次には 或る問題について 神の示(しめ)しを受ける一つの思念法を お話し致しましょう。
( 神示と言いましても 霊聴 又は 霊視的に神示が来るとは限らないので、
「 神は総(すべ)て 」 でありますから、神想観と共に全体の事件がひとりでに廻転して
よき解決に導いてくれることもあります。 )
先(ま)ず 招神歌(かみよびうた)四首(よんしゅ)を 黙誦 又は 朗誦したる後(のち)、
「 実相を観ずる歌 」 を数回 心に念じて、自己の心を無限の平和に置き、
「 神に於(おい)て 吾れすべての物と一体である。
吾れ すべてのものと和解し、吾れ すべてのものを赦したのである。
吾れ すべてのものとの間に怒りもなく、憎しみもなく、完全に平和であり、
本来の一体に帰ったのである。 」
こう繰返し三、四回念じて、少しの怒りも憎しみも不安も恐怖もない、
本来一体の平和の心境にジーッと坐(ざ)することにします。
そして その心境に達したとき、
「 吾れ すべての物と一体であるから、すべてのもの 吾(わ)がために動き、
すべての智慧 吾がために導くのである。 」
こう繰返し、繰返し念じつつ 宇宙に満つる無限の智慧と一体であるとの
感(かん)を充分に起して、やがて
「 必ず神は 吾がために必要な 智慧 と 動き とを与え給うものである 」
との深き大安人(だいあんしん)の期待の心を起し、
その神の導きに 吾がすべてを没入し切った心持(こころもち)を
ふかぶかと 心の中に起してから神想観を終り、
それが就寝前であれば、まかせ切った気持で安心して寝てしまう、と
翌朝以後に 神の導きが、智慧の上にあらわれて来るのであります。
諸君の願いが 他を害しない願いであれば、この神想観中、
自分自身を良化するための導きであろうとも、決して遠慮することなく、
神に呼びかけて差支えないのであります。
自己の希望を 神の大腹中(だいふくちゅう)に安坐(あんざ)させた気持になり、
われが天地そのものであり、天地全体が その希望実現のために動き出している、
天地全体の力が 吾(われ)に生きている という心境になるのであります。
かくの如き心境になり、万物と調和 し、神と調和した念(ねん)になる限り、
吾等(われら)に善き事の実現しない道理(どうり)はないのであります。
神は 決して神の子たる吾々の願いを拒絶し給うことはないのであります。
新編 『 生命の實相 』 ( 第14 巻 観行篇 「 神想観実修本義 」 上 101頁~103頁 )
谷 口 雅 春 先 生