かつて確率論の本を読んだとき、簡単な問題が紹介してあって、古典力学と量子力学で確率の値が異なるというようなことが書いて有りました。
確率はモデルがあってこそ成り立つ。
適用範囲が広く、平明なのは「壺と紅白の玉」のモデルでしょう。
壺の中にm個の紅玉とn個の白玉が入っていて、手を入れてh個掴みだしたとき、その中にx個の白玉がある確率を計算する、など。
紅白の玉は総て感触が同じで、取り出すまで区別がない。
現実には総ての玉が完全に同じと云うことはない。
人間なら、どの二人を較べてもどこか違う。
しかし、電子なら総て同じと見なすことに疑いを差しはさむことはない。
同じ筈の電子が僅かに違っているなら、その違いを説明する別の粒子がそこに有るとしなければならない。
電子が総て同じなのは、全宇宙に電子が1つしかなく、それが宇宙の果てから果てまで限りなく往復し、その断面を観測するから無数の電子が有るように見えるだけだ、とか。
無限次元の時空を切り取って、この3次元の空間と1次元の時間がどのように定まるのか。
そのようなモデルを考えるより、総ての玉が同じだというモデルの方が考え易いでしょう。
それでも、事象を構成する要素の性質が変わらないと考えることに、抵抗を感じないでいられない場合が少なくありません。
放射能の半減期の話を聞くと、いつも不思議です。
何時から測っても半減期は物質ごとに同じだとは。
無数の要素があって、それが何時崩壊するか、総ての要素について確率が同じだ、とは。
確率を説明する要素の性質として確率を用いるのだが、何かシックリしない気がします。
飲み込みが悪いだけかも知れません。
確率に限らず、総て数の概念はモデルがあってこそ成り立つ。
リンゴの大きさや色や傷の付き方など、1つ1つの違いが気になったら数えることが出来ない。
モデルの世界では総てが数である。
時間も空間も数である。
しかし、時間には時間のモデルがイメージされ、空間には空間のモデルがイメージされる。
そこで、考えれば不思議なのが、総てを説明すると期待されている筈の究極で最小の存在「超ひも」に形や大きさが有ることです。
その大きさに違いがあるなら、その違いを示す更に小さい物差しが存在しなければならない。
それは飽くまでもモデルの世界のことであるから、実際に存在しなくて良いのだろうか。
確率はモデルがあってこそ成り立つ。
適用範囲が広く、平明なのは「壺と紅白の玉」のモデルでしょう。
壺の中にm個の紅玉とn個の白玉が入っていて、手を入れてh個掴みだしたとき、その中にx個の白玉がある確率を計算する、など。
紅白の玉は総て感触が同じで、取り出すまで区別がない。
現実には総ての玉が完全に同じと云うことはない。
人間なら、どの二人を較べてもどこか違う。
しかし、電子なら総て同じと見なすことに疑いを差しはさむことはない。
同じ筈の電子が僅かに違っているなら、その違いを説明する別の粒子がそこに有るとしなければならない。
電子が総て同じなのは、全宇宙に電子が1つしかなく、それが宇宙の果てから果てまで限りなく往復し、その断面を観測するから無数の電子が有るように見えるだけだ、とか。
無限次元の時空を切り取って、この3次元の空間と1次元の時間がどのように定まるのか。
そのようなモデルを考えるより、総ての玉が同じだというモデルの方が考え易いでしょう。
それでも、事象を構成する要素の性質が変わらないと考えることに、抵抗を感じないでいられない場合が少なくありません。
放射能の半減期の話を聞くと、いつも不思議です。
何時から測っても半減期は物質ごとに同じだとは。
無数の要素があって、それが何時崩壊するか、総ての要素について確率が同じだ、とは。
確率を説明する要素の性質として確率を用いるのだが、何かシックリしない気がします。
飲み込みが悪いだけかも知れません。
確率に限らず、総て数の概念はモデルがあってこそ成り立つ。
リンゴの大きさや色や傷の付き方など、1つ1つの違いが気になったら数えることが出来ない。
モデルの世界では総てが数である。
時間も空間も数である。
しかし、時間には時間のモデルがイメージされ、空間には空間のモデルがイメージされる。
そこで、考えれば不思議なのが、総てを説明すると期待されている筈の究極で最小の存在「超ひも」に形や大きさが有ることです。
その大きさに違いがあるなら、その違いを示す更に小さい物差しが存在しなければならない。
それは飽くまでもモデルの世界のことであるから、実際に存在しなくて良いのだろうか。