プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

福島郁夫

2016-07-30 09:43:12 | 日記
1956年

十三日の東映対高橋八回戦で高橋を二安打に完封した東映の福島郁夫投手(20)は今年でプロ二年生。非力ながら速球、シュートとすばらしい出来ばえでこれからの公式戦にも大いに米川を助けそうだ。昨年熊谷高から入団、今シーズンの登板はこれで五度目だが、この日初の完投勝利投手となり三勝一敗。東映ではエース米川に続いての勝星をあげている。さる六日の対高橋六回戦にも勝利投手となったが、七回で海野にバトンを渡しているので、この日も「七回になったときこの辺が限界かと思った」そうだが、それまでの彼はスピードも豊かにインコーナーへ鋭く落ちるシュートをきめ、六回一死佐々木に中前へ打たれただけの一安打である。「真ん中をやや高目へ入ってしまって・・。打たれたのは当然です」この佐々木に九回にもふたたび安打されているが結局許した安打はこの二本だけ。「六回までノーヒット・とは知りませんでした。はじめから力を配分しようというつもりなどなく、投げられるまで投げるつもりでした。きょうは涼しかったので疲れは感じませんでしたが、暑いのはニガ手です」とこれから夏場に向かってうんざりしているという。しかし彦根での対大映六回戦に「盲腸のあたりが痛んだが投げてるうちに治ってしまった」というように細い体(五尺六寸、十七貫)に似合わぬタフなところがある。入団当初は生まれ故郷の秩父からはるばるバスで後援会が球場にくりこんできたものだが、今シーズンはこの後援会の人達の期待に十分こたえられそうだ。
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小畑正治

2016-07-30 09:24:02 | 日記
1956年

勝利のきまった一瞬、飯田は喜びをおさえ切れないようなかっこうでエッサエッサとセンターからかけつけ小畑の肩をガッシと撫ぎすくめた。マイクを持ったアナウンサー、報道陣、幾十人かが二人をとり囲んだ。カメラマンの注文も二人にはしばし聞えない。やっと我にかえった飯田は「大友君とはオールスター戦以来会っていないが、あのときのスピードとくらべたらきょうはまるで人が変わったようだ。ぼくが打ったホームランも真ン中を外角へ流れるスライダーでいつもの大友君なら打っても当然ライト方面にしか飛ばないコースだった。それがレフトへ引っぱれたんだからな。おまけにあの直前監督さんが一塁側のコーチャー・ボックスで二段モーションじゃないかと大友をけん制してくれたし、そんなことが重なって打てたのだ。死球?大丈夫さ。ぼくがヒーローになるって?冗談じゃない。こいつだよ」と小畑の肩を強くゆさぶる。ずんぐりむっくりした小畑はだまってその言葉を聞いている。「きょうの審判はセの島さんでしょう。セはパにくらべるとボール一つだけ低目のストライクをとるということを試合前監督さんから聞いたのでそれならその低目で勝負してやろうと考えていた。ところが一回トップの南村さんの1-2のとき低目いっぱいにきめたのだが島さんがとってくれない。変だと思って松井さんに聞いてみて下さいと頼んで松井さんに聞いてもらったら島さんは球一つ低くまでとるというようなことはないという返事。それがわかれば苦労して低目へボール・カウントを悪くしてもしようがないと思いカーブを多投した。それが適当に高目に浮いたり、あっちへいったり、こっちへいったりしてコントロールが悪かったのがかえってよかったと思う。千葉さんの顔を見ると急にストライクが出なくなるのにはユウウツだった」という。若い若いといわれながらプロ四年生。一昨年も日本シリーズに出場して六回まで2-1とリードしていたが後半逆転されたという経験もある。呉三津田高出身、巨人広岡選手の後輩に当たる。五尺六寸五分、十九貫五百、趣味はまったく何もない。二十三歳。
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円子宏

2016-07-30 09:00:58 | 日記
1955年

南海の新人円子投手は対大映十六回戦に勝利投手になり12勝1敗。その勝率九割二分三厘は両リーグ最高で、その健闘は南海の「首位」に大きく貢献している。彼のピッチングを小西得郎氏はこうみる。「外角低目の速球がスライダー気味によくのびるし、打者の肩口から内角低目へ落ちるドロップが大きく、新人の中では図抜けた投手といっていい。とくに外角低目の速球はA級だ。欠点はシュート、とくに落ちるシュートがないことだろう。だが外角直球とドロップのコンビネーションがいいから日本選手権で相見えるかもしれない巨人の打者も中村、円子あたりの継投には注意する必要がある。
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島本講平

2016-07-30 06:03:21 | 日記
1971年

南海・高野線の中モズ駅からなんば行きの電車に乗り込んだ一人の青年。その右手には、ハンサムでスマートな姿とはおよそそぐわない鉄のかたまりがぶらさがっている。5㌔の鉄アレイだ。じろじろ見つめる周囲の目も気にせず約二十分間、どんなに空席があっても立ったままだ。南海の星とさわがれた島本選手の最近の毎日である。二刀流から打者一本でスタートした島本の野球人生は、もう二か月になるのにまだつぼみもついていない。ファームでの成績は八十六打数二十二安打、二割五分六厘、本塁打一本と期待されたほどではない。「右腕の弱さが一番の欠点だ。このため打球にも鋭さがなく、内角球にはほとんどつまってしまう」という岡本二軍監督。その右腕のパンチをつけるために考え出した鉄アレイ持ちだ。「こんな格好の悪いこと出来るかい。いっそのことドブに投げ捨ててしまいたい」と何度も思ったそうだが、しかし、そんなことではバッターとして生きていくことは出来ないと考え直した。いまでは「鉄アレイを持って歩く自分の姿が誇らしく思えてきた」という。しかし、外野か一塁かまだポジションも決まっていない。大阪球場でのゲームには全部ベンチ入りさせるという球団の方針もいまは「じっくりと育てる」に変ってはずされている。ベンチ入りしたのは四月当初だけ。その間二試合に代打に出てノーヒット。阪急・山田には内角をピシャリと速球を決められ三振、近鉄・太田との対決は球威に負けて平凡な遊飛。「山田さんの下からピューンとくる球はとても打てる気がしませんでした。一からやり直しです。いまはガムシャラに練習するだけです。二軍といってもやはりプロは違います」言葉は少ないが、自分自身へのきびしさが感じられる。球団は「球をとらえるセンスは天性のものがある」(沼沢コーチ)長所を伸ばしながら、いまでもファンレターが日に二十通は来るという人気を考えて一軍ベンチ入りをオールスター後においている。鉄アレイを持って歩く島本、その苦労がいつ実るだろうか。
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阿部成宏

2016-07-29 20:33:13 | 日記
1971年

巨人・阿部成宏外野手が、二十九日福島県営球場で行われたイースタン・リーグ対大洋戦で、自己の記録を更新する三十一試合連続安打をマークした。これは昨年七月二十四日の対大洋戦以来の二年越しの記録。阿部は「記録より早く上にいきたいです」と一軍への意欲をのぞかせている。小さいだけでも投げづらいのに足が速いときている。投手にとってこんないやなタイプもないだろう。三十一試合連続安打の打球は二塁ベースの右にころがった当たり。飯塚から佐藤一へのボールがわたったときには、もう阿部は三歩ほど一塁ベースをかけ抜けた。「別に記録のことは意識していませんが、ヒットが出るに越したことはない。できるだけヒットを多く打ち、一軍入りの材料にするのがぼくらファーム選手ですよ」何をやらせても目立たない地味な存在だ。三十九年に大洋へはいり、昨年トレード会議で巨人へ。大洋時代は投手だったから、打者になってまだ二年しかたっていない。ことしのキャンプでは宮崎へ参加したが、司令塔のスピーカーから川上監督の「アベ、アベ」という声がさかんに聞かれた。一軍の選手と比べまずいプレーが目立っていた。また見方をかえれば、川上監督ら首脳陣が、それだけ期待をもって目を向けていたことにもとれる。だがONといっしょのプレーにいささか気おくれしたのか「やはりバッティング以外のいろいろなことに気をつかってしまった」とキャンプなかばでファームへ回された。約1か月半のファーム暮らし。いまではすっかり気持ちも落ちついてきている。巨人の外野陣は高田、末次、柴田とがっちり固まり、控えも萩原、広野、柳田とそろっているのでなかなか一軍入りはムリだが、早くて六月、おそくてもオールスター前には一軍入りをしたという。中尾二軍監督はこんな阿部を「いまは器用さだけでヒットを打っている。ファームではこれで通用するが、真シンでとらえるヒットが毎試合二本はコンスタントに出るようにならなくてはなかなか・・・」この二十三日に東京・世田谷のマンションに引っ越したばかり。「がんばらなくっちゃ。借金が大変なんですよ」一軍入りをめざして懸命だ。
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チャンス

2016-07-29 19:34:23 | 日記
1969年

アトムズ入りした前リッチモンド(ブレーブスのファーム、3A)のロバート・チャンス一塁手兼外野手(29)=1㍍90、96㌔、右投左打、ウィリアム・ジェームズ高出=は、三十日午後二時四十五分羽田着のPAA機でケリー夫人(24)長男アンソニー君(四つ)長女サマンサちゃん(二つ)とともに来日した。空港でアトムズ・内藤常務、小川渉外部長らの出迎えを受けたあと、東京・新橋の第一ホテルに落ちついた。三十一日は午前中・東京・日本橋本町のヤクルト本社に松園オーナーをたずね、来日のあいさつをする。初練習は一日午後三時から神宮球場で行う。二日の大洋戦(神宮)からベンチ入りの予定。

プロ・レスラーを思わせる堂々としたからだ。だが長旅のうえ税関で一時間も足どめをくい、いかにも疲れたようす。低い声で記者会見。

ーなぜ日本でプレーする気になったのか。
「アトムズから熱心に誘われたし、ワイフも日本にぜひいきたいというものだから・・・。アメリカでプレーができなくなったわけではない」
ー日本の野球に対する知識は?
「なにもない。スチュアート(前大洋)に聞いたことがあるが、くわしいものではなかった」
ー後半戦だけだが、どの程度の成績を考えているか。
「ストライク・ゾーンも違うし、投手の球も違うと思う。だから、それになれないうちは目標などいえない」
なかなか慎重な構え。受け答えする態度もまじめそのものだ。
ーアトムズの監督は練習が大好きだが、ついていけるか。
「(ニヤニヤ笑って)あまりいい知らせではないね。しかし、どんな練習でもへこたれない」
ーいつごろから出場するつもりか。
「七日までリッチモンドでプレーして、調子がよくなったところで日本にきた。だから一日か二日の練習でオーケーだ。できれば一塁をやりたい」
今シーズン、リッチモンドでの成績は二割五分五厘、4ホーマー、25打点。代打が多かった。六一年プロ入り、六三年インディアンス入りしたあと、大リーグと3Aを往復し、大リーグ通算成績は二百四十五試合で二割六分五厘、21ホーマー。昨年はセネタースのファーム3Aバッファローで二割九分三厘、29ホーマーの成績を残している。
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柿本実

2016-07-29 19:20:09 | 日記
1969年

二ケタ以上のヒットを打たれながら、完封勝ち。今シーズン、両リーグを通じても見当たらないちゃめっ気たっぷりの柿本らしい珍記録?

だった。失礼だが、思いもかけない、という表現がピッタリだろう。今季大洋戦初先発のマウンドも、伊藤が発熱で急におはちがまわってきたもので、柿本自身「打順がオレに一回くらいまわってくればめっけもの」というくらいの自信のなさだったから、話がはずむのも無理はない。盛んに「びっくりしてもうて」を連発する。びっくりしたのは完封された大洋の方だっただろうが「六回ごろから、これはひょっとしたら」と気持ちを締め直したそうだ。第一打席では、ナインのだれもがあまり信用していない自称スイッチ・ヒッターぶりを披露したり、投げたあとからからだを大きく左へ傾けるカージナルスのギブソンばりのピッチングをみせたり(七回、近藤昭に打たれた中前安打は、あまりからだをかっこよく泳がせすぎて足をすべらせ、投ゴロが中前へ抜けたもの)とにかく昼寝したくなるような盛り上がりのない試合を一人で楽しんでいた。「もうそろそろ点をとられてもいいころと思っていた」六回をすぎてもいっこうにタイムリーが出ない。「ことしはじめて」という長丁場の七回にいどんで「はじめて完投(完封ではない)を意識した」という。「そんなに気をつけて球を散らしたわけやないが、うまく田淵がリードしてくれた。ここが今シーズンのオレの度胸のみせどころと観念して、いうとおり投げてやったんや」スピードは平凡、変化球も最優秀投手になった中日時代の切れ味はもうない。たよりは打者とのかけひきと度胸の二つしかないのだ。その度胸男がベンチをあわてさせたのが九回の守りだ。一死一塁で代打重松、というところで柿本は田淵を呼んだ。一塁ベースを指さしていたのは「歩かそうか」の相談だったのか。これをみた後藤監督。「冗談じゃない。オイ、カキ、勝負や、勝負ー」とびっくりぎょうてん。「中日時代から重松には相性が悪いし、あともう代打もいないようだったから」としゃあしゃあとしていたが、あのケースで二塁にわざわざ走者を進める手はない。昨年九月六日の広島戦以来の完封勝ちを前にして、やはり緊張していたのだろうか。阪神のヒットはわずかに三本だったよ、と聞かされ「エッ、三本?知らんかったな」とまた丸い目を開いて「知らんかってよかったわ」ということばが結びのひと声。もしこの日のダブルヘッダーに連敗すれば、大洋と入れ替わって三位転落の瀬戸ぎわに立っていた阪神。第一試合に勝ってそのピンチを脱した意義ある柿本の完封勝利だった。
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豊田憲司

2016-07-29 19:03:00 | 日記
1971年

からだは中型で、ピッチングもみた目もハデさはない。が、終わってみると、ちゃんと2点に押えるのが豊田の持ち味。強打自慢の松下電器も完全にそのペースにのせられてしまった。五番の内田は試合後も首をひねった。「ポンポンと投げ込んでくるので、テンポが全然合わなかった。コントロールはいいが、これといって驚く球はなかった。もっといい投手を打ち込んできたんですがね」豊田は芝工大出身で、会社では藤沢工場生産管理部に籍をおき、生産観察のデスクワークをしている。それだけに、ピッチング内容の説明も理づめでよどみなく、すらすらとやった。立ちあがりの1点は、都市対抗初登板ではりきりすぎて、下半身を使うのを忘れていたそうだ。終盤の二イニングで四安打されたのは「4点リードの気のゆるみがあり、無造作にストライクをとりにいったのをやられた」といいきる。それでも帳ジリは七安打2点。いすゞは前野(芝工大の後輩)古屋の好投手が補強されて強力投手陣になっているが、豊田にはエースのプライドがある。「でも、自分が五回までもてば、あとは彼らがいるから気楽な面もありますよ」というのも本音だろう。成田理助氏は「大型投手は完成するとプロへもっていかれるから、これからの社会人では、こんなタイプが買い目になる」とみている。1㍍76、70㌔、右投右打、二十三歳。
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岡田光雄

2016-07-27 20:38:49 | 日記
1969年

三原監督が終了と同時にベンチからとび出していって岡田と握手したすばやさは、すばしっこさでは相当自信を持っているカメラマンたちがあきれるほどだた。「シュートがよかったんです。投げた球はストレートが半分で、残り半分をちょうど二分の一くらいずつシュートとカーブを投げました。コントロールがよくなったのが以前と違うところでしょうね」それほど興奮したようすもなくいう岡田。「ひとことではとてもいえません」といったのは初勝利の感想を聞かれたときだ。「根性はたいしたものです。実力もさることながらびくびくしないあの度胸ですよ」とニコニコ顔で三原監督がほめた。度胸を買った結果がこの日の先発決定になったようだ。それも自信を持って送り出したのは前夜、試合終了後「あすのウチの先発ピッチャーを当ててみてください。みなさんの推理を楽しみにしています」岡田先発をにおわすような発言をしていることを裏付けている。それにこたえて岡田も試合前にこういった。「みなさん、きょうは先発ですよ。よろしくね」と堂々と先発を試合前一時間ほど前に発表していた。前夜いわれたのだそうだ。もっとも試合後は「あれは破れかぶれでいったのですよ。自信なんてそんなもの・・・」とはいったが、確かに並みの新人ではない。新人王候補などと騒がれたわりにスタートが遅れた。これまで四試合で2敗。欠陥は制球のなさにあったわけで、中原コーチに投げ終わったあとのフォームがそのたびに違うことを指摘されてから球道が定まったという。五月初めからファームに落とされて徹底的にしぼられた。昼間はウエスタン・リーグに出て、ナイターはネット裏から見てレポート作成といった試練の時期がつづいた。ウエスタンでは5勝無敗の成績を残して一軍ベンチへ。その間、力をためたあとの先発決定となったものだ。入団のとき「右の鈴木さんになりたい」といい、運動具店に「鈴木さんと同じ型のグローブをつくってください」と特別注文もした。「五回まではなんとかいこう」という気持でスタートし、八回の無死三塁では「2点リードがあるので、1点はやってもいい」と考えて、完投をねらった。近鉄にとって待ちに待った第五の投手。これまでに残した34の白星は鈴木(14)佐々木(9)清(6)板東(5)の四投手でまかなってきた。しかしオールスター前後からは連戦につづく連戦が予想される。バッキーが坐骨神経痛でしばらくは登板出来そうにないので、岡田の初勝利は大きな意味を持つ。「リリーフにはこと欠かなかったけど、これで先発投手もよくなりますね」と三原監督。東映の張本は「シュートが実にいい。だからカーブまで生きていた。堂々と攻めてくる」とほめ、四打数無安打の大杉は「三振のときのシュートがとくに印象に残った。ボールも速いね」といった。右中間三塁打した大下が「高めにこない。高めにきたのは三塁打した一球だけだった」と感心していたのが、立ち直った岡田をはっきりいい当てているようだ。
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国岡恵治

2016-07-25 23:30:32 | 日記
1969年

甲子園に一度もでてきていないためネーム・バリューはないが西の太田とスカウトに人気のあるのが国岡=1㍍83、73㌔だ。超大型なのに動きは機敏だし、希少価値のある左投手。バッティングもいいときては、とびつきたくなる。二年生のときからみているという広島・木下スカウトは「ヒノキ舞台を踏んでいないマイナスはあるが、とにかくスケールの大きい選手だ。フォームに野性味があるし、悪いクセがない。かならずどこかが一位に指名するでしょう」とへんな自信を持っている。三年生四百人中で知能指数は一位。学業成績もクラスでいつも五番以内、野球部員としては抜群の頭脳の持ち主だ。そのため一宮監督をはじめ学校関係者は大学進学をすすめたが父親義隆氏(48)=農業=は「経済的に無理だ。入学金や月謝を免除してもらっても、こづかいを仕送りしなければならないから・・」と、話のあった関大、近大、同大、法大を断っている。「プロ入りして家計を助けたい」というのが本人の希望。現在、阪神、東映をのぞいた十球団が一宮監督のところへ打診しにきている。中でも熱心なのは巨人と南海。同監督の話では巨人は伊スカウトが四回、内堀スカウトが二回。南海は内海スカウトがオープン戦にまでついて歩き、ことしにはいってから十回以上も足を運んだそうだ。だからといって、それにほだされたわけでなく「力を買ってくれる球団ならどこでもいい」と国岡はいう。プロから指名されなかった場合も考え、ノンプロの日本生命に入社を内定させているが、これはあくまでもすべり止めだ。この国岡のほかに四国には徳島商・松村、丸亀商・井原、八幡浜・藤沢と話題の投手が三人いる。松村は、二、三年生の春(選抜大会)連続で甲子園に出場。「堀内二世」とさわがれだしたのは耳新しい。しかし、今夏の選手権には腰痛と左足首の骨髄炎などでとうとう甲子園に姿をみせず忘れられかけた存在。しかし九月には故障もなおり、再びスカウト間で脚光をあびている。徳島商の森野球部長のところには、徳島からバスで一時間もかかる松村宅(徳島県阿南市加茂町)の地理を教えてほしいというスカウトからの電話が再三はいり、巨人の伊藤、産経・宇高両スカウトとは会って話もした。本人、父親守氏(47)はいずれも大学進学一本やりで「慶大を受験する」と同じ徳島商から慶大にいった西鉄・広野の父親から学校の内容を取材したとか。はじめは立大か明大を受けるといっていたが、どちらの大学のセレクションにも参加せず、近日中に森部長が上京して両大学に断るとともに慶大側に受験したいむね伝えることになっている。松村は国岡に負けずおとらず、徳島商入学のときは五百人中の二番で合格、今夏の予選が終ってからは市内の学習じゅくにかよって英語の特訓中で、学年で二十番前後とかなりの実力をつけている。森部長も「大学進学がかたい。いくらプロから指名されても試験にさえ合格すればまずいくことはないだろう」と見ている。ことしの選抜大会で剛球投手として注目された井原は、今夏の立大の練習に同僚の西川遊撃手と参加し、同大受験を伝えられている。しかし十月上旬、井原の調査をして丸亀から帰ってきた立大OBの産経・小山スカウトは「家庭(父親富士男氏、四国中央病院職員)の状況からいって進学は無理」と立大側に伝えている事実がある。だが、好永部長、竹内監督、本人とも「立大か慶大のどちらかに受験する。新学説がくずれたなどという話はデマです」と二十三日、立大側に受験する気持ちはかわっていないむねの電話を入れている。プロ側は「リストにははいっているが、将来性に欠ける」(広島・木下スカウト)という意見が圧倒的で、積極的に動いているところはない。むしろノンプロの誘いが活発で、富士鉄広畑、日本生命が丸亀通いをつづけている。無名だが、意外に人気のあるのが藤沢。八幡浜の監督を実弟がしていた関係で、六月に自ら乗りだしてきた阪神・藤本技術顧問を先頭に南海、中日、産経、ロッテ、巨人が名のりでた。1㍍73、65㌔とからだは小さいがスピード、球の切れは高校生ばなれしている。高原監督の話では「からだが小さいから、ノンプロでもう少し体力をつけてからプロ入りした方が・・・」と藤沢の父親がなくなるまで勧めていた日鉱佐賀関入社を決めてしまった。
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伊藤久敏

2016-07-25 21:52:39 | 日記
1971年

伊藤久ははっきりおぼえていた。そして誇らしげにいった。「たしかあれは阪神の優勝の望みを断つ完封だったですね」巨人と息づまるようなデッドヒートを演じていた阪神が、とどめを刺された昨年十月二十一日の対中日最終戦。そしてことしは、やっとの思いでこぎつけた勝率五割を「さあ、これから確保」という矢先に、また妨害役どちらも伊藤久がその年初めての完封勝ちだけに、阪神にとってはこれほどにっくき男はない。勝率を待望の五割に乗せた前日とは打って変わり、ニガい顔の村山監督とは対照的に、阪神キラーからは笑いが絶えなかった。「このところ3連敗と足踏みをつづけていたし、念願の10勝へ到達する意味でも、この1勝は大きい」横一線だった水谷寿、渋谷を一歩リードする9勝目は「百点満点」と自分で採点したほどの、ことし最高のピッチング。チーム内では指折りの好青年で「欲がないのが欠点」(江崎スコアラー)だが、宿舎(芦屋・竹園旅館)を出発する前から「きょうは完封できそうな気がする」という予告を実現させるしぶとさも持っている。もっとも、この日の好投は、水原監督からの「正面からぶつかれ」のアドバイスを守ったのがよかったらしい。「いつものように変化球でくると思っていたんでしょうよ」という伊藤久の言葉を裏付けるように阪神・梅本スコアラーは「いつもと違ってストレートが多かった。それも内角低めに実にいいコントロールで投げていた。あれではちょっと打てない」といっている。それでも伊藤久は自分だけの手がらにはしなかった。この日、久しぶりにコンビを組んだ駒大の一年先輩の新宅のリードをちゃんとたたえた。「一度も首を振らなかったくらいですからね。ぼくの持ち味をうまく引き出してくれました。全く大船に乗ったような気持ちだった」阪神にはことし六試合投げて1勝2敗だったが、二十九イニングで6失点。「六回のピンチで藤田平を迎えたときも打たれるような気がしなかった」これでプロ入り四完封のうち三つまで阪神からマークしているが阪神観についてはおもしろいことをいった。「打撃の方はなんとか押えられるが、投手がいいからあまり好きな相手ではないんですよ」ことしは念願のオールスターにも出場し、つぎの目標は10勝。「10勝目へ二十五日からの巨人戦でやりたいですね」ネット裏でメモをとる巨人・小松スコアラーは、マウンドの伊藤久をくいいるようにみていた。
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竹内広明

2016-07-25 19:48:15 | 日記
1971年

大洋が選択会議で第一位に指名した深谷商・竹内広明投手(18)=1㍍75、77㌔、右投右打=の入団が二十一日決まった。同日午後三時、平山スカウト部長、湊谷スカウトは群馬県群馬県多野郡新町の実家に同投手をたずね、父親・忠さん(42)母親和子さん(42)深谷商・赤坂監督らと話し合った結果、快諾を得た。同投手は日本石油に就職が内定しているが、同社の了解をとりしだい大洋と契約する。契約金は規定額の最高一千万円、年棒百八十万円とみられる。

まるで友人の家をたずねるような気軽さがスカウトにあった。大洋に指名されたとたんバンザイし胴上げまでされて、素直に喜びをあらわすルーキー。「お待ちしておりました」と両親が居間に招き入れた。一昨年が一位の荒川、昨年が二位の佐藤(現早大)と二年つづけてソデにされた大洋が、やっとめぐり合った和気あいあいの話し合い。「ぼくの気持ちはすぐにでもはいりたい」と竹内は早くも意思表示。父親の忠さんも「大洋に指名されて、みんなで喜んでいます」と、もう契約を終わったような喜びだった。一応、竹内の就職が内定していた日石にスジを通すということで入団発表は持ち越されたが、もう竹内は大洋ナインの一員としての抱負が口を出る。「体力だけはつけようと、毎日走っているんです」学校から帰ると、すぐ近くの鳥川ぞいに5㌔のマラソンと柔軟体操、ダッシュと、プロ選手としての第一歩をもうしるしている。北関東出身の本格派、その投げおろすスピードは堀内二世といわれているが、竹内は一日も早く平松二世になりたいと目を輝かせている。「ピッチングはもちろん、あの性格が大好きなんです。日石の人に聞いても、だれに聞いても、悪口をいう人はいません。ぼくも、だれからも好かれる大投手になりたいんです」夏の甲子園大会で顔をしかめ歯を食いしばって投げた。あの悲壮感はもうない。深谷商・赤坂監督の「第一位に指名されたのだから、恥しくない成績を残してほしい。なによりもコントロールを身につけるんだ」という激励に、大きく力強くうなずいた。お父さんは第一回国体陸上の群馬県代表選手、お兄さんは日大野球部の三年生、弟は来年、深谷商の野球部にはいる。スポーツ店を経営するスポーツ一家の代表選手。うわ背を心配した平山スカウト部長が、手をみせてもらい。話を聞くうちにだんだん笑顔が多くなった。「百㍍や野球のスパイクで12秒8で走る。バネがあるんだな。手の大きさも平松そっくりだ。ムードもあるし、楽しみな選手ですよ」女学生からのファンレターは、赤坂監督のもとでストップしているが、その数は数えきれないほどあるそうだ。「竹内にはスターのムードがある」とスカウト連中でささやかれたことしの選択会議。竹内の夢は大きい。「平松さんが入団した年に巨人に完封勝ちした。ぼくもああなりたい。一日も早く一軍のマウンドを踏んで、王さんや長島さんと勝負してみたいですね」居間の壁に誠と書かれた川上監督直筆の色紙があった。高校野球で大阪にいったとき、宿舎竹屋のご主人からもらったそうだが、その誠の色紙の前で竹内の打倒巨人の夢がひろがっていく。

平山スカウト部長「きょうはあいさつと大洋というチームの紹介に終わった。条件面は中部オーナーと相談して次回の交渉のとき提示します。竹内君は大洋に指名され大変喜んでいた。だから入団の堅い話というより、もう大洋の一員としての打ちとけた話し合いだった」

竹内投手「自分の気持ちはすぐにでもはいりたい。だれにも負けないようからだを鍛えて、一日も早く尊敬する平松さんに近づきたい。毎日5㌔ほどのランニングをして体力づくりに励んでいます。大洋の練習がきついといわれているので、なんとか追いつくためにも、これからもずっとランニングだけはつづけていきたい」

父親・忠さん「前から監督さんとこどもにプロ球団はまかせてあった。一番好きなところへはいれたので、みんなで喜んでいる。なんとか一日も早く一軍で投げられる投手になってほしい」
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松田光保

2016-07-25 19:02:00 | 日記
1971年

ロッテは九日午後二時から東京・新宿区大久保の球団事務所で、ドラフト六位指名の藤沢商・松田光保投手(18)=1㍍82、77㌔、右投右打=の入団を発表した。発表に先立ち、契約金四百万円、年棒百万円(いずれも推定)で契約書にサインした。同投手は、ことしのオープン戦で、春の甲子園大会で優勝した日大三高に完封勝ちしたことから、関東球界で注目を浴びた本格派。からだつきは「木樽そっくり」(田丸スカウト)というように、大柄で将来性を買ってロッテは一、二年間ファームで育てる方針。

松田投手「小細工しないで大きく伸びたい。木樽さんのような投手になるのが目標です」
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鵜沢達雄

2016-07-25 18:34:12 | 日記
1972年

大洋は十五日、鵜沢達雄投手の背番号を59からエース・ナンバーの18に変更することをきめた。大洋投手陣の救世主といわれ、十三日の対広島戦でプロ入りをあげた鵜沢は昨年は公式戦登板ゼロのプロ入り二年目、一躍新人王のダークホースに浮かびあがってきた注目の新鋭。「ストレートの速さなら日本一だろう」と首脳陣は大変な力の入れようだ。

なにも考えなくてもいい。捕手の伊藤は鵜沢がマウンドに立つとだまって手を振ればいい。ジャンケンのグー。ストレートのサインはグーで押し通せばいい。ストレートだとわかっていても、広島打線は打てなかった。「久しぶりに小気味のいい投手が出てきたな」と根本監督までがいう。広島の一、三回戦を通じて六イニング。奪三振は9だ。ストレートは一本もヒットを打たれていない。「堀内(巨人)よりも速い」と広島打線。堀内の高めのつり球を運んできたこの打線が、鵜沢の球にはついつい手が出る。それだけ速いということだろう。この快速球投手の出番で広島首脳陣の中でひともんちゃく起きたという。「廿九歳の少年があれだけ速い球を投げる。一年目は名前も聞かなかった投手が、なぜあれだけ成長するのか。われわれの指導方法も考え直さなければいかんかもしれん」鳴りもの入りで入団した佐伯は二軍戦でも打たれている。同じ十九歳だというのに・・。鵜沢は首脳陣の英才教育でここまできた。モヤシみたいなからだつきに特別食がつくられ、鉄アレイを持たされて馬力をつくってきた。「いいか、おまえの勝負は二年目だ。新人王をとってくれ」という願いが二軍の島田、稲川両ピッチング・コーチにこめられていた。月給は八万円だ。税金をとられると六万円ちょっと。球団支給の特別食がなかったら、とっくにネをあげていたところだ。合宿費と服装代をとられて、残るわずかの金で昨年、ステレオを買った。二十四万円もするため、もちろん月賦。遊びにいく金はない。クリフ・リチャードやダニエル・ピダルの歌を聞きながら、鵜沢はいつも思ったという。「来年になったらバリバリ投げて貯金通帳をつくるんだ」チャンスは意外に早くやってきた。広島第一戦が負けゲームで敗戦処理のデビュー。ツキまくったのは第三戦だ。5対5になったとき、最初の予想は佐藤元だった。ところがブルペンで九十球も投げている。平松は第二戦の予定外のリリーフで、この日は休養。山下は第一戦にKOされて気がめいっている。「エイッ、それなら鵜沢だ」と起用したところが、初勝利。もし、投手陣が足並みそろっていたら、鵜沢のデビューはもっともっとおそかったろう。バクチは大当たり。秋山コーチは「これから先発でどしどし使っていく」とほれ込んで、エース・ナンバーの18番を急きょ鵜沢に譲ることが決まった。「あいつのストレートにはかなわねえ」と平松がいう。「キャンプよりオープン戦、オープン戦より公式戦と、なんだか球がまた速くなってきたみたいです」と鵜沢が答える。「いまの江夏よりは速いだろう」というのが秋山コーチの結論だ。不安なコントロール、甘い変化球と課題はまだまだたくさん残っている。しかし、18番を手にしたことで、ひとつの望みはかなえられた。四畳半の部屋にどんと置かれたステレオも、いまは少し色あせてみえる。サイドボードの上にちょこんと乗っている一勝記念のウイニング・ボールがいまの宝物だ。「この記念のボールを二段いっぱいに並べたいですね。それなら新人王も間違いないでしょう」一段に八つはいる。すると16勝。球も速いが、いい心臓もしている。
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会田照夫

2016-07-24 21:14:33 | 日記
1971年

「ウイニングボールいるかい? 」と球をさし出すナインに「あたりまえだよ。初完封だもん」とズボンのポケットにいそいでしまい込んだ。会田と狂喜するスタンドには中学時代(埼玉県・春日部中学)に野球部入りをすすめてくれた恩師の茂木先生のうれしそうな顔もあった。「九回トップの中塚さんをうちとってはじめてこれでいけると思いましたが、それまではまさか完封できるとは思わなかったですよ。それにこんなに早い時期に完封で勝てるとも・・・」この二連戦の第一戦の先発は十日の阪神戦が終ったときにいわれた。この二日間雨で流れて、すっかり登板間隔(中七日)があき、この日もブルペンでの投げ込みがやや不十分で、かなり不安があったという。「しかし、投げてみなければわかりませんね。まっすぐのコントロールが自分でたまげるほどよかった。いつも立ち上がりが悪いのに、しょっぱな重松さんを三振にとったでしょう。あれで気をよくしたのかもしれません」いつも前半から荒れるのがクセだが、七回まで無四球の安全運転。この日の最大のピンチは八回の二死満塁だった。「いや、あれはこわかったです」と本人は冷や汗をかくようなポーズをしてみせるが、三原監督やコーチ陣が一度もマウンドに歩み寄らなかったほど、その心臓には信用がある。プレーはもちろん、人を食ったようなマスクモ、ふだんのふるまいもルーキーばなれしているというナイン間の評判。忘れもしない五月二十日の福井での巨人戦。あの劇的な広野の代打逆転サヨナラ満塁ホーマーを浴びたショックから、いやに早く立ち直ったのも「ぼくは投球フォームも、顔も変則だけど、なにごとにも変則なんですよ」とうそぶくずぶとい神経があったからだ。六回には追加点のタイムリーをたたき、投打のヒーローだが、東洋大時代にも投手ながら東都の打撃部門八位になったほど、もともと好打者。しかし、四回の一死一、三塁のチャンスにスクイズのサインを見のがしていたので「きょうは打者としては差し引きゼロ」と反省していた。これで3勝。うち完封1、完投1となると足ぶみをしている広島・佐伯をぬいた感じだが、新人王候補というさそい水には「まだ3勝じゃあ」とスラリとかわし「それよりきょうのダービーがあたっていれば最高だったんですがね」やっぱり変則のルーキーである。
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