が船が建物が全てが飲み込まれていった。

そしてその波は返る。

海水はドス黒いものになっていた。

その後のニュースで、海辺に身元不明の遺体が転がっていると報じていた。

さらに、津波は福島原発に襲いかかった。

メルトダウンの発生。

シムシティで目にした言葉が、現実に起こったのだ。

周辺地域の放射能汚染。

福島の浜通りに済む大学友人は埼玉まで避難してきた。

福島のばあちゃんちは、どうしたらいいのかわからないと言っていた。

避難生活にはならなかったが、外に出るのもどうなのかと不安だと言っていた。

当時私は、自宅に居て、揺れている時に、どうやって逃げようかと思ったが、なるようにしかならないと思って揺れが収まるのを待った。

日常がいきなり非日常へ変わった。

テレビは緊迫感のあるニュースばかり。

さらに怖くなるぐらい繰り返されるACのCM。

給油と買い溜めに走る民衆。



4年経ったけど、大きく復興しただろうか。

さっきニュースで、遺族代表の19歳の女性の言葉に、胸がつまった。




あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。

 しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。

その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。

右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。

母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。

「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。




緊急避難。

だけど、胸が張り裂けそうな、いや、言葉では表現できない思いだっただろう。

トロッコ問題、トリアージ、カルネアデスの板・・・

助けたいのに、助けられないという抜き差しならない状況。

私は助けられなかった人間だから、違う状況でも、それがどれほどの絶望か少し分かる気がする。

みんなが望むのは、後ろ向きなこの日々を、かすかに変えるそんな力。

涙で前が見えない時もある。

そしたら横でも向いてみよう。

僕らには仲間がいる。

共闘する仲間がいる。

それでも傷を舐め合うのでなく、誇らしげに笑い合いたい。
コメント
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