☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

聖経 甘露の法雨  ⑧ 人間

2013-07-01 09:00:00 | 聖経

    人 間

吾は『 真理 』なり、

『 真理 』より遣わされたる天使なり。

『 真理 』より照りかがやく『 光 』なり、

迷を照破する『 光 』なり。

吾は『 道 』なり、

吾が言葉を行うものは道にそむかず。

吾は生命なり、

吾に汲む者は病まず死せず。

吾は救なり。

吾に頼む者はことごとくこれを摂取して実相の国土に住せしむ。

天使かくの如く説き給えば

天の童子また重ねて問う。

『 師よ、人間の本質を明かになし給え。』

天使答えたまわく ー

人間は物質に非ず、

肉体に非ず、

脳髄細胞に非ず、

神経細胞に非ず、

血球に非ず、

血清に非ず、

筋肉細胞に非ず。

それらをすべて組み合せたるものにも非ず。

汝ら、よく人間の実相を悟るべし、

人間は霊なり、

生命なり、

不死なり。

神は人間の光源にして

人間は神より出でたる光なり。

光の無き光源はなく、

光源の無き光はなし。

光と光源とは一体なるが如く

人間と神とは一体なり。

神は霊なるが故に

人間も亦霊なるなり。

神は愛なるが故に

人間も亦愛なるなり。

神は智慧なるが故に

人間も亦智慧なるなり。

霊は物質の性に非ず、

愛は物質の性に非ず、

智慧は物質の性に非ず、

されば、

霊なる愛なる智慧なる人間は、

物質に何ら関わるところなし。

まことの人間は、

霊なるが故に、

愛なるが故に、

智慧なるが故に、

生命なるが故に、

罪を犯すこと能わず、

病にかかること能わず、

死滅すること能わず、

罪も、

病も、

死も、

畢竟汝らの悪夢に過ぎず。

汝ら生命の実相を自覚せよ。

汝らの実相たる『 真性の人間 』を自覚せよ。

『 真性の人間 』は神人にして

神そのままの姿なり。

滅ぶるものは『 真性の人間 』に非ず。

罪を犯すものは『 真性の人間 』に非ず。

病に罹るものは『 真性の人間 』に非ず。

地上の人間よ、

われ汝らに告ぐ、

汝ら自身の本性を自覚せよ。

汝ら自身は『 真性の人間 』にして、

そのほかの如何なるものにも非ず。

されば人間は真理の眼より見る時は

罪を犯す事能わざるものなり、

病に罹る事能わざるものなり、

滅ぶること能わざるものなり。

誰か云う『 罪人よ、罪人よ 』と。

神は罪人を造り給わざるが故に

この世に一人の罪人もあらず。

罪は神の子の本性に反す、

病は生命其自身の本性に反す、

死は生命其自身の本性に反す、

罪と病と死とは、

畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想に過ぎず。

実相の世界に於ては

神と人とは一体なり、

神は光源にして

人間は神より出でたる光なり。


罪と病と死とが

実在すると云う悪夢を、

人間に見せしむる根本妄想は、

古くは、

人間は塵にて造られたりと云う神学なり。

近くは、

人間は物質にて造られたりと云う近代科学なり。

これらは人間を罪と病と死との妄想に導く最初の夢なり。

この最初の夢を摧破するときは

罪と病と死との

根本原因は摧破せられて

その本来の無に帰するなり。

汝ら『 生長の家 』を読んで真理を知り病の癒ゆるは

この最初の夢の摧破せらるるが故なり。

最初の夢無ければ

次の夢なし。

悉く夢なければ本来人間清浄なるが故に

罪を犯さんと欲するも

罪を犯すこと能わず、

悉く夢なければ自性無病なるが故に

病に罹らんと欲するも

病に罹ること能わず、

悉く夢なければ本来永生なるが故に死滅すること能わず。

されば地上の人間よ

心を尽して自己の霊なる本体を求めよ、

これを夢と妄想との産物なる物質と肉体とに求むること勿れ。

キリストは

『 神の国は汝らの内にあり 』と云い給えり。

誠に誠にわれ汝らに告げん。

『 汝らの内 』とは汝ら『 人間の自性 』なり、『 真の人間 』なり。

『 汝らの内 』即ち『 自性 』は神人なるが故に

『 汝らの内 』にのみ神の国はあるなり。

外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして

永遠に神の国を得る事能わず。

物質に神の国を追い求むる者は

夢を追うて走る者にして

永遠に神の国を建つる事能わず。

キリストは又云い給えり、

『 吾が国は此の世の国にあらず 』と。

此の世の国は唯影にすぎざるなり。

常楽の国土は内にのみあり、

内に常楽の国土を自覚してのみ

外に常楽の国土は其の映しとして顕現せん。

内に無限健康の生命を自覚してのみ

外に肉体の無限健康は其の映しとして顕現せん。


人間の五官はただ『 映しの世界 』を見るに過ぎず。

『 映しの世界 』を浄めんと欲すれば心の原版を浄めて

迷の汚点を除かざるべからず。

われ誠に物質の世界の虚しきを見たり、

物質の世界が影に過ぎざることを見たり。

われはまた人間が神より放射されたる光なる事を見たり。

肉体はただ心の影なる事実を見たり。

汝ら、物質は移りかわる影にすぎざること

恰も走馬灯に走る馬の如し。

されば、影を見て実在となすことなかれ。

人間真性はこれ神人、

永遠不壊不滅の霊体にして

物質をもって造り固めたる機械にあらず、

また物質が先ず存してそれに霊が宿りたるものにもあらず、

斯くの如き二元論は悉く誤れり。

物質は却ってこれ霊の影、心の産物なること、

恰も繭が先ず存在して蚕がその中に宿るには非ずして、

蚕が先ず糸を吐きて繭を作り

繭の中にみずから蚕が宿るが如し。

人間の真性は先ず霊なる生命にして

心の糸を組み合せて肉体の繭を造り

その繭の中にわれとわが霊を宿らせて、

はじめて霊は肉体となるなり。

汝ら明かに知れ、繭は蚕に非ず、

然らば肉体は人間に非ずして、

人間の繭に過ぎざるなり。

時来らば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、

人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。

汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿れ。

人間は生命なるが故に

常に死を知らず。

想念に従い

時に従い

必要に従いて

肉体と境遇とに様々の状態を顕せども、

生命そのものは病むに非ず、

生命そのものは死するに非ず、

想念を変うることによって

よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり。

されど汝ら、

ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。

かくの如きとき、

生命は肉体の繭を食い破って

一層自在の境地に天翔らん。

これをもって人間の死となすなかれ。

人間の本体は生命なるが故に

常に死することあらざるなり。


ー かく天使語り給うとき、

虚空には微妙の天樂の声聞え

はなびらは何処よりともなく雨ふりて、

天の使いの説き給える真理をば

さながら称うるものの如くなりき。


( 聖経終 )



願わくは此の功徳を以て普ねく一切に及ぼし、

我等と衆生と皆倶に実相を成ぜんことを。





























聖経 甘露の法雨  ⑦ 罪

2013-07-01 08:00:00 | 聖経

    罪

『 罪は実在なりや?』とまた重ねて天の童子は問う。

天使の答うる声聞えて曰く、

すべて真実の実在は、

神と神より出でたる物のみなり。

神は完全にして、

神の造りたまいしすべての物も完全なり。

しからば問わん。汝は罪を以て完全となすや?

此の時天の童子答えて曰く ー

『 師よ、罪は完全に非ず 』と。

天使また説き給う ー

罪は不完全なるが故に実在にあらず、

病は不完全なるが故に実在にあらず、

死は不完全なるが故に実在にあらず、

汝ら神の造り給わざるものを実在となすなかれ。

在らざるものを悪夢に描きて恐怖すること勿れ。

罪と病と死とは

神の所造に非ざるが故に

実在の仮面を被りたれども

非実在なり、虚妄なり。

我れは此の仮面を剥いで

罪と病と死との非実在を明かにせんが為に来れるなり。

嘗て釈迦牟尼如来もこの為に来りたまえり。

嘗てイエスキリストもこの為に来りたまえり。

若し罪が実在ならば

十方の諸仏もこれを消滅すること能わざるなり。

イエスキリストの十字架もこれを消滅する事能わざるなり。

されど汝ら幸いなるかな、

罪は非実在にして迷の影なるが故に、

十方の諸仏も

衆生を摂取してよく罪を消滅したまえり。

イエスキリストも

ただ言葉にて『汝の罪赦されたり』と云いてよく
 
 罪を消滅したまえり。

われも言葉にて

『 生長の家の歌 』を書かしめ、

言葉の力にて罪の本質を暴露して、

罪をして本来の無に帰せしむ。

わが言葉を読むものは

実在の実相を知るが故に

一切の罪消滅す。

わが言葉を読むものは

生命の実相を知るが故に

一切の病消滅し、

死を越えて永遠に生きん。











聖経 甘露の法雨  ⑥ 無明

2013-07-01 07:00:00 | 聖経
 
    無 明

かく天使生長の家にて歌いたまう時、

一人の天の童子あらわれて問いを設けて云う。

『願わくは人々のために、人々のさとりのために、

  無明の本質を明かになしたまえ』と。

天使答えて云う ー

無明はあらざるものをありと想像するが故に無明なり。

真相を知らざるを迷と云う。

快苦は本来物質の内に在らざるに、

物質の内に快苦ありとなして、

或は之を追い求め、

或は之より逃げまどう、

かかる顛倒妄想を迷と云う。

生命は本来物質のうちにあらざるに

物質の内に生命ありとなす妄想を迷と云う。

本来物質は心の内にあり。

心は物質の主にして、

物質の性質形態はことごとく心の造るところなるにもかかわらず、

心をもって物質に支配さるるものと誤信し

物資の変化に従って

憂苦し懊悩し、

われとわが生命の円満完全なる実相を悟ることを得ざるを迷いと云う。

迷は真実の反対なるが故に無明なり。

迷は実在に反するが故に非実在なり。

迷若し実在するものならば

迷より生じたる

憂苦も懊悩もまた実在ならん。

されど、迷は実在の虚なるが故に

憂苦も懊悩もただ覚むべき悪夢にして実在には非ざるなり。







聖経 甘露の法雨  ⑤ 智慧

2013-07-01 06:00:00 | 聖経

    智 慧

智慧はこれ本来神のひかり、

実在に伴う円相的光なり、

それは無量光、無辺光にして局限なし、

局限なきが故に

一切のものに満ちて

一切のものを照し給う。

人間は光の子にして常に光の中にあれば

暗きを知らず、

躓きを知らず、

さわりを知らず、

かの天人が天界を遊行するが如く

また海魚が水中を遊泳するが如く

光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。



智慧はこれ悟りの光にして、

無明の暗を照破する真理なり。

真理のみ実在、

無明はただ悟らざる真理にして

これを喩えば悪夢の如し。

汝ら悪夢を観ることなかれ。

悟れば忽ち此の世界は光明楽土となり、

人間は光明生命なる実相を顕現せん。


神は無量光、無辺光の智慧、

かぎりなき善、

かぎりなき生命、

一切のものの実質、

また一切のものの創造主、

されば神は一切所に遍在し給う。

神は遍在する実質且つ創造主なるが故に

善のみ唯一の力、

善のみ唯一の生命、

善のみ唯一の実在、

されば、善ならざる力は決して在ることなし、

善ならざる生命も決して在ることなし、

善ならざる実在も亦決して在ることなし。

善ならざる力即ち不幸を来す力は畢竟悪夢に過ぎず。

善ならざる生命即ち病は畢竟悪夢に過ぎず。

すべての不調和不完全は畢竟悪夢に過ぎず。

病気、不幸、不調和、不完全に積極的力を与えたるは吾らの悪夢にして、

吾らが夢中に悪魔に圧えられて苦しめども

覚めて観れば現実に何ら吾らを圧える力はなく

吾と吾が心にて胸を圧えいるが如し。

まことや、悪の力、

吾らの生命を抑える力、

吾らを苦しむる力は

真に客観的に実在する力にはあらず。

吾が心がみずから描きし夢によって

吾と吾が心を苦しむるに過ぎず。

仏の道ではこれを無明と云い

神の道ではこれを罪と云う。

完全円満の生命の実相をさとらざるが故に無明と云う。

完全円満の生命の実相を包みて顕現せしめざる故に罪けがれと云う。







聖経 甘露の法雨  ④ 実在

2013-07-01 05:00:00 | 聖経

    実 在

天使また続いて説き給わく ー

実在はこれ永遠

実在はこれ病まず、

実在はこれ老いず、

実在はこれ死せず、

この真理を知ることを道を知ると云う。

実在は宇宙に満ちて欠けざるが故に道と云う。

道は神と倶にあり、

神こそ道なり、実在なり。

実在を知り、実在に住るものは、

消滅を超越して

常住円相なり。


生命は生を知って死を知らず。

生命は実在の又の名、

実在は始めなく終りなく、

滅びなく、死なきが故に、

生命も亦始めなく、終りなく、

滅びなく、死滅なし。

生命は時間の尺度のうちにあらず、

老朽の尺度のうちにあらず、

却って時間は生命の掌中にあり。

これを握れば一点となり、

これを開けば無窮となる。

若しと思う者は忽ち若返り、

老いたりと思う者は忽ち老い朽つるも宜なるかな。

空間も亦決して生命を限定るものにはあらず、

空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず、

生命は主にして空間は従なり。

空間の上に投影されたる

生命の放射せる観念の紋、

これを称して物質と云う。

物質は本来無にして

自性なく力なし。

これに性質あり、

また生命を支配する力あるかの如き観を呈するは

生命が『認識の形式』を通過する際に起したる『歪み』

なり。

汝ら、この『歪み』に捉われることなく、

生命の実相を正観せよ。

生命の実相を知る者は

因縁を超越して生命本来の歪みなき円相的自由を

獲得せん。



聖経 甘露の法雨  ③ 物質

2013-07-01 04:00:00 | 聖経

    物 質

汝ら感覚にてみとむる物質を

実在となす勿れ。

物質はものの実質に非ず、

生命に非ず、

真理にあらず、

物質そのものには知性なく

感覚なし。

物質は畢竟『無』にしてそれ自身の性質あることなし。

これに性質を与うるものは『心』にほかならず。

『心』に健康を思えば健康を生じ、

『心』に病を思えば病を生ず。

そのさま恰も

映画の舞台面に

力士を映せば力士を生じ

病人を映せば病人を生ずれども、

映画のフィルムそのものは

無色透明にして本来力士も無く

病人も無く

ただ無色透明の実質の上を蔽える

印画液によりて生じたる色々の模様が、

或いは力士の姿を現じ、

或いは病人の姿を現ずるが如し。

されど健康なる力士も

虚弱なる病人も

印画液の作用によりて生じたる

影にして実在に非ず。

汝ら若し活動写真の映写機に

印画液によりて生じたる色々の模様なき

無色透明のフィルムをかけて

舞台面にこれを映写すれば、

やがて老いて死すべき健康なる力士もなく

虚弱なる病人は無論なく

ただ舞台面にあるものは光明そのもの、

生命そのものにして

赫灼として照り輝かん。

汝ら今こそ知れ、

汝らの『生命』は健康なる力士の生命以上のものな

ることを。

如何なる健康なる力士も

彼が肉体を実在と観、

肉体即ち彼なりと観る以上は

彼は滅ぶる者にして真の『健康』に非ざるなり。

真の『健康』は物質に非ず、肉体に非ず、

真の『生命』は物質に非ず、肉体に非ず、

真の『汝そのもの』は物質に非ず、肉体に非ず。

物質の奥に、

肉体の奥に、

霊妙きわまりなく完全なる存在あり。

これこそ神に造られたる儘の完全なる『汝そのも

の』にして、

常住健康永遠不滅なる『生命』なり。

汝ら今こそ物質を超越して

汝自身の『生命』の実相を自覚せよ。




聖経 甘露の法雨  ② 霊

2013-07-01 03:00:00 | 聖経

    霊

感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず。

汝ら霊眼を備えて霊姿を視るとも

実在を視たるに非ず、

感覚にて視得るものは

すべて心の影にして第一義的実在にあらず、

霊姿に甲乙あり、

病める霊あり、

苦しめる霊あり、

胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、

心臓も有たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、

これすべて迷なり。

斯くの如き霊、人に憑れば

憑られたる人或いは胃病を顕わし、

或は心臓病を顕わす。

されど霊覚に映ずる

さまざまの苦しめる霊は、

第一義的実在にあらず、

彼らは誤れる信念によりて

流転せる迷の影なり。

迷い迷いて流転せる心は

その信念が形となりて仮の相を現ずべし。

されど如何に相を現ずるとも

仮相は永遠に仮相にして実在となることを得ず。

汝ら、実在にあらざる物を恐るること勿れ、

実在にあらざる物を実在せるが如く扱うこと勿れ。

実在にあらざる物には実在をもって相対せよ。

真にあらざるものには真をもって相対せよ。

仮相に対しては実相を以て相対せよ。

闇に対しては光をもって相対せよ。

非実在を滅するものは実在のほかに在らざるなり。

仮相を破るものは実相のほかに在らざるなり。

虚妄を壊するものは真理のほかに在らざるなり。

闇の無を証明するものは光のほかに在らざるなり。

彼らに生命の実相を教えよ。

彼らに生命の実相が神そのものにして完全なる事を教えよ。

神はすべてなるが故に

神は罪を作らざるが故に

神のほかに造り主なきが故に

此の世界に犯されたる罪もなく

報いらるべき罪もなきことを教えよ。

三界の諸霊

三界の諸生命

この真理を観じ、

この真理をさとりて、

一切苦患の源となるべき

顛倒妄想を摧破すれば、

天界の諸神ことごとく真理の合唱を雨ふらし

現世の生命ことごとく光りを仰ぎ、

惑障ことごとく消滅し、此世はこの儘にて光明

世界を示現せん。






聖経 甘露の法雨  ① 神

2013-07-01 02:00:00 | 聖経

   神

或る日天使生長の家に来りて歌い給う ー

創造の神は

五感を超越している、

六感も超越している、



至上

無限

宇宙を貫く心

宇宙を貫く生命

宇宙を貫く法則

真理

光明

智慧

絶対の愛。

これらは大生命 ー

絶対の神の真性にして

神があらわるれば乃ち

善となり、

義となり、

慈悲となり、

調和おのずから備わり、

一切の生物処を得て争うものなく、

相食むものなく、

病むものなく、

苦しむものなく、

乏しきものなし。


神こそ渾ての渾て、

神は渾てにましまして絶対なるが故に、

神の外にあるものなし。

神は実在のすべてを蔽う。

存在するものにして

神によって造られざるものなし。


神が一切のものを造りたまうや

粘土を用い給わず、

木材を用い給わず、

槌を用いたまわず、

鑿を用いたまわず、

如何なる道具も材料も用い給わず、

ただ『心』をもって造りたまう。

『心』はすべての造り主、

『心』は宇宙に満つる実質、

『心』こそ『全能』の神にして遍在したまう。


この全能なる神、

完全なる神の

『心』動き出でてコトバとなれば

一切の現象展開して万物成る。

万物はこれ神の心、

万物はこれ神のコトバ、

すべてはこれ霊、

すべてはこれ心、

物質にて成るもの一つもなし。

物質はただ心の影、

影を見て実在と見るものはこれ迷。

汝ら心して迷に捉わるること勿れ。


汝ら『実在』は永遠にして滅ぶることなし。

『迷』は須臾にして忽ち破摧す。

『実在』は自在にして苦悩なし

『迷』は捉われの相にして苦患多し。

『実在』は真理、

『迷』は仮相、

実在は五官を超越し

第六感さえも超越して

人々の感覚に映ずることなし。




『 七つの灯台の点灯者 』 の神示

2013-07-01 01:00:00 | 聖経

     ○

汝ら天地一切のものと和解せよ。

天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。

天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。


汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に冒されたりするのは

汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。


われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献ぐるとき先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。

汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。

神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。

天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である。

本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。

怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。

感謝し合ったとき本当の和解が成立する。

神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。

天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波を能う受けぬ。

皇恩に感謝せよ。

汝の父母に感謝せよ。

汝の夫又は妻に感謝せよ。

汝の子に感謝せよ。

汝の召使に感謝せよ。

一切の人々に感謝せよ。

天地の万物に感謝せよ。

その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。

われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。

われは此処に見よ、彼処に見よと云うが如くにはいないのである。

だからわれは霊媒には憑らぬ。

神を霊媒に招んでみて神が来ると思ってはならぬ。

われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。

われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。

        
( 昭和六年九月二十七日夜神示 )


     ○

時が来た。

今すべての病人は起つことが出来るのである。

最早、あなたにとって病気は存在しない時が来たのである。

二千年前、キリストが『 汝の信仰によって汝の信ずる如くなれ 』と云う唯一語で、

遠隔の地にいる病人を癒した其の真理が、すべての人類に開顕される時期が来たのである。

『 生長の家 』を読み真理を知るだけで遠くにいて病気が治る事実を見よ。

『 生長の家 』は今かの黙示録が予言した『 完成(ななつ)の灯台 』として人類の前に臨むのである。

此の灯台より真理の光を受くるものは、創世記のエデンの楽園追放以後、

人類を悩ましたところの『 罪 』と『 病 』と『 死 』との三暗黒を消尽するのである。

光が近付くときすべての暗黒は消える。

『 真理 』が近付く時、すべての『 迷い 』が消える。

『 迷い 』が消える時、『 迷い 』の産物なる『 罪 』と『 病 』と『 死 』とは消える。

疑わずに吾が光を受けよ。

われは『 完成(ななつ)の灯台 』に灯を点ずるものである。


           ( 昭和六年一月十五日神示 )







招神歌(しょうしんか)

2013-07-01 00:00:01 | 聖経

生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸え給え。


吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命。


吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能。


天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家の大神守りませ。