眼鏡(めがね)が毀れたので、人がその眼鏡を使わなくなったらもうその人間は
死んだのだと考えたら間違である。眼鏡が毀れた後も人間は生きている。
その如く肉体が傷ついた場合に痛みを感ずるのは、「 人間 」 の道具である肉体の
故障を告知して、その修繕作業を内部からも外部からも営(いとな)ましめるための
信号なのである。人間そのものが苦しんでいるのでも何でもないのである。
若(も)し、この故障を告知する 「 苦痛 」 の感じがなかったならば、
吾にはどんなに出血していても手当を加えることなしに全身の機構が壊滅に
帰してしまうのである。
『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 十四日の法語 谷口雅春先生