キリストは
「 二人の主(しゅ)に仕うること能(あた)わず 」
といったのである。
一事を成就するためには
他のすべてを犠牲にする覚悟がなくてはならない。
しかし 一事が成就されたら、
その他の欲するものも
自ずから獲得し得るのである。
蒔(ま)かぬ種は生えぬ。
蒔いた種は 刈りとらなければならぬ。
善き種を蒔くことは
善き収穫を得ることの前提である。
善き人格の種を蒔けば
善き運命が刈りとられるのである。
想(おも)い、言葉、行いは
すべて種となるものである。
すべての想いと言葉と行いとは
一種の惰力をもっていて、
それは結局 形をつくる力となるのである。
習慣がそれである。
善き習慣をつくれば
その次には努力なくして善きものが造られる。
『 生長の家 』 誌 昭和二十四年七月号
「 困難の受け方に就いて 」 三十日の法語 谷口雅春先生