さて いよいよ 自分の心の王国を 支配すべき方法論に 入(い)るべき順序となったのである。
吾々は 理想としては 恐怖(きょうふ)や怒(いか)りや嫉妬(しっと)や憎(にく)みの感情に
捉(とら)えられないようにしなければならぬ。
それには これらの激情(げきじょう)が催(もよお)して来た時に、
自分は 今 悪徳(あくとく)の断崖(だんがい)より堕(お)ちようとするのである。
再び かかる危険を冒(おか)すまいと思って、断崖の 今 一歩 の所で
踏(ふ)みとどまるべき ストア的の方法のあることは 既にのべた。
( 六ページ以降 ) ※ ストア的 ・・・ 克己的。禁欲的。
しかしながら 今 一層 根本的な方法が あるのである。
そもそも かかる色いろの悪感情が 起(おこ)るところの根本原因をしらべてみると、
唯(ただ)一つ恐怖の感情に 還元(かんげん)することが出来るであろう。
自分の存在が おびやかされる事を恐れるから、吾々は 腹がたつのである。
負けるかも知れぬと恐れるから、吾々は 嫉妬するのである。
彼が 自分に害を加えるであろうことを 恐れるから憎むのである。
だから この恐怖の感情一つを とり去ってしまえば、一切の悪感情は
指揮者(しきしゃ)のない雑兵(ぞうひょう)のように
木端(こっぱ)微塵(みじん)に散ってしまうのである。
ところが この恐怖の感情は 自分と神と一体である、自分は 大宇宙(だいうちゅう)とともに
生きている、たとい 外見(がいけん)は如何(いか)に見えようとも、
あらゆる事物(じぶつ)が 渾然(こんぜん)として 自分自身の生長のためのみに
運行しているという根本観念が、心の奥底(おくそこ)に植えつけられさえすれば
自然に消滅してしまうべき性質のものであるのだ。
ゲーツ教授は 毎日一時間 乃至(ないし)一時間半を費(ついや)して、
心の 最も楽しく幸福な愛他的(あいたてき)な感情を喚起(かんき)して
これを持続する勤行(ごんぎょう)を続けよ と言った。
「 生長の家 」 では 就寝前(しゅうしんぜん)十分間、時間が許(ゆる)せば
三十分でも一時間でも、合掌(がっしょう)静坐(せいざ)瞑目(めいもく)して、
この合掌をアンテナとして 大生命(だいせいめい)が 吾(わ)れに流れ入(い)り、
吾(わ)れが それと一体となると観(かん)ずる修行(しゅぎょう)をするのである。
( 後篇(こうへん) 「 観行(かんぎょう)篇 」 参照 )
この神想観によって 吾(われ)らが 最も深い境地(きょうち)に入(い)るときは、
吾(われ)らは この世界の支配者 ( 神 ) との無限の一致に 到達するのである。
かくして 吾らが 神との無限の一致に 到達するときは たとい外見がどう見えようとも、
万事(ばんじ)万物(ばんぶつ)が自己を中心として、自己を育ててくれるために
運行しているという霊的実感(れいてきじっかん)が たましいの底の深いところから
湧(わ)きあがってくるのである。
この神秘な霊的実感に触(ふ)れるとき、吾らは 吾らに触れるすべてを、それが一見(いっけん)
どんなに 不幸な事実であろうとも、ただ そこに自分を一層 偉大に育てようとしてのみ
作用(はたら)いている 摂理(せつり)の慈手(じしゅ)を感じて、
唯(ただ)ありがたく拝(おが)まして頂くことが 出来るようになるのである。
たとい 人が 自分に侮蔑(ぶべつ)や危害(きがい)を加えようとも、
それが自分のたましいの花を ひらかす温(あたた)かい神の息吹(いぶき)と感じられ、
おのずから合掌されるようになるのである。
この境地に達するとき、吾らより恐怖の根本感情は 除(のぞ)かれる。
吾らは もはや怒りや嫉妬や憎悪の激情を抑(おさ)えたり、怺(こら)えたりする
克己的(こっきてき)修養(しゅうよう)を超越(ちょうえつ)してしまうのである。
吾らは 完全に それらの悪感情から解脱(げだつ)する。
そして あらゆるものが ただ有(あ)り難(がた)い、あらゆるものが感謝される。
「 生長の家 」 の生き方は かくの如(ごと)くして、あらゆる不幸も苦痛も迫害(はくがい)も
ただ一つの 「 聖悦(せいえつ)の坩堝(るつぼ) 」 の中で溶(と)かして
これを 自己のたましいの生長の養分に かえてしまうのである。
新編 『 生命の實相 』 ( 第 13 巻 生活篇 「 生長の家の生き方 」 下 14頁~17頁 )
谷 口 雅 春 先 生
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