記憶のスクラップ・アンド・ビルド

当然ながら、その間にタイムラグがあり、
それを無視できなくなることこそ残念です。

原記憶

2009年10月10日 06時31分39秒 | Weblog
ぼくの最も古い記憶は夢で見た光景ではないかと思う。
青空が池か海になっていて、アメリカ人がボートを漕いでいた。
むこうも、こっちを見上げて笑っていた。
多分、地球が丸いと誰かから聞いたかして見た夢だと思う。
何歳のことか、全く見当が付かない。

地面に穴を真っ直ぐに掘ったらアメリカに通じると思っていたのも同じ頃だと思う。
その穴に落ちたら地球の裏側へ出るのか、中心で止まってしまうのか、分からなかった。

日本の真裏はアメリカではなく、アルゼンチンの沖合だと地球儀で確かめたのは随分後のことで、そうだったのかと思ったものだった。
今なら小学生でもニュートリノが地球を貫通すると知っていて、それをイメージとして描くことさえ出来るだろう。

他に、小学校へ上がる前の光景として思い浮かぶものはないでもないが、親から聞いたことを自分の記憶としているだけでないかと思う。
思い出そうとすれば、もっと古そうな記憶が幾つか有るが、日常に反復して再構成した可能性もあり、何時の記憶か特定できない。
七五三は憶えていない。写真を見ても自分の記憶にならない。

発達心理学には新生児健忘という概念があるらしいが、ぼくの記憶で自分の記憶だと思えるのは幼児期をずっと過ぎているらしい。
小学校1年の担任の先生は、戦争が終わって縁故疎開から東京へ戻ったときに再認できたという記憶がある。
そうした小学校時代の心像は確かに記憶だと言って良さそうで、その少し前に原記憶とでも言うようなものがあるのか、と。

地球が裏返しになって、われわれが球の内側に折り込まれているという記憶像は、あまりに荒唐無稽だから、記憶以前の記憶か、と。

それとも、もっと分かっていて、このイメージはおかしいと思い、それが何時の間にか夢で見たことになったのだろうか。
思い出すこと自体が記憶を再構成することになり、記憶は変容している可能性があるだろう。
しかし、この空の記憶は、何故か分からないが、稚拙なまま変わっていないと思う。

最新の画像もっと見る