最初の「決意」と言うのは、「吾れ神想観をなす。これを為し終らざれば一歩も退かず」と云う決意をなすことが必要なのである。聖書にイエスが“神の子”の悟りに入(い)り給うたときに、「四十日、四十夜、断食して、後に飢えたもう。試(こころ)むる者きたりて言う、
『なんじ若(も)し神の子ならば命じて此等の石をパンと為らしめよ』答えて言い給う『人の生くるはパンのみに由(よ)るにあらず、神の口より出(い)づる凡(すべ)ての言(ことば)に由る』と録(しる)されたり」とあるのは、
イエスが徹底的に神想観をなそうと云う決意の示しがあらわれているのだと言わなければならないのであります。
「四十日四十夜断食して後に飢えたもう」と云うのは四十日四十夜断食して神想観をした後に、飢餓感が甚(はなは)だしくなったという意味であります。「飢えたもう」と云うのは必ずしも“腹が減った”と云うような軽い意味ではありますまい。
たんに腹が減るだけなら、一二日断食しても腹は減っているのです。だからこの場合の「飢え給う」は、たまらないほど飢餓感が激しくなったことであります。
その時にサタンが出て来て、「お前はそんなに神の子だったら、此(こ)の石をパンとして食べたらどうですか」と言ったというのである。
併(しか)しイエスは「唯今(ただいま)、神想観中」と言うわけで、「神の口より出づる言葉を今受けつつあるのである」とて、そのような肉体的飢餓感の誘惑を退けて、「神の言葉」を念じつづけたのであります。
次回に続く・・・
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