蚊の一刺しで涙の強制帰国
September 1997
担当プロジェクトの建設工事もほぼ完了し、あとは最終のコミッショニングと、運転の不具合点の修正だけとなった。プロジェクトマネジャー(PM)の指示で、プロジェクト関係者の帰国が始まった。
September 1997
担当プロジェクトの建設工事もほぼ完了し、あとは最終のコミッショニングと、運転の不具合点の修正だけとなった。プロジェクトマネジャー(PM)の指示で、プロジェクト関係者の帰国が始まった。
7月の初め、PMから「K君を8月に帰国させる。君はあと1年残ってオフサイトの面倒を見てくれ。」と内示をうけた。K君はもう5年になるので、私が残るのは当然予想はしていたし心準備もできていた。
(一緒に働いた面々)
(ローカルスタッフ達)
(優秀な部下ふたり)
7月9日少し熱っぽいので休暇を取りいつものクリニックに行った。オーチャード高島屋の8階 Sugino Clinic は、風邪、下痢等、シンガポールに来て以来しょっちゅうお世話になっている。Chineseの女医さんだが、ご主人が日本人で日本語ペラペラ、診療費も高いのでもっぱら日本人専用のクリニックのようだ。
この日も、「Hさん、今日はどうしたの。風邪のようですね、薬を出しておきますね。」と、ものの3分で終わってしまった。
その夜、熱が急に上がってきた。これはどうもただごとではない。
以前、ローカルの友達が薬を取りに行くのについていった病院が24時間営業だと言っていたのを思い出した。とりあえず、タクシーを呼び、病院に向かった。
ドクターは、症状を見てすぐ採血をすると言う。30分後、「血小板の数値が低くなっています。たぶん明日から数値がどんどん下がります。明日から毎日採血に来てください。会社は休んで安静にしていたほうがいいでしょう。たぶんデング熱(Dengue Fever)です。血液を専門の病院に送ります。結論はそれから出します。」
翌日、とりあえず状況をPMに電話して、しばらく通院するために休暇をもらった。それから、毎日通院して採血した結果を記録した。
この病気は、蚊に刺されたことで発病すること。通常300(×10^9 個/liter)前後の血小板の数値が100を切ると入院する必要がある。さらに50以下になると輸血の必要がある。直す薬はないので、自然に回復するのを待つ以外なし。血小板は血管の内面コーティングの役割をしているので、数値が減ると内出血が始まる。もしころんで頭を打つと非常に危険なので、100以下では入院して安静にさせるようにしている。
といったことをドクターから教わった。4日目の結果を見て、翌日はボーダーラインを切ると覚悟して、入院準備を整えて検査を受けに行った。案の定、そのまま入院することになった。
勤務先の事務屋に確認すると、入院費用に制限はないと言う。そこで個室を選んだ。シャワー、トイレ付き、まるでホテル並みだ。食事は、中華、洋食から事前に選ぶことができる。熱さえなければルンルン気分だ。ただ、デポジットとして、事前に2,800S$(約20万円)支払わされた。(結果的には4日間の入院費しめて約2000S$、余った分は返してくれた。)
とりあえず、入院の件を電話でPMに報告すると、「なぜ奥さんを呼ばんのだ。」と怒られてしまった。女房を呼んでどうなるものでもないし、すぐ退院できるだろうし、旅費もかかるし、と内心つぶやきながら聞いていた。
入院中の症状は、手、足、顔と赤くなり(内出血)、とにかく絶えられない程痒くなった。処方されたのは、解熱剤、かゆみ止めとビタミン剤だけ。採血と定期的な検診にくる看護婦、ドクターは毎日違い、こんなローカルの病院に日本人が入院するのがよほど珍しいのか、来るたびに「英語話せるの?」と聞いてくる。「No problem La.」 中国語はしゃべっても、日本語をしゃべる人なんか一人もいない。
幸い、入院3日目から血小板の値は急激に回復し、輸血をすることなく4日で退院することが出来た。
入院の間、本島の事務方のメンバーが見舞いに来てくれたが、島のプロジェクトメンバーは忙しいと見えて、見舞いなし。もちろんPMも、電話で怒られただけ。ただ、おせっかいなM君が、同期のよしみもあって、「ここの医者は信用できんから、血液の専門医にきてもらう。治ったら、日本になるべく早く帰れるようにしてやる。」と言って帰って行った。彼は、事務方では、副工場長クラスのVIPなので、その影響力を甘く見ていた。
まず、マウントエリザベス病院(シンガポールの大病院)から、本当に血液の専門医を呼び、1日の診察だけで600S$取っていった。そして、二週間の休暇を終えて出社すると、本当に帰国が決まっていた。代わりにK君を残すと言う。家族連れのK君はもうそろそろ帰れると家族共々帰国を心待ちにしていただろうし、私のほうは3年間ではやり残したこと(遊び足りない事?)が多く、ぜひもう一年居たかったのに皮肉なものだ。
M君いわく、「この病気は、2度目にかかると命を落とす。ある商社は、この病気に一度かかったら速やかに帰国させ、もう2度と東南アジア方面の出張もさせない。」この、大きなデマが、その後の自分に大きな影響を与えるとは、このときはまだ考えてもいなかった。確かに、シンガポールの法定伝染病ではあるが、7月だけで600人も発病しており、1月以来死者はひとりだけと言った事実も、完全に無視されてしまった。
帰国して、系列会社に出向することが決まったので、そこで仕事をするなら当然東南アジア方面の仕事があるはずなので、M君のデマを払拭するためにも、入院時にお世話になったドクターに事情を話して、この病気が大した病気ではないとお墨付きをもらってきた。
このレターを持って、まずPMに説明し、帰国の送別会でも内容を紹介した。もし、ここでまた同じような事例があっても、決してあわてて帰国させなくてもいいですよ、と力説した。事実、現在確認されているだけで、この病気には4種類の Virus があり、1種類をクリアした私の場合、抗体ができているので、ほかの人に比べて次に発病する可能性は3/4に減っている。むしろ、継続して現地に残る適任者のはずだ。しかし、事情は甘くなかった。
こうして、突然私のシンガポール生活は終わることになった。
帰国して出向先の役員の方に挨拶したとき、デング熱は完全に良くなったことを話し、変なデマは信用しないでほしいと説明した。しかし、とき既に遅し。体のコンディションを考慮されて(?)か、私には窓際の席が用意されていた。それから2年間、一度の海外出張の機会もなく、黙々とデスクワークをこなすだけの毎日が待っていた。
その後、出向先の会社の業績が悪くなり、2年で元の会社に帰された。それからは、シンガポールの経験を買われて(?)、色々な海外業務を体験できたのはラッキーでした。
(3年間過ごしたアパート テニスコート、プール付き)
(後日談)
アナフィラキシーショックという言葉を知ったのは、ずっと後のことです。
蚊に刺されて発症するデング熱も、2回目以降はアナフィラキシーショックで、ひどい場合は死に至ることもあるそうです。
2LDKのアパート(日本ならマンション)は、110m2と大きく、プール、テニスコート付きで、1階には売店もありました。贅沢な生活です。
しかし、一人で住むには退屈で、寝に帰るだけの生活でした。ほとんど、アフターファイブはなじみのカラオケ店に入りびたりでした。住居は箱の大きさだけではないことを実感した3年間でした。
その後、出張とサウジアラビアから帰国する途中で数回訪れましたが、初めての駐在経験でもあり、ここは第二の故郷です。
(おわり)
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