1974年
広島・加川外野手が充実したキャンプ生活を送っている。昨年テスト生として入団、進境を認められて日南に呼ばれた。好天に恵まれ、連日の猛練習、やっと一週間目に休暇がもらえたというのに、加川だけが不服そうな表情だ。「もうくたくただ。これ以上やられると死んでしまうよ」というナインの中で、一人ケロッとして言ってのけた。「そうですか。ボクは平気ですけどね」名門・広陵高に入学したのは、佐伯がちょうど卒業していった年、一年生80人のうち早くも実力を認められて他の4人とともにベンチ入りした。ところが思いもよらぬ病魔から退部せざる得なくなった。胃かいよう。「とても野球を続けられる体じゃない」医師の宣告は冷たかった。半年もたたない一年生の夏だった。絶望に打ちひしがれる加川。無気力になりヤケにもなった。こんなとき、父真吾さんの言葉が激しく胸を打った。「なんだ、それぐらいのことで男がメソメソするな。何も野球は高校だけのものじゃない。ノンプロだって、プロだってやろうと思えばできるはずだ」治療に専念し、ようやくボールを握れるようになったのは一年生の終わりごろ。ただし軟式野球部にしか入れなかった。それから毎日、血のにじむような努力が続いた。早朝ランニング、夜の素振り300回。そしてプロ選手の分解写真を見て研究し、専門書の愛読。まだ二年生のとき、初めて広島のテストを受けたが、あっさりと一次試験で落第。だが竹内育成部長から「やる気があるのなら、来年もう一度受けてみろ」と希望の灯は消えなかった。「どうしてもプロ野球でやりたい」頭の中はプロのことでいっぱい。そしてまた一年間の苦しみが続き、一昨年秋、待望のテストに合格したのである。昨年、ウエスタンに40試合出場、打率は・202だった。いまは一軍とともに鍛えているが、オープン戦が始まるころにはまた広島に帰らされるかも知れない。それでも加川は胸を張って言った。「福本さん(阪急)を目標に、やれるところまでやってみる。オヤジも楽しみにしているんだ」
広島・加川外野手が充実したキャンプ生活を送っている。昨年テスト生として入団、進境を認められて日南に呼ばれた。好天に恵まれ、連日の猛練習、やっと一週間目に休暇がもらえたというのに、加川だけが不服そうな表情だ。「もうくたくただ。これ以上やられると死んでしまうよ」というナインの中で、一人ケロッとして言ってのけた。「そうですか。ボクは平気ですけどね」名門・広陵高に入学したのは、佐伯がちょうど卒業していった年、一年生80人のうち早くも実力を認められて他の4人とともにベンチ入りした。ところが思いもよらぬ病魔から退部せざる得なくなった。胃かいよう。「とても野球を続けられる体じゃない」医師の宣告は冷たかった。半年もたたない一年生の夏だった。絶望に打ちひしがれる加川。無気力になりヤケにもなった。こんなとき、父真吾さんの言葉が激しく胸を打った。「なんだ、それぐらいのことで男がメソメソするな。何も野球は高校だけのものじゃない。ノンプロだって、プロだってやろうと思えばできるはずだ」治療に専念し、ようやくボールを握れるようになったのは一年生の終わりごろ。ただし軟式野球部にしか入れなかった。それから毎日、血のにじむような努力が続いた。早朝ランニング、夜の素振り300回。そしてプロ選手の分解写真を見て研究し、専門書の愛読。まだ二年生のとき、初めて広島のテストを受けたが、あっさりと一次試験で落第。だが竹内育成部長から「やる気があるのなら、来年もう一度受けてみろ」と希望の灯は消えなかった。「どうしてもプロ野球でやりたい」頭の中はプロのことでいっぱい。そしてまた一年間の苦しみが続き、一昨年秋、待望のテストに合格したのである。昨年、ウエスタンに40試合出場、打率は・202だった。いまは一軍とともに鍛えているが、オープン戦が始まるころにはまた広島に帰らされるかも知れない。それでも加川は胸を張って言った。「福本さん(阪急)を目標に、やれるところまでやってみる。オヤジも楽しみにしているんだ」