人間に内在する神の国は、放送局から放送されているプログラムのように
現に茲(ここ)にあるのである。
しかし 「 茲にある 」 と単に知ったり思ったりするだけでは、
放送のプログラムが現実にならないのと同じように、
単に本を読んでわかっただけではいかぬのである。
その通りに動き出さないと可(い)かぬ。
この動き出すことを 「 行持(ぎょうじ) 」 と云うのである。
道元禅師は 「 発心(ほっしん)修行、菩提涅槃(ぼだいねはん)、
しばらくの間隙(かんげき)あらず、行持道環なり 」 と云っていられる。
発心と云うのは道に志すことである。
何故(なぜ)、道に志すかというと、すべての人の生命の中には
「 仏の生命(いのち) 」 即ち 菩提涅槃(さとりそのもの)が
既に内在しているからである。
『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 十二日の法語 谷口雅春先生