プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

鵜飼克雄

2018-04-15 17:50:02 | 日記
1973年

城西中ー徳島商ー同大から四十五年四月に四国電力に入社。徳島商時代は一塁手として活躍、三年の春、夏の甲子園大会に出場したが、同大に進学してからは投手に転向。ストレートに威力がある本格派投手で四国電力に入社後四年目のことしはノーワインドアップ投法に切り替えて成功。フォークボールをマスターしてエースの座にのし上がり都市対抗、産業対抗大会でも好投している。

鵜飼克雄投手 「まさか一位で指名されるとは思わなかった。野球選手なら一度はプロでやりたいと思っていたが、正直いってあまり自信はない。年もとっているし、十月に子供が生まれたばかりで、どうするか家と会社に相談して決めたい。日本ハムについてはとくに知識はない。可能性は五分五分だ。」
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瀬戸和則

2018-04-15 17:38:14 | 日記
1974年

「ライバルは池谷」と闘志を燃やす本格派投手。

ドラフト会議で3位に指名され、その五日後には入団を決めた。それだけプロへのあこがれは強かったという。申し分のない体からくり出される速球を武器とする本格派。同じノンプロ出身者としてノンプロ界エースだった池谷にライバルとしてはげしい闘志を燃やしている。
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入江道生

2018-04-15 17:30:16 | 日記
1973年

広島がドラフト六位で指名したノンプロ九州生交の入江道生内野手(22)=1㍍78、72㌔、右投右打、博多工業出=の入団が五日決まった。同日午前中、野崎スカウトが熊本市内のプラザホテルで同選手と会い、最終的な条件を提示して了承を得た。

古葉をめざす九州男児

野球をするために生まれてきたような筋肉質。福岡出身の剛者。練習の大切さをよく知っているし、実際に常に若い人の先頭に立っている。古葉コーチの現役時代に似たタイプとして首脳陣の期待も大きい。
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中山孝一

2018-04-15 14:16:30 | 日記
1974年

南海の中山孝一投手(26)が十日、佐々木美穂さん(24)=章氏(55)長女=と福井県阪井郡三国町の専久寺で挙式する。招待された新山コーチは仏式の結婚式と聞いて「神社や教会のは列席したことがあるが仏式は初めて」と興味津々。ことしは10勝を期待されているだけに「中山もお嫁さんがいるのでうかうかできん。ことしこそ一本立ちしてほしい」と早くもはっぱをかけていた。
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外山博

2018-04-15 10:10:47 | 日記
1970年

外山博投手(22)は二十日、退団を申し入れた。理由は父親の家業を継ぐためで、球団はこれを了承し同選手を任意引退選手とした。また大西譲治投手(21)も退団を申し入れたが保留となった。
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プロ野球引退後職業

2018-04-15 08:59:03 | 日記
1968年

ノンプロとの交流がとだえている現在、ユニホームを脱いでサラリーマンに転向する選手は、野球選手としての特権はない。それでも就職難の中で、比較的ラクに転向できるのは、生存競争の激しい社会でもまれた強い精神力を評価されるだろうか。大洋が一昨年、ドラフト第一位に指名した岡投手。貴重な左腕投手として期待されながら二年間のプロ生活で、一度として桧舞台を踏まなかった。それでもかれは「自分がいまのように、こんなポストにつけたのも野球で養った強い精神力と、体力を認められたおかげだ」という。同氏は現在、弱冠二十歳で郷里福島の山田デパート営業第二部スポーツ用品担当主任として、売り場をきりまわしている。いきなり出世コースに乗った、こんな例は少ないが、それぞれ責任を持った仕事にたずさわっている。サンケイの渡辺一氏は第一広告会社の第一線セールスマン。これまであまり着用したことのないスーツにネクタイをきちんと着こなし、いそがしそうに飛びまわっている。阪急の佐々木幸氏は、いすゞ自動車の整備工場でソロバン。帳簿とにらめっこの生活・・・。なれぬ仕事に驚きながらも、かれらはかれらなりに誠意をこめた仕事をつづけ、上役から野球生活時代に味わうことのなかった将来性の目を向けられている。緑安全靴株式会社の係長におさまった大洋の森田コーチがいった。「野球とは違った仕事の楽しみがあります。まだお世話になって間もないので精神的に疲れますが・・・。時間的なユルミもなくなり、いまはからだにハリが出てきたようで、とにかく夢が出てきた。人間的な関係も野球界のように複雑なところがなく、一生懸命やっただけのことはちゃんとみてくれる人がいますから・・・」野球界の複雑な人事関係を、チクリと批判しながら、サラリーマンに転向した選手たちは、大きな目でみつめてくれる新しい社会で胸を張っている。同じサラリーマンでも、南海の鶴岡前監督の場合はその意味が違う。鶴岡さんは、来シーズン評論家として再スタートを切る。鋭い目で、各チームの試合ぶりを解説する鶴岡さんに、ファンは「楽しみが、またひとつふえた」と喜んでいるが、ふたたびユニホームを着るだろうから、一時的なサラリーマンとなる。
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相沢勝

2018-04-15 08:26:57 | 日記
1971年

トレード会議で近鉄に指名された相沢が午後、球団事務所をたずね、引退を申し入れ認められた。別府市で旅館業に専念するため。手続き上では近鉄の任意引退選手になる。
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皆木敏夫

2018-04-15 08:24:16 | 日記
1971年

日本シリーズの対阪急、山田、足立攻略用の練習台として貴重な存在だったサブマリン、皆木敏夫投手(日大桜ケ丘高出、四年目)が退団してゴルファーに転身する。同投手はすでに一日から東京・府中の石井富士夫プロについて修行中。
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大島忠一・小笠原正一

2018-04-15 08:04:39 | 日記
1971年

阪神も十日、新入団2選手を発表した。

捕手 大島忠一(22)=中京大、183㌢、78㌔、右投げ右打ち。
外野手 小笠原正一(25)=盛岡農ー盛岡日通、178㌢、78㌔、右投げ右打ち。

大島は名門・中京高から中京大に進んだ東海リーグ№1捕手。「肩とパンチ力」には河西スカウトが折り紙をつけ、昨年の4シーズン連続ベスト・ナインに選ばれている。とくにバッティングは長打と巧みを兼ね備え、今秋には打率・400でベストテン2位。通算7本と本塁打も多い。
小笠原は四十三、四十六年に盛岡鉄道管理局の補強選手として都市対抗野球に出場、クリーンアップを打ったシュアな打者。「自分の力を試してみたい」と二十五歳でプロ入りに踏み切った。先月結婚したばかりの正子さんを郷里に置いて「一日も早く阪神の戦力になること」が目標。
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松室武

2018-04-14 23:35:37 | 日記
1967年

南海ホークスは十八日、午後三時、大阪なんば、大阪球場内の会議室で、広島カープから移籍した大和田明、竜谷大・松室武、岐阜商・坂(ばん)英男の三人の外野手の入団を発表した。大和田は、手薄な外野陣の補強のため、金銭トレードで獲得した。身長1㍍76、体重76㌔、右投げ、右打ち。松室は、昨年、ドラフト会議で指名したが、あとで卒業までもう一年残していることがわかり、交渉権を放棄したいわくつきの選手。三十八年の九月、近大から竜大に編入学したが、これが関西六大学の野球規約にふれ、選手資格をはく奪された。竜大ではその後、コーチとして野球部に籍をおいた。そのため、ここ五年間は、硬式試合に出場していないが、岡村スカウトは「直球だけなら10本打てば8本、スタンドにたたき込むだろう。とにかくパンチはすごい」という。身長1㍍75、体重76㌔、右投げ、右打ち。坂はことし春、甲子園球場のセンバツ大会に出場した。百㍍11秒5という俊足の持ち主。バッティングは、伊藤スカウトが「下半身がしっかりしている。若いときの広瀬のような打者だ」と太鼓判を押している。身長1㍍76、体重70㌔、右投げ、右打ち。

松室外野手の話「待望の南海にはいれてうれしい。ことしはほんとうに長い一年だった。公式戦には出場できなかったが、春、秋のリーグ戦前のオープン戦には出してもらったので試合のカンはそうにぶっていないと思う」
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1968年 南海入団選手

2018-04-14 23:01:02 | 日記
1968年

南海ホークスは二十四日、大阪球場内の球団事務所で、近大・藤原満内野手(22)、星林高・東出康博内野手(18)、大阪電気通信高・中礼政博(ちゅうれい・まさひろ)投手(18)、西野田工・真部繁敏(まなべ・しげとし)投手(18)、津商高出、細谷保雄捕手(20)、早大・市原稔内野手(23)と正式契約したあと、入団を発表した。藤原は南海がドラフト会議で四位に指名した攻守走三拍子そろった遊撃手。初め四国電力に就職が内定していたが、南海の強力な勧誘に翻意、入団に踏みきった。右投げ右打ち、身長1㍍77、体重77㌔。東出はことしの春の選抜野球、夏の高校大会で三塁手として三番を打ち活躍した。南海はドラフト会議で八位に指名、交渉をつづけていた。右投げ右打ち、1㍍78、78㌔。中礼、真部の両投手、細谷捕手、市原内野手は去る一日、南海が中モズ球場で行なった新人採用テストの合格者。中礼は右投げ右打ち、1㍍74、74㌔。真部は右投げ右打ち、1㍍82、70㌔。細谷は右投げ右打ち、1㍍72、70㌔。市原は来年早大を卒業するが、野球部にははいっていなかった。右投げ右打ち、1㍍71、67㌔。背番号はいずれも未定。
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渡部司

2018-04-14 21:46:42 | 日記
1969年

中日・法元スカウトは二十四日午後零時三十分、兵庫県相生市石川島播磨重工相生工場を訪れ、中日がドラフト会議で第二位に指名した渡部司投手(19)=175㌢、74㌔、右投げ右打ち=とその関係者に指名あいさつを行なった。この日は第一回の会見のためあいさつの域を出なかったが、渡部投手は同夜さっそく宮崎市大字内海の両親の許へ電話して中日との初交渉を報告。また渡部の周囲にもプロ入りについて強い反対意見を持つ人がいないため、今後の交渉でスムーズに中日入りが実現しそうな雲行きだ。
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久野剛司

2018-04-14 20:02:32 | 日記
1966年

プロ1年目、何もかもが目新しく、吸収出来るものは全て吸収してやろうと思い、大張り切りでシーズン開幕を迎えた。デビューは4月18日、甲子園での対巨人3回戦である。リリーフ投手として登板、2/3イニングを投げ無安打、1四球と、チームは敗れたがボクは合格点をもらえた。この経験は多いに自信を与えてくれた。その後、8月20日、西京極で対広島16回戦に登板して3安打4三振2四球に押え、地元での初完封勝ちを飾った。この時はうれしくてたまらなかったし、プロに入ってよかった、としみじみ思った。今シーズンを省みると、成績は1勝6敗1分けだが、38試合に登板し投球回数93回1/3で奪三振36個、完封勝利1、防御率2.81とチームの中では村山さんに続いて五番目の成績を残せた。一年生としてはまあまあとは思うが、やはりもう少し良い成績を残したかった。しかしヒジの痛みもほとんど回復したので、来シーズンはベストを尽して投げまくる覚悟だ。そして、自分の力を試してみたい。若手投手の台頭が即優勝に結びつくわがチームにあれば、何が何でもガンバラにゃならないと今から闘志を燃やしているのである。ボクは昭和18年5月21日、戦争の真最中に大阪府八尾に生まれた。父(時松)母(節子)。九人兄弟の八番目で、多勢の家族の中でのびのびと育てられた。幼いころから野球が大好きで遊びといえば野球以外はしたことがないように思う。小学生の頃は近所の神社の境内に集まっては、ボールを追い、バットを振りまわすことで明け暮れた。ボクは無口な性格である。それというのも小学三年の時、病に倒れた母がこの世を去ってしまった。優しかった母がもう二度とボクの所へ帰って来ないとわかった時、ボクはどんなに悲しかったろう。今でもその頃がありありと目に浮かぶのである。
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久野剛司

2018-04-14 19:35:19 | 日記
1966年

男八人、女一人の九人兄弟。その中でも下から二番目の久野が父親時松さんの自慢だ。「小さいときからシンが強うて剛司とつけた名前がピッタリだ。一度自分で決めたらとことんやり抜く、そんな子です。おれ、プロにはいって投げまくったるというて阪神にとび込んだんですわ。初めはあまり相手にされんようだったけど、わたしはきっとやるやろうと思ってました」オープン戦はこの日で六試合マウンドに立った。打たれたゲームはまだ一度もない。「あまり期待できそうにない。第一ローテーションにはいれるかどうか・・・」といわれた前評判を打ち消して無失点記録を十六イニングまでスイスイとのばしてきた。ナインの中には早くも新人王というかけ声もある。だが久野はいたって低姿勢だ。「自信?まだちょっぴりです。監督だっていまのところはうまいことごまかしとると思っているんじゃないかな。大学時代に比べてストレートに切れ味がないんです。きょうはコントロールもようなかった。それにもっとすごい決め球をねらったところにピタッとほうれるようにならなくちゃ・・・」それでもたいへんな負けずぎらいだ。「高校出の石床に絶対負けない」といい、この日投げ合った東京六大学出身の渡辺にもファイトをもやした。「渡辺とは大学二年のときに東西対抗で顔を合わせたことがあるんです。このときはぼくの負け。だからかたきをとってやろうと思うて・・・。とにかく東京六大学の選手には負けたくない」この日は六回で石床と交代したが「投げつづければ完投できた」という。「もうだいぶなれてきた。ナインもみんなで盛りたててくれる。シュートとスライダーでゆさぶるピッチングにもある程度の余裕が出てきたし・・。点をとられる気がしないだろうって?そんなこともないけど、マウンドに立つたびにやれそうな気がしますね」今シーズンの目標はもちおん新人王。「タイトルを取るにはどうしても15勝はしなくちゃいかんでしょう。いまのところはその土台づくり。ここで力をみんなに認めてもらって、本番へのチャンスをつかむ。とにかく思い切ってやります。おやじにようやったとほめられる活躍をしなくちゃ・・・」15勝と新人王をねらって目を輝かせた。
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飯山正樹

2018-04-14 19:15:19 | 日記
1971年

柚木チーフスカウトは二十三日午前九時十七分大阪駅発の特急「しおじ」で広島入り、二位に指名した北川工高・飯山正樹投手(18)との交渉にはいる。この日、飯山家から電話連絡がはいったもので、同校理事長の北川実夫・府中市長宅で、父親の光明さん(50)=鉄工所経営=と会って一回目の入団交渉にはいる予定。
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