☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

人間の病気は幻である

2013-10-07 09:47:51 | 今日の光明法語



肉体人間は単なる映像であるから、失うべき生命を持っていないし、実相人間は霊的実在であるから

死ぬ事はないのである。


従って肉体の方から云っても、霊的本体の方から云っても、人間は結局、病気になったり死んだりする

ものではないのである。だから人間の病気や死は結局 「 幻 」 に過ぎないのである。



それは人類の群衆意識中に存在する観念によって、共通に催眠状態にならしめている人々の心に

描かれた 「 幻 」 に過ぎないのである。 「 幻 」 を見て、病気を実在と思ってはならない。




『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 十九日の法語  谷口雅春先生






人間は遍照金剛の霊的実体である

2013-10-06 09:36:42 | 今日の光明法語


物質、肉体それ自身は、認識の形式の銀幕(スクリーン)上に映っている影である。


映画にうつっている人物に生命はないが如(ごと)く、肉眼に見えている肉体人間そのものは

実在でもなければ、生命もないのである。


肉体は自分ではなく、その奥に本当の自分(霊的自分)があるのである。


「 霊的自分 」 は 『 甘露の法雨 』 に書かれているように 「 神より出でたる光なり 」 であって、

光輝燦然(さんぜん)、遍照金剛(へんじょうこんごう)の存在である。



その光の前に想念のフィルムを回転して表現されているのが肉体人間なのである。


それは一種の映像であり、本当の自分自身ではないのである。




『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 十七日の法語  谷口雅春先生





本能は道具に過ぎない

2013-10-05 12:34:03 | 今日の光明法語


人間は物質に支配されたときには、本当に健全なることは出来ないのである。


物質は想念の反映であるから、反映を実在と思って、それに対して一喜一憂しているようなことは

想念は、益々動揺するから、その想念の反影である現象の姿は益々悪くなるのである。


人間は物質を支配したとき本当に、自分が主人公になることが出来るのである。


それには物質を心の前に出しゃばらせず、心をもって物質を支配しうるよう心掛けなければならぬ。


本能に支配されてはならない。本能を支配すべきである。


食色の本能は霊の利用する道具であって、霊によって支配すべきである。




『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 十七日の法語  谷口雅春先生






人間は全人類一体である

2013-10-04 02:39:56 | 今日の光明法語



人間は神より生れ、神の中に住み、神の生命を食し、呼吸し、永遠に死なず病まざる霊的実体である。


神は宇宙生命であり、「 渾(すべ)ての渾ての一体 」 であるから、人間もその実相に於いては

すべての人間と共通の生命を有(も)つのである。


すべてのすべてと一体である自覚を 「 愛 」 と云うのである。

すべての人類は神に於いて兄弟姉妹であるのである。


愛にそむいた思いや行為が病気を引き起すのは、自己の生命の本質を

破壊する思いであるからである。

渾てに一体である生命を自覚して愛を尽せば病いは治るのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 十六日の法語  谷口雅春先生






人間は神から生れた

2013-10-03 08:10:30 | 今日の光明法語


物質はただエネルギーが想念の影響を受けて凝縮し、それが形をあらわしたものであるから、

本来の相(すがた)はないのである。


本来ない姿が仮にあらわれているのであるから、それは無常なるものであり、

常に間断なく変化するものなのである。


かかる無常なるものから 「 神の子 」 たる人間は生れて来ると云うことはないのである。


だから 『 生命の實相 』 の実相篇には 「 未だ曾(かつ)て人間は女の子宮から生れて出たことがない 」

と明瞭に断言してある。



人間は神聖受胎であって神から生れたものである。




『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 十五日の法語  谷口雅春先生





苦痛は人間が苦しむのではない

2013-10-02 09:06:12 | 今日の光明法語


眼鏡(めがね)が毀れたので、人がその眼鏡を使わなくなったらもうその人間は

死んだのだと考えたら間違である。眼鏡が毀れた後も人間は生きている。



その如く肉体が傷ついた場合に痛みを感ずるのは、「 人間 」 の道具である肉体の

故障を告知して、その修繕作業を内部からも外部からも営(いとな)ましめるための

信号なのである。人間そのものが苦しんでいるのでも何でもないのである。



若(も)し、この故障を告知する 「 苦痛 」 の感じがなかったならば、

吾にはどんなに出血していても手当を加えることなしに全身の機構が壊滅に

帰してしまうのである。




『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 十四日の法語  谷口雅春先生






肉体は人間ではない

2013-10-01 10:43:38 | 今日の光明法語


普通の人間は肉体の脳髄がものを考え、感ずるのであると考えがちであるけれども、

肉体はただ意識のラジオ・セットにすぎないのである。



脳髄にどんな打撃が加えられようとも、肉体のどの部分に故障が起ろうとも、

意識の主体たる人間そのものは「 神の子 」 だから何ら破壊せられることなく、故障が起ることなく、

ただ毀(こわ)れたラジオ・セットに音波が起らなくなるように、その肉体は音無しくなるだけである。



眼が傷(きずつ)いたら、人間はその眼を通して見なくなる。

脳髄が傷いたら人間はその脳髄を通して考えなくなるだけである。




『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 十三日の法語  谷口雅春先生