プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

秋葉敬三

2018-03-16 21:28:43 | 日記
1969年

西鉄ライオンズに入団が内定していた秋葉敬三投手(22)=172㌢、68㌔、右投げ右打ち、鹿児島鉄道=の正式入団発表が、二十一日午後三時から福岡市天神の同球団事務所で行なわれた。発表には父親清三さん(62)鹿鉄のピッチングコーチ横山八郎氏が立ち会った。ライトグリーンの背広に黄と緑色のネクタイをきりりと締めた秋葉投手。色白で太いマユから受ける印象はなかなかのダンデー。カメラのフラッシュにも白い歯を見せ余裕たっぷり。国広球団社長は「目の輝きが違う。気が強そうだからきっと物になる」とホレ込んだようすだった。同投手は昨秋のドラフト会議で西鉄が11位に指名。交渉権を持っていたが、即戦力投手の必要性からシーズンに入って獲得に乗り出した。そして今月中旬、入団が決定。この日の正式発表となった。鹿児島商では下須崎選手の二年後輩に当たり、高校時代に池永(下関商)と投げ合ったこともある。池永が「いい投手だからぜひ取るように・・・」と国広社長に進言したという裏話もある。ノンプロ時代は四十二、三、四年と補強選手で都市対抗に出場。四十年には国鉄全国大会で高崎鉄道を相手に完全試合を記録。そのほか、ノーヒットノーラン・ゲームの経験も二度ある。秋葉は、さっそく同夜からライオンズの百道寮に入り、約一週間ファームで調整するが、そのあとすぐ一軍へ合流の予定。なお背番号は徳久投手の14番を譲り受け、徳久が61番となった。

秋葉投手の話 得意のタマはスピードボールだ。コントロールにも自信がある。プロ入りに踏み切った動機は、自分自身で望んでいたから入団した。目標はとにかく早くゲームに出たいことだけだ。タマの種類は上からのカーブと横からのカーブの二種類。それにシュート。スライダーをマスターするのが課題と言われています。

国広球団社長の話 金銭的な余裕がなかったから交渉を控えていたが、長足の進歩をしているので入団させた。すぐ一軍に合流させるが、勝ち星よりも来年そうそうの戦力として期待している。プロの水に早く慣れるために一軍に入れるわけだ。精神面もしっかりしているし、即戦力になってくれるに違いない。
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三橋豊夫

2018-03-16 20:52:07 | 日記
1970年

ヤクルトアトムズは二十八日午後三時から東京・日本橋の本社でドラフト二位指名の三橋豊夫(みつはし・とよお)投手(21)=日通浦和、埼玉県鴻巣商出、1㍍82、75㌔、左投げ左打ち=の入団を発表した。同投手は社会人野球界屈指の速球投手。日通・稲葉監督の引き止めを振り切ってプロ入りした逸材で、この日の入団発表には松園オーナー、内藤球団常務、実父治郎氏(52)が立ち会った。なお、背番号はかつて金田正一投手(現評論家)がつけていた「34」番。ヤクルトは安木、外山に三橋を加えた若手サウスポー三羽ガラスとして大いに期待している。

三橋は、日通・稲葉監督の秘蔵っ子。「絶対に手放さない」といっていたのを、ヤクルトは小山スカウト部長が熱心な説得でついにこの日の入団発表までこぎつけた。松園オーナーも「将来の安定が保証されている大会社の社員だからムリ押しをしないように・・・」とフロントに指示したのを、獲得したのは、三原監督から「ぜひ三橋だけはとってほしい」と強い要望が出たからだ。「三原監督ほどの人が日通にとどまるより大きな将来がひらけるというのだからわたしも途中から、三橋をどうしてもとれ・・・とフロントに指示し直したわけだ。わたしには技術のことはわからないが、いままでの新人で三橋君ほどあっさりしたすなおな性格の人物と合ったことがない」と松園オーナーは満足げ、三原監督も深いあいづちをうった。「ボクからいうことはありませんが・・・」といっていた三橋だが、質問には初めのうち立ってハキハキ答えた。途中から徳永重役に「すわって話したら・・・」といわれてはじめて腰をおろす律儀ぶりだ。「小さいころから一度はプロでやってみたかった。ヤクルトに指名されてから一か月ほど周囲の人に意見を聞きましたが、最後は自分でキッパリ決めました」強がりも照れもなく、素直だといわれる性格そのままに話の内容もストレートだ。「入団にふみ切ったのは、三原監督、中西ヘッドコーチを迎えてチームが再スタートするいいタイミングにぶつかったこともあります。タマの種類はまっすぐと、二種類のカーブ、シュートの四つですが、ノンプロではほとんどまっすぐばかりでした。プロでも若いうちから変化球でかわすピッチャーにはなりたくありません」という三橋に、三原監督も「スポーツの本質は力と力のぶつかり合いです。速いタマはわかっていてもなかなか打てるものではありませんヨ」とことばをそえた。自分で認める欠点は、「機敏性がないことです。課題といわれてきたコントロールは、一球一球ていねいに投げることと、精神の集中力を養うことで解決すると思います。といってもボクは理屈より、投げこんでからだで覚えるほうですが・・・」終始三橋のマナーは速球投手にふさわしく、なんのケレン味もなかった。
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福本万一郎

2018-03-16 20:04:29 | 日記
1973年

須賀川市から初のプロ野球選手が誕生した。同市中町、金魚店福本秀男さんの長男万一郎選手(26)=須賀川高校出身。六日に新生の日拓ホーム・フライヤーズと投手として正式契約、さっそく七日から同球団のキャンプに参加している。シュート、ストレートが武器という同選手に、球団では即戦力と期待しているが、初のプロ選手に同市民から「一日も早くマウンドへ」と声援がおくられている。

同選手はノンプロ「日拓ホーム」の投手として活躍していたが、ことし一月中旬、プロ野球「日拓ホーム・フライヤーズ」の発足でノンプロチームが解散され、実力派だけにその去就が注目されていた。「球団の条件さえよければプロに入りたい」という意思でテストを受け、合同練習にも参加、仲間五人とともにプロ入りが実現した。同選手は身長178㌢、体重71㌔、右投げで右打ち、シュート、ストレートが得意、特に伸びのあるストレートは威力があり、調子のよいときはノンプロ時代、ほとんど打ち込まれなかった。準完全試合も記録している。同球団では即戦力として期待している。小さいときから野球が大好きで、小学三年から少年野球を始め、須賀川一中、須賀川高校在学中は一年生からレギュラーとして活躍、最初は捕手と外野手をやっていたが、高校二年から投手。ノンプロの雄「オール常盤」入り。このとき同僚に、巨人からことし大洋にいった矢部選手や西鉄の阿部選手らがいた。四十五年のオール常盤解散で、静岡の「静甲いすゞ」に移籍、四十六年八月のドルショックで同チームも解散し、日拓ホームに勧誘されて入団した。元磐城高野球部監督だった常盤ハワイアンセンター観光ホテル支配人、石川成男さん(37)の二女晴美さん(26)と四十三年に結婚し、二児のパパ。石川さんも野球の虫で四十六年八月、磐城高が全国大会で準優勝を飾ったとき、約一ヶ月も甲子園に滞在し、陰の指揮者として貢献、いまでも語り草となっている人。同選手の両親も理解があり、プレーを続けられる限りがんばってほしいーと、声援している。また、陰に陽に福本選手をはげましてきた同市池上町103、鮮魚商安藤大三郎さん(39)は日拓入りのニュースに自分のことのように感激。「十年ばかり弟のような気持ちで面倒みましたが、野球センスは抜群、執念も人一倍でした。体格からして足も早く、素直な性格だった。早くプロのユニホームを着てマウンドに立つ姿を見たい」と話している。

父の秀男さんの話 息子は野球が大好きで小さいときからプロ野球選手にあこがれていました。これで望みがかない私としてもこんなうれしいことはありません。あとはプロ選手として立派なプレーをし、ファンの方にこたえてもらいたい。
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金博昭

2018-03-16 19:20:19 | 日記
1967年

中日ドラゴンズは七日午後二時、名古屋市中区栄東・中日ビル内の球団事務所でノンプロ立成佼成会の金(こん)博昭外野手(28)=1㍍66、68㌔、左投げ左打ち=の入団を発表した。同選手は攻守走三拍子そろった好選手で、即戦力として来シーズンから活躍できると期待されている。背番号は未定。発表の席には小山球団社長、東方代表代理、西沢監督、それに金選手の実兄和男氏(37)=東京都立武蔵丘高校教諭=が立ち会ったが、小山社長は「金選手はノンプロでは監督を兼任するなど、すでに出来上がった選手だから、来シーズンすぐ新戦力として大いに期待している」といい、西沢監督も「左右に打ち分ける功打者で、足も速いと聞いているので楽しみだ」と入団を喜んでいた。中日にとって三人目の新入団選手。立正佼成会からは小川、相川、そして若生投手についで四人目。

金選手は日大二高在学中、妻島(現東京オリオンズ)らとともに主力選手で、三十二年には全国高校野球選手権大会の東京都予選で決勝戦まで進出したが日大三高に惜しくも敗れ、甲子園出場は果せなかった。翌年同校を卒業後、東京六大学の明大に進学したがチャンスに恵まれず一年で中退、さらに日大に再入学したが、ここでも芽が出ず中退し、創生期の立正佼成会(三十五年六月)にはいってプレーを続けるという「野球のムシ」。当時は軟式野球だったが、チームが硬式になってからは柔軟性のあるシャープなバッティングと俊足を生かして生かして常時二、三番打者として活躍。四十年には都市対抗野球大会東京都予選では5割2分8厘の高率で首位打者の栄冠に輝いた。四十一年九月からは同チームの監督もかね、ことしの都市対抗にも4割台の打率で優秀選手に選ばれた。1㍍66、68㌔とからだは恵まれないが、野球センスのよさは小川健太郎投手の保証付きで、粘り強さも抜群。実兄和男氏の話によると「オフになると毎日、朝五時ごろ家を出て高雄山(標高600㍍)の石段を一気に駆け上がってからだを鍛えている」とのこと。金選手は「口ベタで何といったらいいか・・・。チームの足手まといにならないよう一生懸命にやります」とことば少なく話したが、「目標は中選手」だという。昭和十四年一月七日生まれで二十八歳。東京都出身。現住所は東京都杉並区成宗1-109。
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飯尾尊雄

2018-03-16 19:03:00 | 日記
1967年

巨人は丹原高校野球部飯尾尊雄投手(18)=をドラフト会議でリストアップ、交渉権をつかみ、伊藤スカウトがかねてから入団交渉を続けていたが、二十日夜、丹原町今井の飯尾選手の実家で両親の信雄さん(49)トモコさん(47)立ち会いのうえ仮契約をした。正式契約は今年中に東京の球団事務所である。飯尾投手は身長1㍍77、体重70㌔、丹原中学から丹原高に進み、高校二、三年は投手をつとめ、勝ち星にこそ恵まれなかったが本格派の投手でウエートののった速球を武器にしていた。就職は伊予銀行に内定していた。

飯尾選手の話 仮契約が終わってホッとした。巨人軍はプロ野球で最強のチームだし、覚悟を決めてがんばるつもりだ。リストアップされたときからできればプロに進みたいと思っていた。就職が内定していた伊予銀には二十一日お断りにいった。自信はないが、やれるだけやるというのがいまの気持ちだ。
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門野利治

2018-03-16 18:32:57 | 日記
1967年

近鉄の須古球団部長は、平安高・門野利治投手(18)=身長1㍍78体重70㌔、左投げ右打ち=と入団交渉のため、五日正午すぎ、京都市伏見区深草鳥居崎町の門野家をたずね、父親久男さん、母親ナオさんと門野投手をまじえ話し合った。門野は、近鉄が交渉権を獲得して交渉を開始した当時は「近鉄入り」に傾いていたが、その後交渉にあたった保井コーチと、須古球団部長の提示条件にくいちがいがあったため「こんなことでは入団できない」と法大進学を打ちだした。昨年十二月末と、ことしになってひらいた家族会議の結果も進学の意思はかわらず、この日も須古球団部長に入団をことわった。しかし、近鉄は門野獲得をあきらめず、今後もひきつづき交渉を進めていくことにしている。

法大進学か、近鉄入りかで注目されていた平安高のエース、門野利治投手(18)=身長1㍍77、体重67㌔、左投げ右打ち=の近鉄入りがきまった。正式契約は学校側(法大、平安)との了解がつきしだい行なわれる。同投手は十二日よる、京都市伏見区深草鳥居町の自宅で父親久男さん(61)母親なをさん(57)ら親類と話し合った結果、プロ入りにふみきった。門野投手は近鉄が第二回選択会議で第一位にリストアップして、交渉権を獲得。その後、平安高先輩の保井コーチが交渉にあたっていた。昨年末には条件面のくいちがいなどもあって法大進学を決め、近鉄に「進学しますから」と断った。これに対し近鉄は須古部長が交渉を引きつぎ、説得に当たった結果、まき返しに成功した。十三日近鉄・保井コーチが平安高・風間野球部長をたずねて事情を説明、その結果、ほぼ了解点に達した。
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豊倉孝治、小松時男

2018-03-16 00:40:25 | 日記
1970年

西鉄ライオンズは十六日午後三時半から福岡市天神の球団事務所で、ドラフト三位指名の豊倉孝治投手(19)=元日軽金、千葉県館山市船形620=と、七位指名の小松時男外野手=元河合楽器、東京都墨田区墨田町4-41-12=の二人の入団を発表した。ドラフト指名選手で契約したのは十二球団を通じて西鉄がはじめて。二人は十七日から平和台球場での秋季練習に参加する。背番号は未定。この日入団した豊倉投手は右投げ右打ち、身長1㍍76、体重70㌔。千葉県の安房高校を卒業後、ことし四月に日軽金に入社、十月二十五日、家庭のつごうで退社した。高校二年のとき千葉県選抜チームの一員に選ばれフィリピンに遠征、最高殊勲選手となったほか、県南部大会で木更津高、安房農高相手に二回、ノーヒットノーランゲームを記録している。真っ向から投げおろす本格派投手で速球、カーブが得意。巨人の堀内を思わせるタイプ。日軽金でも2勝をあげている。小松外野手は左投げ左打ち。身長1㍍72、体重78㌔、日大三高ー日大を経て昨年四月河合楽器に入社、ことし八月退社した。高校時代は東都六大学の本塁打王からドラフト一位で昨年東映入りした大橋と同級生。大橋が二番、小松が四番を打ち、三十七年夏と三十九年春の二回甲子園に出場している。日大時代の通算成績は打率3割7分、本塁打8本の好記録を残しノンプロでは二年連続して夏の都市対抗に出場、五番を打っている。小柄だが左右に打ち分け、ベース一周は14秒5。入団発表のあと二人は「早く西鉄のチームになれ、がん張るだけです」と決意を語っていた。青木勇三球団社長も「若い二人の入団でライオンズはふたたび若返った。これら新人たちを原動力に来年は再建ライオンズ最後の年にして優勝をめざしたい」と喜びを語っていた。
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皆木敏夫

2018-03-16 00:13:32 | 日記
1967年

巨人はこのほど、日大桜ケ丘高・皆木敏夫投手(18)=1㍍78、70㌔、右投げ右打ち=の獲得に成功した。同投手は中日が交渉権を持っていたが、進学希望が強いとみて交渉権を放棄。その後巨人が入団を打診したところ一転して巨人入りがきまったもの。皆木投手はこどものころからの巨人ファンで、二十日沢田スカウトが東京・府中市南町の皆木投手宅で話をまとめた。
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