プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

松谷栄司

2016-07-31 22:21:16 | 日記
1963年

北海高は今夏の甲子園大会準々決勝で久留米商に敗れて姿を消した。松谷が五回に二塁スライディングをしたとき左足をベースに引っかけ、足首を骨折して退場したのが痛かった。もし、こんなことがなかったら勝ち進んでいたかも知れない。松谷はそれくらいの力を持っている投手だ。北海道の選手は気候的なハンディからトレーニングが不足し夏の大会には意外にかんたんにへばってしまう。しかし、甲子園で見た松谷は、いままでの北海道選手にない体力と根性があった。冬の間も相当にからだをきたえたものらしい。背があり骨格もがっちりしていて、先天的に肉体的な条件にめぐまれたことも見のがせない。上背を生かして上手から投げる球はかなりスピードがあり、威力もある。しかし、どちらかといえばサウスポー特有の外角低目に流れるシュート気味の球が多い。内角の球はいわゆる切れこむ鋭さがもうひとつものたりない。この点では内角低目への角度のあるストレートを持っている林(中京商ー南海)の方が一枚上手だ。松谷の場合、シュートを生かすためにも、もっと内角球に威力をつけて、内、外角をゆさぶるコーナーワークをものにしてほしい。いまのように外角球の多いピッチングでは打者にとってもそれだけねらいやすくなり、せっかくのシュートを生かしきれない。松谷は上背のある選手のわりには腰が強いけれども、上半身はやや堅い感じがする。バック・スイングからステップに移るまでからだの力を抜くことをもうひとくふうしてほしい。投手としてのタイプはまったくちがうが、加藤(作新学院ー中日)はムチのようにやわらかく、腰も安定しているので球を離すポイントがしっかりしている。松谷の上半身にあのやわらか味がついてくれば、内角低目に切れこむ球も自然に身について、ピッチングに幅ができる。林や加藤にもいえることだが、松谷も打者と真正面から勝負して、ごまかしのピッチングをしないのは非常にいい。いまでは北海道という地理的なハンディから十分に投げこんでいるとはいえない。それだけにピッチングの時間をたっぷり持てる松谷の今後は大いにたのしみだし、また成長株といえよう。

北海高野球部長 飛沢栄三

からだは非常に大きいが人一倍さびしがり屋で、もの静かな子だった。だがいったんユニホームに着がえると見違えるように競争心を起こし、がむしゃらになる子なので、いい選手になると思った。松谷君がウチの学校(北海高)にきたのは一年の十月だった。それまでは日高の静内高にいたのだが、どうせ野球をやるのなら名門の北海高へ、ということで一家そろって札幌に引っ越してきたということだ。道大会予選の静内高の試合で、代打に出てきてそのままリリーフした一年生の松谷君を見て他の学校には補欠でもいい選手がいるもんだなと感心したものだった。その選手がその年の十月に、北海高に転入しましたから野球部に入れてください、ときたときはびっくりして声も出なかった。ことし春の選抜で、御所工に負けたとき私のところに松谷を投げさせるなという投書がたくさんきた。最初は握りつぶしていたが、あまりにたびたびくるので、いっそ本人に見せた方が刺激になっていいと思い見せたところ、その翌日から朝五時ごろからグラウンドへ出て、バックネットにマットをつくってひとりでピッチング練習をするようなシンの強い子だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

迫田七郎・辻野欣也

2016-07-31 10:59:15 | 日記
1964年

イースタンリーグ

辻野が六回まで東映を無安打に押えた。九回雑なピッチングで2点とられたが、好調なピッチングだった。昨年まではサイド気味の投球で長身(1㍍88)を生かせなかったが、ことしから上からの投法にかえたため、角度のあるストレートがでるようになった。これを東映は打ちあぐんだ。

ルーキー迫田(照国高)が四安打の完封勝ち、無敗の3勝目をあげた。迫田は四試合で自責点3とすばらしいピッチングをつづけている。田中監督も「一試合ごとによくなる。つぎに投げさせるときがたのしみだ」と目を細めている。迫田の武器は打者の手もとでストンと落ちるシンカー。しかし、これは「ちょっと握りをかえて投げると自然に落ちてしまう」と迫田はいう。植村コーチは「意識してひねったりしないから落ちる球のコントロールが実にいい。このまま育てば、研修あけには一軍にはいれるかもしれない」と三十丸をつける。東京は九回富永に大坂、小林の連続二塁打を浴びせサヨナラ勝ち引き分けをはさんで6連勝。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井上健仁

2016-07-31 10:00:38 | 日記
1963年

横浜高では夏の大会前になると学校の近所にある横浜磯子区杉田の東漸寺で座禅をくむ。きまって一番最初に悲鳴をあげるのがこの井上だ。ふつうの人の二倍もある太いモモのためすぐしびれをきらしてしまうようだ。中学時代(横浜市岡野中)から65㌔とひとなみはずれて大きく、一、二年は捕手、三年になってからは肩がいいからといって投手をやらされたところ、すぐエースにのしあがり、横浜市内の中学校第界で優勝してしまった。「すごい選手があらわれた」とさっそくこの井上をめぐって横浜高、鎌倉学園、法政二高などがプロ顔負けの争奪戦を演じたが、横浜師範出身の横浜高・笹尾監督の友人が岡野中の先生だったので、横浜高進学にきまったそうだ。笹尾監督みずから目をつけてつれてきただけに、シーズン・オフは平塚にある自分の家に下宿させ、毎日大磯の高麗山まで約10㌔をランニングで往復させて足腰を鍛えた。高校にはいってからまだ一度も正月を家で迎えたことがない井上は「どっちが自宅かわからなくなりました。野球だけが生きがいですからね」とサッパリしている。初出場というのに試合前の選手控え室では帽子をあみだにかぶり、口笛をふきならすなど強豪中京商も、この不敵な男にどぎもをぬかれていた。一度は七回杉江に右前にタイムリーを打たれて逆転されたが、九回右中間に同点のきっかけをつくる三塁打を放つなど、投打の活躍で名門中京商をひねり倒した。キャッチャー時代の投げ方が抜けきらず、押し出すような投法だが、この井上をめぐって大毎、東映などが動き出している。大毎は高見沢(二軍マネジャー)東映は浜田二軍コーチが予選から井上につきっきりだったという。上野精三氏は「腰の回転もスムーズだし、ステップも小さくて上体の移動も順調だ。腕の振りもなめらかだからピッチングそのものはムリのないフォームをしている。だがステップした左足がかたく突っ立ってしまうので、せっかくのフォームが最後でまとまらなくなってしまう。もっとからだ全体の力を抜いて、球をはなすポイントを前方におき、その一点に力を集中するようになれば、なおさらまとまったフォームになる」といっている。1㍍74、70㌔。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横山晴久

2016-07-31 09:27:37 | 日記
1971年

東映がドラフト会議で一位に指名した法大・横山晴久投手(22)=1㍍84、86㌔、右投右打、小倉工出=の入団が二十二日内定した。東映・田宮監督、瓜生スカウトは同日午後二時すぎから、北九州小倉区中井西が丘の自宅に横山をたずね入団交渉を行ったが、席上、横山は「東映でやりたい」と入団の意思をはっきり伝えた。条件面など最終的な話し合いは今月末、東京で行われる。この日の話し合いには、横山のほか母親・明子さん(47)、遠洋航海に出ている父親・哲二さん(53)の代理人として叔父の山本明さん(44)=折尾警察署勤務=と小倉工時代の野球部長・沼津敏文教諭(47)が出席した。瓜生スカウトが一位に指名したいきさつを説明したあと、田宮監督が横山投手を含めたローテーションなど、具体的なチーム事情を話した。「実際にそばで見たが、からだつきは立派だ。それにキャリアもあり、連投もできるだけのものを持っている。エースとしての素材に恵まれている。金田とともに投手陣の柱としてローテーションを組む計画を立てている」約一時間半の話し合いは、東映側の説明がおもだったが、横山はすでに一位に指名された十九日、東映入りを決めていた。「田宮監督の話はよく理解できた。たよりがいのある人だと思う。東映の高井的な態度に感謝している」と東映入りの態度を球団側に明らかにし、立ち会った叔父の山本さんも「本人がプロでやりたいという意思が強いので、なにもいうことはありません」といっており、スムーズに決定しそう。条件面など細部の話し合いは今月末、東京で行われるが、この会談には、長兄・郁夫さん(24)=東急航空勤務=と静岡県焼津市の伊藤猪之助さん(67)=父親・哲二氏の兄、船舶計器販売店=が立ち会うことになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする