年を取ったせいか、最近神社やお寺に行くとなぜか気持ちが落ち着く。特に信心深いわけでも、はたまたどうしてもお願いしたいことがあるわけでもないが、都会の喧騒の中でも樹木に覆われた神社の境内などを見かけるとついつい入りたくなってしまう。その意味で、神社が醸し出す目に見えぬ何かに引き寄せられているともいえるが、いつかどうしても行ってみたいと思っていたのが日本全国に8万もあると言われる神社の本丸中の本丸、伊勢神宮である。50半ばにして初めてお伊勢参りをしたい衝動に駆られた。
名古屋にはたまに出張に来るため、どこかで一度外交後にと狙っていたが、ちょうど名古屋駅近くで15時前に外交が終わる日があったので、次の日仕事せず参拝と思い、そのまますぐに近鉄線の急行に乗り込み伊勢まで直行した。1時間半ぐらいだったと思うが、17時前には伊勢市駅に到着、そのままビジネスホテルへ直行と考えていたが、まだ、明るいので、(参拝は明朝だが)外観、雰囲気だけでも見ておこうと伊勢市駅から500m程しか離れていない外宮へ向かった。
外宮は、天照大御神の身の回りの世話(特に食事)をする豊受大御神を祭っているが、古事記によると、豊受大御神はイザナミから生まれた稚産霊(わくむすび)の子(その意味で言えば同じくイザナミから生まれたといえる天照大御神とは親戚)と言われ、元々は丹波で祭られていたものを、「天照大御神が一人だと安らかに食事をとることができない」と呼び寄せたのがその由来だという。神様が一人じゃ食事が寂しいとか、一神教の国では考えられない何とも人間くさい話が日本には多いが、この豊受大御神、単独でこれだけ立派な場所に、天照大御神(内宮に鎮座)並みに祭られているという点は大いに気になる。古代に実在のモデルがいたとすればそれは一体誰なのであろうか?
伊勢市駅から速足で一直線、10分も歩かず17時頃に外宮の入口の表参道に到着した。元々外観だけ見るつもりだったが、人影はまばらながら、これから入っていく人もいるではないか?守衛さんに「ここ何時で入場禁止ですか?」と聞くと、「今は18時までです。まだ十分間に合いますよ(なお、12月までは17時、1月は18時まで等時期によって時間は異なるので注意)」とのこと。
「ラッキー!!それなら今日この外宮を見てしまおう」とばかり、火除橋を渡って入場(宮?)した。この手の由緒ある場所は、長年駐在した中国だと、すぐに法外な入場料を取られること間違いなしだが、日本は入場料がないのが誠に心地よい。出だしから気分が違うのだ。
ところで、外宮はなぜか左側通行だという。ちなみに次の日行った内宮は右側通行だった。正式な理由は良く分からないが、ネット情報によると手水舎が、外宮は左側に、内宮に右側にあったから必然的にそうなったというようなことらしい。
それにしてもやはり、ここ伊勢神宮はその辺の神社とは格が違う。大木が整然と並んだ中で玉砂利を踏みつつ鳥居をくぐり抜け進んでいくこの荘厳さは何とも言えない。明治神宮などでも同様な経験しているが、都会の喧騒の中とはやはり全く違う。空気もとても澄んでいるように感じられた。平日で日没近く参拝客がまばらなのも荘厳さや心地よさの原因だったかもしれない。ただ、ネクタイ背広姿にジャケットを羽織っているだけなのでいささか寒さは身に染みた。
手水舎を横目に見ながら、2つの鳥居をくぐると、お札やお守りなどを売っている神楽殿に出る。一応何を売っているかぐらいのことを確認して前に進むと、いよいよ右手奥に正宮が見えてきた。
正宮の横には古殿地と呼ばれる大きな空き地があるがこれこそ、式年遷宮(20年に1度隣の敷地に正宮を建替える1300年続く慣習)で、2013年まで正宮のあった場所である。この式年遷宮、内宮、外宮の正宮はもちろんのこと、14の別宮の全ての社殿、鳥居までも造り替えて神座を遷す。2013年の式年遷宮の総費用はなんと550億円というから驚きだ。そのため、伊勢神宮には遥か昔の建物は残っていない。いや、残すシステムになっていないといった方が適切であろう。資源の無駄遣いという見方もあるかもしれないが、雇用創出や関連分野への経済効果、伝統継承者や建築ノウハウの保全等少なからずメリットもあるだろう。何より世界にこんな伝統が残っているのは日本だけであろうし。
正宮は一般の参拝では奥までは入れず、入り口でお参りするしかない(写真撮影ももちろん禁止)が、これまでの御加護に感謝した後、ぼーっと入口付近で遠くを見やり中の様子を想像するのも悪くはないと思った。神は遠い存在であるほど神聖という側面があるだろうし、良く見えない、分からない方が想像が膨らんで楽しいものだ。たとえは悪いが、恋人としてあこがれていた時の方が、実際に恋人となってすべてを知ってしまった時よりも、振り返ってトキメキを感じていたなどと思う人は多いだろう。それにしても豊受大御神に実在のモデルがいたとすれば、それは一体誰なのだろうか?
正宮参拝の後も、亀石を通って風宮、土宮、多賀宮などを参拝した後、北御門鳥居をくぐって外宮を後にした。ゆっくり歩いたが所要時間で50分ほど、閉門前に意外にあっさり見ることができた。表参道から伊勢市駅までの参道には日没が近づいたせいかランプがともり、菓子店やらレストランやらの看板が目立ち、ちょっとしたレトロな街並みになっていた。そのまま歩いて、線路の裏側にある駅近のビジネスホテルにチェックインした。
夜は伊勢の繁華街でも見てみようと、ホテルのフロントで、伊勢のにぎやかなところはどの辺か尋ねてみたが、フロントのおねえさんはうーんと困ったような顔をし、「伊勢には特ににぎやかなところもなく、夜も早いですよ。敢えて言えば15分ぐらい歩きますがこの辺り(新道)に飲み屋さんはあります」と全く薦めている風にも見えない。
まあ、今晩特にやることもないしと、その賑やかそうな新道に行ってみたがそこは典型的なシャッター商店街であった。シャッター通りの奥に少しだけ飲み屋が集中して点在しているところがあるが、それでもとても寂しいところだ。結局、また伊勢市駅の方に引き返し駅と外宮の間の参道にある居酒屋で夕食を取った。1人だったので注文したものが少なかったこともあろうが、海鮮料理は特にうまいとは思わなかった。ただ、締めに食べた伊勢うどんだけは印象的だった。驚くかな、この伊勢うどん全くコシがないのである。正直、個人的な感想としてコシのないうどんは決しておいしいとは思わなかったが、伊勢うどんがどんなものかは語れるようになった。あのコシのなさは決して忘れない。
次の日は、伊勢市駅からバスで20分ほどかけて内宮へと向かった。いよいよ天照大御神をお参りできる。外宮の雰囲気も良かったが、内宮はやはりそれに輪をかけて気持ちが良かった。入口の鳥居のところからして、何とも言えない神秘的な雰囲気が漂う。太陽神たる天照大御神だからというわけなのだろうか、朝の九時半ごろ到着すると、太陽が入口の鳥居の上からまばゆいほどの輝きを放っている。ダイヤモンド富士ならぬ、ダイヤモンド鳥居である。それに内宮の表玄関といえる五十鈴川に架かる宇治橋が何とも清々しい。
宇治橋を渡り終えた後、右手に進み手水舎の先の鳥居をくぐり抜けると、右側になだらかな下り坂があり、そこを進むと五十鈴川の御手洗場に至る。御手洗場と言っても用を足すトイレではない。本当に手を洗い身も心も清める場所である。五十鈴川はまさに清流そのものであり、手水舎のない時代は、参拝客はここで身も心も清めてからお参りしたらしい。
さらに鳥居をくぐって進むと、御神楽が見えてくるが、その先をさらに5分ほど進むと内宮の正宮である。最近、この内宮に祭られている天照大御神は、卑弥呼のことではないかという説を唱える有識者が現れているが、自分もはるか昔からそんな気がしていた。神話の世界は、必ずしも全くの作り話とはいえず、元々あった事実や人物が言い伝えの過程で、変化し神話化されていく例も少なくないと思うが、卑弥呼と天照大御神は共に女性であり、シャーマン的な要素があふれていて、神格化されていること、いずれにも弟がいるなど共通点があまりに多く、二人は同一人物との確信にも近い考えを持つようになった。その意味で、外宮に祭られている豊受大御神も誰か実在のモデルがいるのではと思っているのである。
内宮の正宮は、外宮の正宮同様、中には立ち入ることができず、あくまで入口付近から遠くを見るしかないが、背広姿の企業トップと幹部と思われる人たちの何組かが、一般参賀者が立ち入ることができない一歩先まで足を踏み入れお祓いをしてもらっていた。しばし、外宮同様、遠くから正宮を眺めた後、荒祭宮、風日祈宮等を参拝し、お守りを買って、お伊勢詣は取りあえず終了した。
伊勢神宮は今でも年間延べ約1000万人の人は訪れるともいわれているが、江戸末期の最盛期には、当時の日本の人口の5人に1人に相当する500万人近くが訪れたといわれている。東海道中膝栗毛等数々の物語の題材にもなっているお伊勢詣は、まぎれもなく当時の一般庶民にとって最大の観光スポットであった。この爆発的人気のお伊勢詣でに重要な役割を果たしたのが御師(おんし)と呼ばれる様々な願い事を神様に取り次ぐことを職務としている人々だった。
伊勢神宮の紹介サイトによると、江戸時代に2000人余りがいたといわれる御師は、仏教寺院にならって全国各地に檀家を持ち、その数は記録に残るだけで400万を超えているという。彼らの多くが伊勢神宮の周りに家を構え、お参りに来る檀家の参拝客を家に泊めてもてなしたという。御師の家は外宮の周りだけでも当時600軒はあったと言われる。今ほど家は分散していないだろうから、さぞかし伊勢神宮の周辺は賑やかだったと思う。また、伊勢詣でに際しての旅の行程や宿泊施設、食事や娯楽プログラムを含め、お伊勢参りをアレンジし、アドバイスした御師たちこそが、日本における旅行会社や旅行ガイドの元祖だったといえるのではあるまいか。
お伊勢詣での後は、ガイドブックに従って、内宮の入り口から五十鈴川沿いに連なるおはらい町へと向かった。800mに渡って伊勢ならではの切妻、入母屋風の土産物屋や飲食店がひしめくおはらい町は、江戸時代にはすでにお伊勢詣の人々で大変な賑わいであったという。バスも電車もない時代に、多くの参拝客が全国各地から数百キロも歩いてきたわけであり、お参りが成就した暁にはさぞかしほっとしたり、感動したと同時に疲れもどっと出たに違いない。そんな過酷な道中をしてきた参拝客がようやくリラックスして食事を取り、休息し、宿泊したのがこのおはらい町だったのであろう。
赤福で一休みした後、おかげ横丁に入っていくと結構な賑わいである。何かと思いきや前に進むと、この日は節分で、近隣の子供たちが豆まきで鬼をやっつける活動をやっていた。豆を観光客にも配っていたので、私も豆をしこたまもらい、鬼にぶつけようと思ったが、子供たちの手前、大の大人がみっともないと思い、結局豆はすべて自分の口の中へ放り込んだ。柔らかくて結構うまかった。
もと来た道を内宮入口のバス停方向に戻る道すがら、しぼりたての「生原酒」(1杯300円)を飲ませてくれる店を見つけ、一杯いただいた。うまい!そういえば何かのTV番組でこの店は見たとの記憶がある。カウンターに立っていた中年のおにいさんに「この店テレビに映ってましたよね」と尋ねると、「私がその時出演して説明してました」との回答。この生原酒本当においしかったので買って帰ろうと思ったが、残念ながら非売品で、ここでしか飲めないとのことであった。
赤福餅で小腹がすく程度だったので、昼ごはんは「てこね寿司」とやらを食べた。鰹か鮪を醤油漬けにしたものを寿司飯に合わせて食べるもので、漁師の賄飯だったらしい。鉄火丼との違いは鮪が先にたれにつけてあるかぐらいなもので、それほど珍しい食べ物という感じはなかったが、一応地元料理の定番で、看板はあちこちに見かける。
昼飯を食べて内宮のバス停に到着すると、一台のバス(鳥羽行き)がちょうど停車していて、夫婦岩経由とあった。元々、夫婦岩に行くつもりはなかったがガイドブックで見覚えがあったので、そのバスに衝動的に飛び乗った。バスに乗って改めてスマートフォンで改めて夫婦岩なるものを検索しているうちに、前方に結構大きな城が見えてきた。え、こんなところに城なんかあったかな?と思ったら、ここは安土桃山文化村というテーマパークで、安土城を原寸大で再現しているとのこと、城は結構嫌いではないので一瞬下りて見学したい衝動に駆られたが、周りは小山と田園風景が広がる場所で、交通手段が心配だったので、安土城は次回のお楽しみで取っておくことにした。
「夫婦岩東」なるバスストップで下車し、歩いて夫婦岩へと向かったが、この日は結構強風が吹き荒れていて顔が引き裂けそうに冷たかった。夫婦岩という呼び名の岩は全国にあるらしいが、ここ二見興玉神社にあるものが、日本で一番有名だという。
男岩、女岩の大きさは歴然である。夫婦といえば夫婦だが、親子と言えば親子岩にもなる感じだ。神社側から見ると伊勢湾から、伊勢志摩サミットが開かれる賢島までが見渡せて誠に風光明媚な場所である。なお、二見興玉神社に祭られている猿田彦大神の神使は蛙で、夫婦岩の近くに蛙石と呼ばれる石もある。蛙の「カエル」に無事に帰る、お金が返る等の良い意味での験を担いで、二見興玉神社でもこの周辺の家の周りでも蛙の焼き物を数多く目にした。
夫婦岩を後にし、二見浦の松原や風情豊かな旅館街を経由し、JR二見浦駅まで20分ほど歩いた。駅で切符を買おうとしたが、切符売り場はしまっており、自動販売機もない。外のタクシー運転手にどこで切符を買うのか聞いたところ、ここは電車に乗ってから切符を買うとのこと。そういえば、この駅改札には駅員すらおらず、出入りも全く自由なようであった。そしてタクシー運転手の言う通り、電車に乗ると車掌が来て切符を買う、誠にのんびりとした光景だ。
二見浦駅からJR快速でのんびり名古屋まで、そして名古屋からはいつも通り新幹線で東京へ。普段着を持っていかなかったため、背広を着たままだったのがいささか不便ではあったが、念願のお伊勢参りを終え、充実した旅であった。
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