もともとそれでよかった♡

すべては自分の中にある

全ての人と同じ目線、自分こそ大衆であるという自覚..無心で受け入れる。人間五十歩百歩、選ばれし者などいない(far)

2016-09-25 | ☆覚書
 私が人の前世を読めるようになったのにはきっかけがあった事はお話をしました。
それは自分の中の「チャンネル」或は「チューニング」が合うようになったからと言う事もお話しました。
しかしこれは最近の事です。
それまではなんとか霊能的な力が欲しい、人様なにか出来る事はないのだろうか?等思い続けてきました。

 それこそ教義だドグマだ宗教書だ、挙げ句に寺を回り禅を組んでみたり写経をしてみたり、精神性が上がる為の解説書籍を読みあさり、挙げ句には自分には何か出来るはず、人とは違った知識もある。
等など、これは今思えば思い違い、思い上がりも甚だしかったように思います。
そして人とは違うと言う、根拠の無い優越感や選民意識に浸ろうとしていたように思います。更に諸々を理解する為には上級の博識やストイックさも必要と。

もうもう赤面の至りです。

 全ての人と同じ目線、そして自分こそ大衆であると言う自覚を持ち、町行く子供や老人達の笑顔を美しいと感じ、高校生達が公園の階段に座って夜中まで騒いでいようと、出勤に慌てる女の子が電車の中で化粧をしていようと、無心で受け入れる事が出来る様になってから俄然意識が変わり物事を客観的に見る事が出来るようになった気がします。

 リーディング(アカシックへのアクセス)に取って一番に厄介な事は「自分流の教義」です。
全てを客観的に見なければならない事が絶対条件であるリーディングに少しでも断罪や嗜好の心を持てば、リーディングそのものに即支障を来してしまうように感じます。
目の前を遮るブラインドになってしまうのです。

 
 前世を読む事は、私はそう難しい事ではないと思っています。
しかし、逆を言えば今までの価値観や恋愛観、教育、イデオロギー、宗教観をいかに捨て去る事が出来るかがポイントでもある訳で、敬虔に生き道徳を重んじて日々ストイックに生きて来たのであればある程、その道が遠くなってしまうのでは、そんな事すら思ってしまいます。
元来スピリチュアル的に生きる事とストイックに生きる事とは関連性は薄いのではないか、そんな気さえするのです。


 例えば裏社会に生きる人々にさえ人格者はいると思っています。
いや、人の苦しみや恐怖を糧に生きる人たちであれば、そして望むと望まざるとに関わらずその世界に生きなければならなのであれば、なおの事むしろ多くおられるのではとさえ感じるのです。
彼らに建前はありません、私も建前のある生き方は避けたいと思っています。
そして彼らに対しても人としての敬意を持って接する事が出来るかもポイントだと思います。
人を裁くものにはリーディングの道は遥か遠く霞んでいるかもしれません。

 人間五十歩百歩、選ばれし者など居ないと肩の力を抜き脱力感を感じた時世の中が明るくなり多くを感じ取れるようになった気がします。

 街の総菜屋のおばちゃんが屈託なく「5円オマケだよ!」と言う笑顔が美しいと思えないうちは、真理だアセンションだなんてとこに行き着くには1000年も早いと思い知るのでした。


ドグマはこの際ゴミ箱行き、と言うお話でした。
今回のお話はちょっと道徳の時間?


いえいえとんでもありません。
前世を読む為の方法論に他なりません。